春、雨、色のない世界
黒い雲に覆われた空から、しとしとと雨が降り注いでいる。
窓を叩く雨音とラジオから流れる懐かしいメロディが、車内の狭い空間で心地よく溶け合っていた。
後部座席にもたれかかる男――初鹿野悠月は、ドアに頭を預けたまま、ゆっくりと瞼を閉じていく。
大学が春休みに入り、今は実家へと向かう途中だった。
今回の帰省には、もう一つ、彼にとって大事な目的がある。
それは、入院している姉を見舞うこと。
悠月の姉は、リ・フラウメニ症候群という病気を抱えている。
それはDNAの修復機能がうまく働かず、さまざまな部位でがんを発症しやすくなる遺伝性疾患だ。
数日前、とあるがんが早期に発見され、手術を受けた。
幸い手術は成功したものの、経過観察と療養のため、しばらく入院が必要だ。
こんなことは、これまでにも何度かあった。
悠月にとって、家族は何よりも大切な存在。
だからこそ、必死に勉強して医学部へ進んだ。いつか、今はまだ治療法の見つかっていないその病気を治すために。
それと、学業の傍ら家計の負担を少しでも減らすためにアルバイトもしている。
大変なのは確かだが、それでも家族のためなら、弱音を吐いたことは一度もない。
ただ昨夜だけは、さすがの悠月も限界だった。
仕事が長引いたうえ、帰宅してからは荷造りまでしなければならなかった。
そのせいで、ほとんど眠ることができていない。
さらに雨の日というものは、どうにも眠気を誘う。
気を抜いた瞬間、意識は深い眠りへと沈んでいった。
どれくらい眠っていたのか分からなかった。
運転手の呼びかけで、悠月はようやく目を覚ました。
窓の外を見ると、タクシーはすでに実家の前に停まっていた。
まだ少しぼんやりした頭のまま料金を支払い、雨の中へ足を踏み出した。
片手で傘を支えながら、ポケットの中から鍵を探す。
やがて見つけた鍵で玄関のドアを開け、家の中へ入った。
けれど。
「おかえり」と迎えてくれる声はなかった。
それも当然だ。
今日は平日。両親は仕事に出ている。
そして姉は、まだ病院の中だ。
静まり返った家の中に、悠月の足音だけが小さく響いた。
荷物を自室に置くと、またすぐに家を出た。
家から病院まではそう遠くない。だから悠月は歩いて行くことにした。毎回タクシーを使っていては、さすがに出費も馬鹿にならない。
雨は降り続き、傘を叩く雨粒が重みのある音を響かせる。
雨に混じった土の匂いが空気中に漂い、その清々しい香りがどこか人の心を惹きつけ、気持ちも不思議と柔らかくほどけていくようだった。
幼い頃から通い詰めていた駄菓子屋の前を通りかかると、悠月はふと時の流れの速さを実感した。
昔、ここで安くて美味しいお菓子を買っていたちびっ子は、気づけばもう大人になっていた。
店に足を踏み入れると、カウンターの奥で煙草をくゆらせ、新聞を読むおじいさんが目に入った。
何年経っても、相変わらず禁煙はしていない。
「おや、これは初鹿野んとこの坊じゃないか?いやぁ、ずいぶん久しぶりだなぁ」
「お久しぶりです。相変わらずお元気そうで何よりです」
「相変わらずイケメンだろ? もうジジイだけど、最近じゃ若い子にカッコいいなんて言われたりしてな」
悠月は家族以外の相手には素の自分をほとんど出さない。
今のように、別に面白いと思っているわけでもないのに、愛想笑いだけを浮かべてやり過ごす。
「なんで急に帰ってきた?確か京都で大学に行ってるんだろ?」
「今、春休みですから」
「学生っていいよなぁ。長い休みがあって。暇だったら、たまにはこのジジイのところに遊びに来てくれよ。一人で店にいると、ちょっと寂しくてな」
「はい、分かりました」
おじいさんの妻は3年前に他界し、子どもたちも海外で暮らしていると聞いたことがある。だから今は一人で店番をしながら毎日を過ごしているらしい。
でも、悠月が了承した理由は可哀そうだと思ったからではない。
ただ、家族の好きなお菓子を買いに来るついでに、少し話すくらいなら別に構わない。そう思ったのだ。
姉の好きなコーンポタージュ味と納豆味のうまい棒を買い終えると、店を後にして病院へ向かった。
病院の自動ドアをくぐった瞬間、ロビーがいつもより少し賑わっていることに気づいた。
その中には、首から記者証らしきものを下げた人物の姿まである。
(……どこかの有名人が入院したのか?)
とはいえ、悠月はネットもテレビもほとんど見ない。最近の有名人が誰なのかなんてさっぱり分からない。
それ以上詮索する気にもなれず、思考を打ち切る。
周囲から向けられる、観察するような視線を振り払うようにエレベーターへ向かった。
悠月は昨日の電話で母から聞いた411号室の前で足を止めた。
入る前に、自分が疲れた顔をしていないか、スマホの画面に映った顔を確認する。
そして、そっとドアを開ける。
個室では、悠月によく似た栗色のショートヘアの女性が、ベッドに横たわったまま本を読んでいる。顔色はあまり良くないが、その美しさは今も変わらない。
ドアが開く音に気づいたのか、彼女が視線を上げる。
悠月の姿を認めた瞬間、彼女はすぐに笑顔を浮かべ、元気そうに振る舞おうとする。
けれど、悠月の目にはその笑顔がどこかぎこちなく、無理をしているように映る。
「あら、月、いつ帰ってきたの?どうして事前に連絡してくれなかったの?」
「サプライズしたかったんだよ。どう?やっと会えた恋しい弟に、嬉しすぎて泣きそうになった?」
「相変わらず自惚れてるわね」
この女性は他でもない、悠月の姉、初鹿野星絵だった。
辛くても平気なフリをするその姿を見ると、胸はぎゅっと締めつけられた。
幼い頃から自分を大切にしてくれた姉は、本来なら健康で幸せな日常を送っているはずだった。
だが、病を告げられてからというもの、がんを患うたびに苦しみに耐えなければならなくなった。
悲しくても、悠月は顔に出せない。姉に心配をかけたり、罪悪感を抱かせたりするわけにはいかないから。
「ところで、体の調子はどう?」
「順調に回復してるわよ。ほら、元気いっぱい!」
「僕の前では無理すんなよ」
「はぁ、目ざとい弟がいるのって、良いことなのか悪いことなのか……まぁ、手術してから何日か経ったけど、まだちょっと食欲がない」
こうなることを見越して、うまい棒を買っておいた。
「これ見たら食欲わくでしょ?」
そう言いながら、悠月はバッグからうまい棒を取り出した。
「さすがうちの弟、ちょうど食べたかったのよ」
幼い頃から、星絵はうまい棒が大好物だった。食欲がない時でも、それだけは不思議と食べる気になれる。
嬉しそうにうまい棒を頬張る姿を眺めながら、悠月はスマホを取り出し、さりげなくシャッターを切る。
シャッター音を聞いた星絵は、慌てて手で横顔を隠そうとした。
だが、一歩遅かった。
もう写真は撮られた後だった。
「ちょっと!変な写真撮らないで!」
「別に変なとこじゃないよ。ハムスターみたいで可愛かったから」
「……おやおや、どうやら命知らずがいるみたいだね」
星絵はスマホを奪おうとしたが、横たわったままではどんなに手を伸ばしても届かなかった。
「動かないで、傷が開いちゃうぞ」
「さっさと消して!」
「……はいはい、分かったよ」
言うとおりにしなければ、きっとまた無茶をする。
だから彼女の目の前で写真を削除した。
「ほら」
それを確認すると、星絵はようやく大人しくなった。
その時、窓の隙間から冷たい風が吹き込み、彼女がくしゃみをした。
窓がちゃんと閉まっていないことに気づいた悠月は、立ち上がって窓を閉めに行く。
窓辺に立ち、手を伸ばして鍵をかけようとした、その瞬間。
視界の端で、何かが揺れた。
反射的にそちらを見ると、雨の中を黒いパーカーを着た誰か歩いている。
傘もささず、フードすら被らず、ずぶ濡れのまま、ゆっくりと。
悠月は特に気に留めなかった。
窓をちゃんと閉めると、そのままカーテンを引いた。
「そういえば、ちょっと聞きたいんだけど。ここに来る途中、黒いパーカーを着た女の子を見なかった?身長はたぶん、あんたの肩より少し低いくらい……160センチ前後かな」
「ん?」
「さっき、すっごく焦った様子のOLさんが部屋を間違えて入ってきた。子どもが行方不明になっちゃったらしくて」
「黒いパーカーの人なら、さっき窓から外に見えた気がする」
「もしかしたら、その子かもしれない。よかったら、探して連れてきてくれない?家族の人もきっと心配してると思うし……」
悠月は軽くため息をついた。
星絵はいつもそうだ。誰かが困っていれば迷わず手を差し伸べる、そんな優しすぎる人間。
だが今の彼女には力がなく、できるのは弟に頼むことだけ。
「了解―」
「ごめんね、また迷惑かけちゃって」
「家族なんだから、そんなこと言わないで」
悠月にとって家族は何より大切な存在。だから、頼まれたことを断るなんて考えもしない。
たとえ面倒だと思っていても、家族のためなら、自分のことを後回しにする。
雨足は病院に来る前と変わらず、時間が経っても弱まる気配はなかった。
悠月は傘を広げ、先ほど見かけた黒いパーカーの人物が向かった方向へ歩き出す。
病院の裏手に近づくにつれ、風に乗って微かな歌声が耳に届いた。
美しく、そしてどこか切ない。
建物と地面を叩く雨音、風に揺れる木々のざわめきが、その歌声を引き立てる伴奏のように響いている。
裏手に回ると、ようやく黒いパーカー姿の人物を見つけた。
「えいしょ」
小さな声と共に、その人は水たまりへと跳び込み、盛大に水しぶきを上げた。
服が汚れることなど、まるで全然気にしていないようだった。
足音に気づいたのか、その人はゆっくりとこちらへ振り返る。
その瞬間、悠月はその顔をはっきりと目にした。
艶やかな黒髪はポニーテールに結ばれ、濡れた髪が頬に張り付いている。繊細な顔立ちはどこか儚げで、清楚さと可愛らしさが同居している。
そして、透き通るような瞳が真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
雨に濡れたその姿は、美しさの中に微かな孤独を宿している。
まるで、雨の中で迷子になった天使。
彼女があの行方不明の人なのか確信が持てない。もし人違いだったら、相当気まずい。
そう思いながら、どう切り出すべきか考えている。
…
……
………
「……ここで何してるんですか?」
互いに見つめ合ったまま、先に沈黙を破ったのは悠月だった。
「え? あっ……雨に濡れるってどんな感じなんだろうって、ちょっと気になって……思ってたより気持ちいいんです。少し寒いですけどね」
言い終えた途端、少女はくしゅん、と小さなくしゃみをした。
正直自業自得としか思えず、同情する気にはなれなかった。
けれど、幼い頃から家族に教え込まれてきた「困ってる人を見て見ぬふりしちゃダメだよ」という言葉が頭をよぎた。
小さくため息をつき、少女に歩み寄る。
不思議そうに見つめる彼女に、そっと傘を傾ける。
「……ありがとう」
少女は素直にその好意を受け入れた。
「一応確認しますけど、道に迷ったんですか?」
「うーん、別に迷ったわけじゃない……」
少女はどう説明すればいいか悩んでいるようだった。
「強いて言うなら……自ら行方をくらました、と言うべきでしょうか」
しばらく考え込んだ末に、いたずらっぽくも愛らしい笑顔を見せながらそう言った。
大抵の人なら、その笑顔にあっさりと心を奪われてしまっただろう。
だが悠月は家族以外の人が何をしても、心はほとんど揺れない。
わざと行方をくらましたと言ったが、悠月はその理由を知る気もない。
「……つまり、姉に探されてる人ってことですか」
これでようやく任務を終えられそうだ。
「姉に?」
「ええ。ある子が行方不明らしいと聞いて、探して欲しいと頼まれました」
「なるほど……その前に3つだけ確認させてもらってもいいですか?それを聞いてから、一緒に行くかどうか決めます。嘘かどうかは、自分で判断しますので」
無理やり彼女を連れて病院に戻す、という手もある。
けれど、もし彼女が抵抗したり大声を出されたりしたら、厄介なことになるかもしれない。
そんな事態を避けるためにも、今は承諾するしかない。
「はぁ……分かりました」
どうか簡単な質問であってくれ、と悠月は心の中で願う。
でないと、余計な頭を使う羽目になるのだから。
「まず第1問。あなたは、私のことをご存知ですか?」
「いいえ、知りません」
「続いて第2問。私を初めて見た時、どんな印象を持ちましたか?」
「特にないんです」
「そうですか……では最後の質問です。あなた、私の彼氏になってくれませんか?」
「はぁ?嫌です」
初対面の相手が、どうして急にそんなことを言い出すのか、悠月には全く理解できなかった。
理由が何であれ、無意味な面倒ごとに首を突っ込む気などない。
けれど、その答えを聞いた彼女は、なぜか口元にふっと笑みを浮かべた。
「悲しいなぁ~、こんなにはっきり断られるなんて」
まるで仮面を外したかのように、先ほどまでの礼儀正しさも警戒心も消え失せていた。
「どうせ本気じゃないんでしょう? まぁ、本気だったとしてもこっちは全然その気ないんですけど」
「冷たいんだね、あなたって」
その関心がなさそうな態度に、彼女は呆れたようにため息をついた。
けれど、他人の目など悠月には関係なかった。
さっきの突飛な質問も、ただの冗談だと思って流した。
今の彼にとって大事なのは、彼女を病院に連れ戻し、スタッフに引き渡して、心配する姉に報告すること。それだけだ。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったね。んー、そうだね……ひまわり、って呼んでくれればいいよ。で、あなたは?」
(……まぁ、どうせ今後会うこともないだろう)
「初鹿野悠月」
だから、名前を教えても別に構わないと思った。
「これからよろしくね、悠月さん♪」
だが、ひまわりはそうは思っていないらしい。




