先生と助手
その後の日々は、これといって大きな変化はなかった。
ひまわりは仕事を忙しくなり、悠月と会う機会はぐっと減ってしまった。けれど、それでも時折メッセージを送ってきたり、電話をかけてきたりして、しっかり存在をアピールしてくる。
そうした日々の中で、星絵もついに退院した。以前はシフトがない日に悠月が病院を訪れていたが、今ではもうその必要もない。
そこで、休日にやることもだいぶ少なくなった。
今日はシフトのない日だったが、悠月はいつも通り早起きして朝ごはんを用意した。
「月、今日暇?」
朝ごはんの最中、不意に星絵がそう尋ねてきた。
「ん?どうした?」
「今日、同僚が休みで保育園の人手がちょっと足りないから、もしよければ手伝いに来てくれない?」
星絵の仕事は保育園の保育士。元々寂しがり屋で、じっとしているのが苦手な彼女は、退院した翌日にはもう職場に復帰していた。
「今日は月ちゃんを家でゆっくり休ませてあげてね、せっかくのお休みなんだし」
「まぁ、僕は別に構わないけど」
母親が自分の体を壊すほど働きすぎないか心配しているのは分かっている。けれど悠月にとっては、そんなのどうでもよかった。
今日はひまわりからの誘いもなく、予定も特にない。家で一日中ダラダラ過ごすくらいなら、手伝いでもして時間を潰した方がマシだと思った。
「それで決まりね。ごめんね、お母さん。理由は後で説明するから」
母親は、悠月が一度決めたら絶対に気持ちを変えないことをよく知っていた。夫もずっと悠月のやりたいことを応援する立場だから、止めるはずがない。
結局、ため息をついて肩を落とし、それ以上は何も言えなかった。
星絵が弁当を忘れるたびに、悠月は保育園まで届けに行った。時にはついでに手伝うこともあった。そのため、園長に軽く挨拶をするだけで、あっさりと許可をもらえた。
それから星絵の後をついていき、ある教室の前まで来た。
ゆっくり扉を開けると、予想もしなかった姿が目に飛び込んでくる。
「よぉ、助手くん!待ってたぜ」
「……ひまわりさん?なんでここに?しかも、その格好……?」
今日のひまわりは顔を隠していない。ただ、髪だけはいつも通り、ポニーテールにまとめている。
白いTシャツに素朴なグレーのエプロン。その姿は清楚で、優しさが滲み出ているように感じられる。
「昨日、絵ちゃんにここで手伝ってみない?って誘われてさ。ちょうど先生ってどんな感じか体験してみたいなーって思って、引き受けたんだ」
「そういうこと。月、今日はあの子のサポート頼むね」
「僕、もしかしてハメられた……?」
星絵はご機嫌そうに鼻歌を口ずさみながら、隣の教室へと歩いていく。
その背中を眺めながら、やっぱりこれは最初から姉の仕組んだことなんじゃないか、と疑ってしまう。
「よろしくね、助手くん」
「はぁ……ところで、今日はサングラスもマスクもしてないんだ」
「たとえ子どもにバレたって別に大したことじゃないから」
教室で作業しながら、気ままにおしゃべりを続ける。
いつの間にか時間を意識すると、そろそろ子どもたちが登校する時間になっていた。
ひまわりが保護者の前に出たくない気持ちは分かっている。だから、彼女には朝の会の教室で待っててもらうことにした。自分は子どもたちを出迎えに行く。
悠月は普段、無意識に無表情になってしまう。
けれど子どもたちの前でそんな顔をすれば、怖がられるに決まっている。初めて手伝いに来た時、星絵にそう注意されたのだ。
そのおかげで今では表情を作るのも、ずいぶん上手くなった。
登園時間を過ぎたのを確認してから、悠月は入口に鍵を掛けた。
朝の会の教室へ向かう途中、柔らかなピアノの音色が廊下まで流れてくる。
扉をそっと開けると、真っ先に目に映ったのはピアノに向かうひまわりの姿。指先が鍵盤の上を踊り、美しい旋律を紡ぎ出している。
彼女が俳優であり、歌手でもあることは知っていた。けれど、ピアノまで弾きこなすなんて思ってもみなかった。
その予想外の一面に、しばし見惚れてしまう。
やがて視線に気づいたひまわりは、演奏を止め、柔らかな笑みをこちらに向けた。
「……」
悠月はわずかに視線を逸らし、無言のまま扉を閉めた。
子どもたちが席に着くと、朝の会がいよいよ始まる。
ひまわりは楽譜に視線を落とし、そっと鍵盤に指を置く。
軽やかで伸びやかな旋律が教室に響き渡り、子どもたちも園長の声に合わせて元気いっぱいに歌い出す。
教室の隅に立つ悠月はその微笑ましい光景にスマホを構え、シャッターを切る。
「あんたが風景と家族以外を撮るなんて、初めてじゃない?」
隣にいた星絵が、カメラの向く先――ひまわりの方へと視線を向けた。
「別に初めてじゃない。この前、遊園地でも撮ったし」
「ふーん……どうやらあんたたち、お互いに少しずつ影響し合って変わってきてるみたいだね」
「……どういう意味?」
「あの子、前は無理に明るく振る舞ってたけど……どこか孤独そうだった。でも今はもうそうじゃない。それに月だって、昔は家族以外どうでもよさそうだったのに、彼女に対してはなんか違うよね。たぶんまだ気づいてないかもしれないけど、あの子はもう、月にとって特別な存在になってると思う」
悠月の視線は無意識のうちにひまわりへと吸い寄せられた。
「……」
そんな自覚はない。
けれど、否定しようとすると、どうも嘘っぽく感じて、言葉が出てこなかった。
「まぁ、結局どうなるかはあんたたち次第だよね」
その笑顔には、何か意味深なものがあった。
悠月はまだひまわりから目を逸らせず、全然気づいていなかった。
元気いっぱいの朝の会が終わると、保育士に導かれて子どもたちはそれぞれの教室へ戻っていった。
みんなが席に着いて静かになったところで、悠月は隣のひまわりへ目をやった。
自己紹介を促そうとしたが、その必要はなさそうだ。彼女はすでに分かっているかのように一歩前へ出る。
「みんな、おはよー!今日だけ担任、ひまわり先生だよー!そして隣は、ちょっと冷たそうに見えるけど、本当は優しい助手くん、悠月!」
「うるせぇ」
そう言っても、自己紹介なんて心底面倒くさくて、わざわざ訂正する気にもなれなかった。
「ひまわり先生!テレビに出たことあるの?」
一人の女の子が手を挙げ、そう聞いた。
それをきっかけに、他の子たちも次々に同じような質問をし始めた。
今の時代、このくらいの年齢の子がテレビを見てるなんて別に珍しいことじゃない。
ただ、悠月にとってちょっと意外だったのは、ひまわりが子どもにまで顔を覚えられるほど有名だったってこと。
「ないよ。でもね、よくテレビに出てる綺麗なお姉さんにそっくりって言われるの」
(なるほど、バレても別に平気って言ってたのは、最初からバレたら適当にごまかすつもりだったのか)
「え〜、そうなんですか?」
「そういうこと。ね、助手くん?」
「あ……はい。それより、今日みんなは何をしたいですか?よろしければ、一緒に絵を描いてみませんか?」
(こいつ……)
巻き込まれて嘘までつかされた悠月は、彼女を睨みつけた。
「それじゃ、テーマは『未来のわたし』にしようね。描き終わったら、みんなに見せたい子は前に出て発表してもいいよ。発表してくれた子は、美味しいお菓子をもらえるよ〜!」
悠月のジト目などお構いなしに、ひまわりはやけにご機嫌な様子でテーマを発表した。
子どもたちがクレヨンを握りしめ、真剣に絵を描いている。
その間、悠月とひまわりは様子を見守りながら、時々声をかける。
それにしても、これがひまわりにとって初めての保育士役だなんて、正直信じられない。
緊張している様子はまるでなく、まるで昔からここにいたかのように自然に振る舞い、子どもたちともすぐに打ち解けている。
(……ん?)
何気なくひまわりに視線を向けていた悠月は、ふと一人の子がクレヨンを握ったまま動きを止めているのに気づいた。
悠月は歩み寄り、目線までしゃがみこむ。
「何か困っていることがありますか?」
「先生、ボク、何を描けばいいか分からない……」
「憧れている人とか、将来なりたいものはありますか?たとえば、警察官とか、お医者さんとか」
「ううん。先生は?先生がボクぐらいの時、何になりたかったんですか?」
不意にそんなことを聞かれ、悠月は言葉に詰まり固まった。
(あの頃、理想の自分って……どんなだったかな……)
いつしか夢も憧れも形をなくし、気づけば思い出すことさえできなくなっていた。
「何かあったの?」
返事を考えていると、不意に背後から気配がした。
振り返るより早く、ひまわりが肩越しに顔を出してきた。
「この子、将来の夢が思いつかなくて、何を描こうか迷ってるみたい」
「じゃあさ、自分がどんなことしたら楽しいか考えてみたら?」
「うぅ……サッカー?」
「なら、ちょっと想像してみて。もし世界で一番すごいサッカー選手になれたら、嬉しい?」
「うん!」
「じゃあ、その想像を絵にしてみよっか?」
「……はいっ!ありがとう、ひまわり先生、悠月先生!」
悠月が手こずっていた問題を、ひまわりはあっさりと解決してしまった。
本来はサポート役のはずなのに、逆に助けられた気がする。
(まぁ、いかにも彼女らしい答えだな)
楽しいかどうか、それだけを基準に物事を決める。その自由奔放さに、これまで何度振り回されてきた。
「ありがと。助かる」
「どういたしまして」
「子どもの相手、けっこう慣れてるみたいだな」
「撮影現場にはよく子どもがいるからね。大人に子どもの気持ちなんて分かんないでしょ?だから、まだ子ども心が残ってる私がついでに面倒見てあげたりする」
「どうやら僕、今日は役に立ちそうにないな」
「そんなことないよ!あなたがそばにいてくれるだけで、すごく勇気が出るんだ!どんなことでも怖くなくなる!だから、あなたは私にとって、すーごく大事な人なんだよ?」
「そんなこと言って、僕が勘違いしたらどうすんの?」
「それでもいいよ」
「……本当、そういう冗談好きだよな」
きっと、自分に惚れられるなんて思っていないから、あんな遠慮のない冗談も平気で言える。
そして悠月もいつも通り、そんな冗談めいた言葉を真剣には受け取らなかった。
30分ほど経つと、子どもたちは次々に作品を仕上げ、前に出て自分の絵を披露し始めた。ちなみに、ご褒美のお菓子は昨日ひまわりが自腹で買ってきたものらしい。
子どもたちが無邪気に、自分の理想の未来を堂々と語る姿を見て、悠月は心の中で願う。
どうか、彼らが夢を忘れず、諦めずに努力し続けられますように。僕みたいに、大人になってから子どもの頃の夢をすっかり忘れ、ひまわりの言う『つまらない人生』を送らないように、と。
今朝の活動は、みんながお菓子をもらって、いくつかゲームをしたらおしまい。
続いてはお昼の時間。
教室を片付けた後、悠月とひまわりは手分けして給食を配っていった。
子どもたちが手を洗って戻ると、みんな席に着き、一緒にお昼ごはんを楽しみ始めた。
悠月は自分で作った弁当を持参し、ひまわりは給食。
お弁当箱にぎっしり詰まったおかずを見た瞬間、ひまわりの目がぱあっと輝いた。
今にもよだれを垂らしそうな顔で、じーっと見つめてくる。
ミートボールを箸でつまみ、口に運ぼうとした瞬間。
さっきより明らかに強くなった視線に押され、思わず手が止まる。
「……えーと、よかったら、食べてみ――」
言い終わる前に、ひまわりは箸でつまんだままミートボールをぱくっと口に含んだ。
「……君、犬か?」
「お……おいひぃ〜!」
「ちゃんと飲み込んでから喋りなさい」
そう言われて、ひまわりは大人しく従った。
まるでとろけそうに、幸せそうな顔で味わうひまわりを見て、悠月は仕方なさそうにため息をついた。
だが、気づかぬうちに、口元が緩んでいた。
「このお弁当、悠月が作ったの?」
「ああ。家族の分を作ったついでに」
「へぇー、いいなぁ。なんだか私も悠月の家族になりたくなっちゃうよ。そしたら毎日美味しいごはん、食べられるんでしょ」
冗談っぽく聞こえたけれど、悠月は眉一つ動かさなかった。
最初、彼女が羨ましがっているのは自分の弁当が彼女の給食より豪華だからだと思った。
けれど思い返してみれば、知り合ってから一度も「ごはん食べに帰るね」なんて話は聞いたことがない。むしろ、何度かコンビニでお弁当を買っているのも見かけた。
(きっと、家には食事を用意してくれる人なんていなかったのだろう)
悠月は弁当のおかずを半分ほどフタの上に分け、彼女の前に差し出す。
「別に同情して欲しいわけじゃないよ?」
「分かってる、君がそういうやつじゃないのは。いらないなら引っ込める」
「いらないなんて言ってないよ。ありがとね」
とはいえ、悠月はなぜそんなことをしたのか、自分でもよく分からなかった。
昔なら、家族以外の誰かの話に興味なんて持たなかったし、感情も動かなかったはず。
けれどさっきは、ほんの一瞬見せた寂しそうな顔を見ただけで、思わず弁当を分け与えてしまった。
(なんだか……あんな顔、見たくないっていうか……?)
考え事をしながら、悠月は野菜を箸でつまんで口に運んだ。
すると、目の端に頬を赤く染めたひまわりが、目を見開いてこちらを見ているのが映った。
「ん?」
「私の唾液……美味しい?」
「はぁ? 何だよ、急にそんな気持ち悪いこと言って」
「……なんでもないよ!バカ!」
「はい?」
悠月がさっきの間接キスに全然気づいていないのを見て、ひまわりはそっと顔を背け、もらったおかずを黙々と口に運んだ。




