君色に染まる世界
気づけばもう夕方になっていた。
最後の子どもが親に迎えられ、園内にようやく静けさが戻った。
一日中子どもたちの相手をしていた悠月は、すっかり疲れ切っている。
なのに、その隣では、ひまわりだけがまだまだ元気そうだ。
悠月はたまに思う。
彼女の体力って一体どこから湧いてくるんだろう。
職員室に戻ると、星絵は先に戻ってきていた。
「お疲れさまです、二人とも」
「あっ、お疲れさま」
「お疲れ」
「はい、これ。手伝ってくれたお礼だよ」
星絵は柔らかく微笑みながら、水族館のチケットを二枚差し出した。
「なんか怪しいな……前に手伝いに来た時は何ももらえなかったのに」
朝の会での会話を思い返し、このチケットは本当に今日のお礼だけが目的なのか、と悠月はふと疑ってしまっ。
「弟くん、あんまり深く詮索しないで?」
「やっぱり裏があったか」
「まぁ、とりあえずありがとね、絵ちゃん。ちゃんと日を決めて一緒に行くから」
「うん。月、女の子の誘いは断っちゃダメだよ?」
ひまわりは悠月が行くのが当然だと思ってチケットを受け取った。
もちろん、悠月が断るなんて選択肢はいつもの通り、最初からなかった。
「あっ、そうだ。うち、ちょっと用事あるから、月は先にひまちゃん送ってあげてね」
「でも――」
「大丈夫。後で園長がついでに送ってくれるから」
「……分かった」
「頼んだよ、騎士くん」
実は、悠月もなぜかひまわりを一人で帰すのが少し心配だった。
けれど、それは口には出さなかった。
夕焼けに染まる道を、いつもの変装フルセットで顔をばっちり隠したひまわりと肩を並べて歩いている。
時折、ひまわりが話しかけてくるけど、疲れてる悠月は相槌ばっかり。
それでもひまわりは気にするどころか、むしろ楽しそうにどんどん話を広げていく。
そんな何気ない時間は、いつの間にか二人の日常の一部になっていた。
本屋の前を通りかかった時、ちょうど袋を抱えて出てきた澪と鉢合わせた。
「あっ。初鹿野さんじゃん」
「こんばんは」
ひまわりは目立ちたくても、一人で先に行かず、隣で足を止めた。
「こちらの方は……?」
澪は目の前で顔を隠しているひまわりに、どこかで見たことがあるような気がした。
悠月は以前、機会があればひまわりを澪に紹介すると約束していた。
ただし、それもひまわりの気持ちを最優先にするのが前提だった。
今、ひまわりは悠月の服の裾をそっと引く。無言で、早く行こうと急かすように。
しかも通りには人が多い。この状況で正体を知られでもしたら、厄介なことになり兼ねない。
「えっと、すみません。この後ちょっと用事があるので、先に失礼します」
「そっか……あっ、これ、貸してあげる」
澪は袋から一目で百合漫画と分かる本を取り出し、すっと差し出した。
「前に言ったでしょ?初鹿野さんを新しい世界に引きずり込むって。これ、入門編にちょうどいいんだよ」
「いやいや、マジでいらないから」
「まぁ、いつか興味が出たら言ってね。その時は貸してあげるから」
澪と別れた後も、ひまわりは服の裾をぎゅっと握ったまま、放す気配を見せなかった。
「さっきの子、誰?」
「同僚。前に僕が働いてるとこで見たことあるでしょ?」
「なんか、すごく仲良さそうに見えたけど……」
「そう?」
確かに、澪は仕事中によく話しかけてきて、気づけば少しずつ馴染んでいた。
でも悠月にとっては、まだ友達と呼べるほどの関係じゃない。せいぜい、ちょっと打ち解けた同僚。それだけだ。
「あの子のこと、どう思ってる?」
「はぁ?なんで急にそんなこと聞くんだ?」
「理由なんて……ない、ってば……とにかく早く答えて?」
よく分からないところで妙に頑固なひまわりに、ここで断ったらきっとしつこく答えを迫られるに違いない。
だからこの先少しでも静かでいたいがために、悠月は渋々考え込む。
「……強いて言うなら、結構尊敬してるかな。夢をはっきり持ってて、周りに変だって言われても貫いて努力してるし。たまにちょっとうざいけど……まぁ、いいやつだな」
「じゃあさ……異性として、あの子のこと……好き?」
「僕みたいな奴、人を好きになるなんてあり得ると思う?」
悠月には恋愛における『好き』なんて感情がどんなものか、全然分からなかった。
何しろ、これまで一度もそんな感情を抱いたことがなかったのだから。
そんな返事に、ひまわりは思わずクスッと笑みを漏らした。
「ははっ、だよね。初めて会った時、バッサリ断られたし」
「そういや、あの時なんであんなこと聞いた?好きとか、彼氏になれるかとか……初対面だったのに」
「ただ、あなたがどんな人なのか確かめたかっただけだよ。でも今思えば、あの時わざわざ雨に濡れて、本当によかったわ~!そうじゃなきゃ私たちの物語、きっと始まらなかったでしょ♪」
ひまわりは服の裾から手を放し、弾むような足取りで悠月の前へ駆け出した。
そして、立ち止まり、くるりと振り返る。
夕陽に照らされたその姿は、思わず目を細めてしまうほど眩しい。
表情こそ隠れて見えないが、今のひまわりはきっと、この世界で一番明るく笑っている。
そんな彼女を見ていると、これまで一緒に過ごしてきた日々が次々と思い出される。
気づけば、理由の分からない微かな幸福感が胸を満たしていた。
そのせいか、思わずため息が漏れる。
「もし君に出会ってなかったら、僕の世界は単調で退屈なままだったかもな。でも、あの日から世界は少しずつ、面倒くさくて消せない色に染まったけど……まぁ、案外悪くない」
「えぇ~!面倒くさいって言うなんて酷い~!」
拗ねたフリをしているけど、声には隠しきれない嬉しさが滲んでいた。




