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気にしていません

 病院に入る前、ひまわりはフードを深く被った。


 まるで自分の存在を隠すように、悠月の肩に触れそうなほど距離を詰めて歩く。うつむいた横顔は影に沈み、表情は読めない。


 通りかかった看護師を見つけた悠月は、ひまわりを任せようとそちらへ足を向ける。

 だが、それに気づいたのか、ひまわりがそっと袖を掴んだ。


 弱々しく首を横に振り、「やめて」と訴えるような目で見上げてくる。


「……ご両親か、保護者の方がどこにいるか分かりますか?」

「たぶん病室にいると思う」


 そうして二人は、この微妙な距離感のままエレベーターへ歩いていく。



 乗り込むと、ひまわりはようやく横へ身をずらし、悠月との間に少しだけ距離を空けた。


「ごめんね、さっきはあんなに近づいちゃって」

「大丈夫です。気にしていません」

「……理由を聞かないの?」

「じゃあ、どうしてなんですか」


 悠月は別に気にしていない、ただ適当に相槌を打っただけ。


 しかし、ひまわりはその素っ気ない口調を聞くと、ふと顔を上げて悠月をじっと見つめている。


「なんか、全然興味なさそうだね」

「……」

「私のことに全然興味ない人ってすごく珍しい」

「どうやら、お姫様みたいに大事にされて育ってきたんでしょうね」

「でも、あなたにそんな風に冷たくされるの、意外と嫌いじゃないかも」

「……君、ドMなんですか?」

「さあ?どうだろうね〜♪」


 エレベーターは4階で止まり、到着音が響いた。


 偶然なのか、ひまわりが向かう先も星絵の病室と同じフロアらしい。


 扉がゆっくりと開いていく。

 その先にいたのは、一人のOL風の女性。


 直前まで楽しそうに笑っていたひまわりの表情が、一瞬で凍りつく。


「母……さ……ん?」


 怯えたような呟きを聞き、悠月は目の前の女性が彼女の母親なのだと理解した。


 だが。


 ようやく娘を見つけた喜びなど、その顔には微塵も見えない。

 むしろ怒ったようにひまわりの腕を掴み、彼女の気持ちを顧みず、無理やり連れ去ろうとする。


 その光景を目にしても、悠月は顔色一つ変えなかった。


 巻き込まれまいと静かにエレベーターを降り、ポケットからスマホを取り出して現在時刻を確かめる。



 病室に戻ると、ちょうど回診を終えた医者と看護師が外に出てきたところだった。

 悠月はその場で、星絵の容態について尋ねた。

 医師によれば、星絵は免疫機能が弱まっているため、回復はかなりゆっくりだという。さらに、いくつかの問題から入院による観察と治療が引き続き必要だ。


「おかえり」


 状況はあまり楽観できるものではなかったが、星絵は何事もなかったかのように笑顔を向けてきた。


「あの子はもう母親に連れて行かれた」

「お疲れ様。相変わらず頼りになるね」

「姉様の頼みなら、どんなことでも全力でやり遂げるから」

「はいはい、偉い偉い」


 星絵はそっと悠月の頭を撫でる。

 その仕草に、幼い頃の記憶がふと蘇り、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「僕もう子どもじゃないんだ」

「お姉ちゃんにとって、月はずっと子どもだよ」


 文句を言いながらも、猫のように大人しく頭を撫でられ、全く抵抗する気配はなかった。



 星絵が一人で病室にいれば、きっと退屈したり寂しくなったりする。何しろ彼女は寂しがり屋だ。

 だから悠月は、今日の面会時間が終わるまで病院に残るつもりだった。どうせ他に予定もないし。

 たとえ早く帰って休めと言われても、従う気などなかった。


 ただ、寝不足と天気のせいで、まぶたがやけに重い。今にも眠ってしまいそうだった。

 眠気を追い払うため、悠月は廊下の自販機へコーヒーを買いに向かった。


「よっ、兄さん。一人なの?」


 缶コーヒーのボタンを押したちょうどその時、どこか聞き覚えのある、けれどわざと低めに抑えたカッコつけた声が背後からした。


 振り返ると、帽子を深くかぶり、サングラスにマスクまでつけた病衣姿の人物が立っていた。


 そんな変装じみた格好でも、悠月には分かる。こいつが誰なのか。


「またお会いしましたね」

「やぁ〜、こっそり抜け出してぶらぶらしてたら、また会えるなんて思わなかった」

「またいなくなったら、もう探すの手伝いませんよ」

「後でちゃんと戻るから。その前に、ちょっとお喋りしない?」

「すみません、もう戻りますから」

「そっか……じゃあ、また今度ね」


 ひまわりは残念そうに小さく息をつき、踵を返した。

 振り返ることなく遠ざかっていくその背中が、どこか寂しげに見えた。



 病室に戻ると、星絵はすでに眠っていた。


 起こさないよう、悠月はそっと足音を忍ばせて病室を出る。


 手持ち無沙汰のまま廊下を歩いていると、掲示板に貼られた一枚の案内が目に留まった。


 『屋上庭園 ご自由にご利用ください』


 この病院には何度も来ているのに、屋上庭園があるなんて初めて知った。


(どうせ暇だし……景色でも見に行くか)


 そう思い、悠月はエレベーターへ向かった。



 屋上庭園に足を踏み入れた瞬間、冷たい風が吹き抜けた。

 厚着のおかげで、寒さはあまり感じなかった。


 見渡してみると、雨と霧に覆われた景色はぼんやりとして、遠くはよく見えない。

 それでも、この場所の雰囲気はどこか心地よく、悠月はもう少しここにいようと決めた。


 だがその時、テラス屋根の下のベンチに、まだ誰かがいることに気づく。

 その病衣と艶やかな黒髪、ついさっき見かけたばかりだ。


(またあの子か……)


 そう思いつつも、悠月はわざわざ声をかける気はなく、少し離れた場所にあるベンチへ腰を下ろした。


「まさか、その『今度』がこんなに早く来るなんてね」


 音は立てなかったはずなのに、それでも気づかれてしまった。


 悠月は特に説明もせず、ただ黙っている。


 缶のプルタブを開ける音が降り続く雨音の中で微かに響く。


 コーヒーを一口飲み、雨に煙る景色をぼんやりと眺める。

 雨音に耳を傾けるうち、心がふっと和らいでいった。


「さっきエレベーターで見苦しいところ見せちゃって、ごめん。うちの家庭って……あんな感じだから」

「いえ、特に気にしていませんから」


 まるで悠月がそう言うと予想していたかのように、ひまわりは苦笑した。


「そういえば、あなたのお姉さん入院してるんだよね?大丈夫?」

「はい、大丈夫です。ご心配ありがとうございます」


 こんなことを詳しく話したところで意味はないし、そもそも説明する気にもなれない。

 星絵なら、きっと同じように答えていたはず。小さい頃から、どんな苦しみも決して自分から打ち明けようとはせず、いつも他人に心配をかけまいとしてきたのだから。


「お見舞いに行ってもいい?」

「もしお姉ちゃんの話し相手になってくれたら、きっと喜ぶと思います」

「じゃあ、病室番号、教えてもらえる?」

「411号室です。そちらは?体調、大丈夫なんですか?」


 悠月は家族以外のことには正直あまり興味がない。ただ、話の流れに合わせて軽く尋ねてみただけ。


(まぁ……こうして元気にうろうろできるってことは、大したことじゃなさそうだな)


「私?平気だよ。だから病人扱いしないでね。……ん?もしかして心配してくれてるの?」


 ひまわりはくるりと顔を悠月の方に向け、いたずらっぽい笑みを浮かべた。


 美少女にそんな笑顔を向けられても、悠月の表情は一切変わらない。心の中には何の波も立たない。


「いや、別に。ちょっと聞いただけです」

「それはちょっと悲しいなぁ」


 彼女は足をブラブラさせながら前を向く。少しも悲しんでいるようには見えない。

 悠月はそれが本気なのか冗談なのか考えようともしなかった。


 もう一口飲もうと缶を傾けたが、すでに空になっていることに気づく。


 雨景色にも飽きたし、コーヒーも飲み干した。ここに残る理由はもうない。

 それに、カフェインは効かず、疲れも眠気も取れない。

 このまま、ひんやりと心地よい空気の中にいたら、本当に寝てしまいそうだ。


「そろそろ失礼します」

「あっ、もう帰っちゃうの?私はもう少しいたいから、またね」


 女の子をこんな場所に一人で置いていくのは、さすがに悠月でも少し気が引ける。

 もし何かあれば、自分も面倒に巻き込まれるだろう。

 ……とはいえ、この天気と時間帯に、わざわざ屋上へ来る人なんて他にいないはず。

 だから大丈夫。たぶん。

 悠月はそう思うことにした。

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