安心感
明け方の初鹿野家。
昨夜、母に「明日の朝ごはんは僕に任せて」と約束していたため、悠月はまだ薄暗いうちに起き出していた。
最初は「せっかくのお休みなんだから、ゆっくり休んでていいのよ」と母に言われたものの、結局は譲らない悠月に母が根負けした。
悠月にとって、親が元気でいることは自分の睡眠よりも大事だ。少しでも長く眠れるなら、早起きくらいどうってことない。
それに、県外で一人暮らしをしている悠月にとって、料理なんて日常茶飯事のこと。面倒に感じることももちろんない。
それからしばらく経ち、朝日がリビングを照らし始める頃。親の好みに合わせた朝ごはんはすでに完成していた。
仕上げにコーヒーを淹れていると、ちょうど親が起きてきた。
「おはよう」
「おはよ。朝ごはんとコーヒー、できてるよ」
「もーう、昨日は自分が作るって言ってたのに。でも正直、月ちゃんの料理を食べるのも久しぶり」
「ほら、そんなにのんびりしてると仕事に遅れるぞ」
父はいつも通り、起きるとまず新聞を読む。
「はぁーい」
明るく返事をすると、母はご機嫌に鼻歌を口ずさみながら洗面所へ向かった。
ごはんを食べながら、悠月はアルバイトを探そうとスマホを手に取った。
「月ちゃん、ごはんの時はスマホは見ないで」
「あっ、悪い。ちょっとバイト探してて」
悠月は普段、大学に通いながらアルバイトもしている。
今回の春休みも無駄にはせず、この期間に少しでも親の負担を軽くしようと考えていた。
そんな息子を見て、母は小さくため息をつく。
家族だから分かる。この子が頑張る理由は、きっと自分のためじゃない。
そんな『誰かのために生きる』生き方を見ているだけで、なんだか疲れそうだ。
「あんたね、家計のことなんて心配しなくていいのよ。せっかくの休みなんだし、ゆっくりしなよ」
「僕はただ、自分にできることをやりたいだけ」
「もーう、本当に頑固だなぁ……お父さんも何か言ってよ」
「やりたいことがあるならやればいい。ただし、無理だけはするなよ」
「ほら、父さんもそう言ってる」
味方のいない母は、こっそりと父の足を踏もうとした。
だが父はまるで予知していたかのようにひょいと足を引っ込める。そして何事もなかったように、平然とコーヒーを飲む。
悠月はテーブルの下を見なくても、母のふてくれた顔だけで大体の状況を察した。
思わず、苦笑が漏れた。
朝ごはんを終えると、親は仕事へ出かけた。
悠月は家事を済ませた後、リビングでアルバイト探しを続けた。
いくつもの求人を眺め、条件を比較した末に、とりあえず一件だけ応募してみた。
時計に目をやると、病院の面会時間が近づいていた。
お見舞いに行く支度をしながら、ふと窓の外へ目を向ける。
昨夜のうちに雨は上がっていたが、空は厚い雲に覆われ、太陽の姿は見えない。
今朝の天気予報によれば、こんな天気はしばらく続くらしい。
この陰鬱な空模様は、気分までも沈ませるだろう。特に患者にとっては。
悠月は星絵と話すことで、寂しさに押し潰されず、暗い気持ちを抱く時間を少しでも減らせたらいいと考える。
ただ、アルバイトを始めれば、星絵のそばにいられる時間は減ってしまう。
しかし、親の負担を少しでも軽くしたい気持ちもある。
どちらがより良い選択か、悠月は少し迷っている。
もし自分がいない間も誰かが姉の話し相手になり、寂しさに沈まないよう支えてくれたら、と悠月は願った。
すると、まるで神様がその願いを聞いてくれたかのように、病室から楽しそうな声が漏れ聞こえる。
ドアを開けると、星絵のベッドのそばでひまわりがにこやかに雑談していた。
音に気づいた二人が同時にこちらへ顔を向ける。
「ほら、やっぱりこんな朝早くから来てたんだ」
「うわぁ……あなた、本当にシスコンなんだ」
「僕がいない間に、一体何を話してたんだよ……」
シスコン呼ばわりされても、姉の顔に浮かぶ笑みを見れば、気にする気にはなれなかった。
「それにしても、本当にお見舞いに来てくれたんですね……あと、お見舞いの品もありがとうございます」
悠月はそう言いながら、床頭台の上に置かれたフルーツの盛り合わせへ目を向けた。
「私は約束を守るタイプだから。これからもお見舞いに来るつもりだよ。もし迷惑じゃなければ」
「迷惑なんて全然。一人で病院にいるのって退屈だし、話し相手になってくれる人がいると本当に嬉しい」
話を聞いて、悠月は少し安心した。
これでもう姉が一人で寂しい思いをする心配はなさそうだ。
「あ、そうだ、姉ちゃん。うまくいけば、近いうちにバイトを始める」
「せっかくの長い休みなのに、またバイト?普段からバイトしてるでしょ?少しはゆっくりしたくならないの?」
「大丈夫。もうそういう生活リズムには慣れてるから。それに、ひまわりさんが姉ちゃんの話し相手になってくれるなら、一人で退屈する心配もなさそう」
「もーう、あんたねぇ……」
いつもの星絵なら、悠月がまた自分の体を大事にしていないと分かれば、迷わず軽く頭を小突いていたはず。
けれど今は手を伸ばしても届かない。
「悠月さんはいいなぁ、絵ちゃんみたいな優しいお姉ちゃんがいて」
仲睦まじい姉弟のやり取りを見ながら、ひまわりはにっこり微笑んだ。
「ひまちゃんは一人っ子なの?」
「そうよ。だから小さい頃からずっと、お姉ちゃんがいたらいいなって思ってるんだ」
「じゃあ、うちの妹になってくれる?」
突然の爆弾発言に、水を飲んでいた悠月は盛大にむせた。
平穏だった心が、たったそれだけの言葉で簡単に揺らいでしまった。
「ちょ、ちょっと!姉ちゃん、それってどういう意味!?」
初めてこんなに動揺している悠月を見て、ひまわりは堪えきれず笑い声を漏らした。
「ん?そのままの意味だけど?」
「ありがとう。でも、やっぱりそれは遠慮しておくね。悠月さんは絵ちゃんが自分だけのお姉ちゃんでいて欲しいみたいだから」
「へぇー、そうなんだ?」
「……だるっ」
そう言われると、さすがに少し照れくさい。けれど、なぜか否定の言葉は出てこなかった。
悠月自身も、もしかして本当にシスコンなのでは……と思ってしまう。
(……いや、違う)
よく考えたら、別にそういうわけじゃない。
ただ、ちょっと家族を気にかけすぎてるだけ。そう、きっと。
ひとしきり話した後、ひまわりはそろそろ自分の病室に戻る時間だと気づいた。
すると星絵が、彼女を送っていくよう悠月に頼んだ。
病室を出たひまわりは、手を後ろで組みながら、どこか気楽そうな顔を浮かべている。
「いや〜、楽しすぎてつい時間忘れちゃった。また抜け出したってバレたら怒られるかも」
「怒られるって分かっているのに、どうしてこんなことをするんですか?」
別に彼女に興味があったわけじゃない。
ただ、なぜわざわざ面倒ごとに首を突っ込むのか、それが理解できなかっただけ。
「まぁ、反抗期ってことにしといて」
そう言って笑う彼女の表情を見て、悠月は何か事情があるのだと察した。
だが、本人が話す気がないのなら、それ以上は聞くつもりはない。
「ね、さっきお姉ちゃんがいるのが羨ましいって言ったけど、あれは嘘じゃないよ。その理由、興味ある?」
「いや、全然」
「私はね、小さい頃から厳しい教育とか、将来のことばっかりで、あんまり子供らしい時間を過ごせなかったんだ。だから、ずっと思ってる。もし、この重圧を分け合えたり、何でも話せるお姉ちゃんがいたら……きっと、違う人生を送れてたんじゃないかなーって」
興味ないとはっきり言ったはずなのに、まるで聞こえなかったかのように無視された。
「ですが、もしかしたらご家族は、君を愛しているからこそ、期待しているのかもしれません」
「愛か……私には、そうは思えない」
その声は驚くほど平坦で、感情の揺らぎを感じさせなかった。
まるで、そんなことはもうとっくに気にしなくなったかのように。
悠月はそれ以上何も言わなかった。
何しろ、彼は自分に他人の家庭のことに口を出す資格などないとちゃんと分かっている。
「さっき病室にいた時より、ちょっと真剣な顔になってるよ。ごめんね、心配させるつもりじゃなかったんだけど」
「別に心配していたわけではありません。ただ、他人の前ではこういう顔をするだけです」
「でも、なんだか昨日とは少し違う気がするんだけど?」
「気のせいです」
「そうなんだ……じゃあ、そういうことにしておくよ。話聞いてくれてありがとう。もう着いたよ」
ひまわりは421号室のドアを指さした。
「またね」
ひまわりがドアを開けて病室に入っていくのを見送ると、悠月は背を向けて立ち去った。




