理由のない席は、存在しません
その夜、私は夕食の席で、父と母に臨時書記の話をした。
「典礼局で、働く……お前が?」
父は、スープの匙を持ったまま固まった。母は、膝の上のナプキンを握りしめている。
「試用として一か月、という話です。まだ、お返事はしていません」
「お前は、子爵家の娘だぞ。働くなどと」
「存じています」
父の言葉に、強い響きはなかった。反対というより、言葉の置き場所が分からないような声だ。
「婚約が解消された今、縁談の話は、これから持ち込まれるでしょう。お父様が、私のために考えてくださっていることも、分かっています」
私は、匙を置いた。
「ですが、今は、誰かの隣に立つ前に、自分の足で立てるかどうかを、確かめたいのです」
食卓が、しんとする。
母が、小さく口を開いた。
「……お給金は、出るの?」
「規定どおりと、伺いました」
「そう」
母は、何かを言いかけてやめ、それから、まったく別のことを言った。
「朝が早いなら、明日から、お弁当を用意させましょうか」
父が、驚いた顔で母を見た。
「ヘレナ」
「だって、あなた。一か月だけでしょう。それに、あの子が自分で決めたいと言っているのよ」
母の声は、わずかに震えている。けれど、はっきりしていた。
父は、長い間、皿を見つめている。
「……一か月だ。それで駄目なら、戻ってきなさい」
「はい。ありがとうございます」
「駄目だと決めつけているわけではない」
父は、不機嫌そうに付け加えた。
「ただ、心配しているだけだ」
それが父なりの許可なのだと、受け取った。
翌朝、玄関には、母が用意させた小さな包みが置かれていた。
布に包まれた、昼食の箱だ。中身を開けなくても、林檎の焼き菓子の甘い匂いが、ほのかにする。
「いってらっしゃい」
母は、それだけ言って、送り出してくれた。
私は一番早い馬車で、典礼局へ向かう。
長官は、すでに机についていた。昨日と同じ上着で、書類に目を通している。机の端の紅茶は、また手つかずで冷めていた。
「お受けします」
扉の前で、そう告げた。
「期間は、一か月。その間、私は、典礼局の臨時書記として、指示に従います」
長官が、顔を上げる。
「承知しました」
淡々とした声だ。けれど、ペンを置く手つきが、ほんの少しだけ丁寧だった気がする。
「では、まず、ベル書記官を紹介します」
連れていかれたのは、部屋の奥の、窓際の机だった。
そこに座っていたのは、四十代ほどの女性だった。黒に近い紺の制服に、白髪まじりの髪を、きっちりとひとつにまとめている。眼鏡の奥の目は、私を一瞥しただけで、全部を測り終えたようだった。
「マルタ・ベルです」
女性は、立ち上がりもせずに言った。
「平民の出で、この局に二十二年います。長官から、あなたのことは聞きました。晩餐会の騒ぎで、名前が広まった令嬢だと」
声に、遠慮がない。
「令嬢のお遊びなら、今日のうちに帰りなさい。この局は、飾りの人間を置く余裕はありません」
「お遊びのつもりは、ありません」
「そう言う人は、たくさん見てきました」
マルタは、机の引き出しから、厚い束を取り出した。
「これが、四日後の晩餐会の招待名簿と、席次の草案です。あなたの仕事は、この草案を直すこと。長官は、モーリス侯爵家とベルナール伯爵家の件を指摘したそうですが、それだけで済むとは思わないことです」
束が、私の机に、どさりと置かれる。
「家系録は、後ろの棚。爵位の変更は、年に一度の更新簿。席を一つ動かしたら、必ず、理由を一行で書きなさい。理由のない席は、この局では存在しません」
「はい」
「質問は、二度考えてからしなさい」
そう言って、マルタは、もう自分の書類に目を戻している。
私の机は、その斜め向かいに用意されていた。
傷だらけの古い机だ。引き出しの取っ手が一つ欠けていて、天板には、前に使っていた誰かのインクの染みが残っている。
令嬢の部屋の机とは、まるで違う。けれど、不思議と、嫌ではなかった。
椅子に腰を下ろすと、マルタが、こちらを見ないまま言った。
「その机は、三人が辞めた席です」
「……そうですか」
「あなたが、四人目にならないことを願っています」
励ましなのか、脅しなのか。眼鏡の奥の表情からは、読み取れない。
私は、背筋を伸ばして、最初の頁を開いた。
名簿には、百八十二人の名前が並んでいた。
爵位の順。家同士の関係。前回の席。クレイン家で作っていた名簿は、せいぜい三十人ほどだった。その六倍の人数を、一つの広間に、一人ずつ座らせる。
家系録を引き、更新簿を引き、席を一つずつ確かめていく。母の包みを開けたのは、気づくと日が傾いてからだ。
二日目の夕方、一つ目の草案を、マルタに見せる。
マルタは、眼鏡を押し上げて、一枚ずつ目を通していく。それから、赤いペンを、紙の上に落とす。
「ここ」
指されたのは、第三卓の隣り合う席だった。
「あなたが、サラン伯爵夫人をここに置いた理由は」
「前回の晩餐会で、この席に近い位置にいらしたからです。慣れた席の方が、お心安いかと」
「お心安い」
マルタは、短く繰り返した。
「それは、理由ではなく、あなたの気持ちです」
胸に、小さな棘が刺さる。
「爵位に基づく理由か、家同士の関係に基づく理由か。どちらでもないなら、その席は、根拠なく動かされたことになる」
「……はい」
「それに」
マルタは、更新簿の一頁を開いた。
「サラン家は、昨年の冬に侯爵へ昇爵しています。あなたの席は、伯爵夫人として置いている。席次の序列そのものが、違う」
私は、頭の中が白くなった。
昇爵の知らせは、更新簿のどこかに載っていたはずだ。それを確かめずに、前回の記録だけを頼りに席を置いた。
クレイン家の名簿なら、これで通った。伯爵夫人が相手にする家の顔ぶれは、あらかじめ決まっていたから。
けれど、ここは、王宮だ。
「申し訳ありません。確認が、足りませんでした」
「謝罪は、いりません」
マルタは、私の草案を、机の端に押し返した。
「知らないことを、知らないと認めるのは、書記の最初の仕事です。ただし、知らないまま書くのは、書記のしてはいけないこと」
言い方は、きつい。けれど、不思議と、腹は立たなかった。
クレイン家では、間違えても、誰も指摘してくれなかった。伯爵夫人は「ありがとう」と言って受け取り、そのまま使う。間違いがあれば、それは、あとで私の知らないところで、誰かが直していたのだろう。
間違いを間違いと言ってもらえることが、これほど、ありがたいとは思わなかった。
「はい」
「やり直しなさい。明日の朝までに」
私は、草案を抱えて、自分の机に戻った。
日が暮れた後の典礼局は、思っていたより、ずっと静かだった。
蝋燭の火が、書類の端を揺らしている。私は、更新簿を最初から一頁ずつ繰った。サラン家だけではない。ほかにも、爵位が変わった家があるかもしれない。
一つ、また一つと、赤い印をつけていく。
顔を上げると、窓の外が、すっかり暗くなっている。
背後で、足音がした。
振り返ると、トビアスが、封筒を抱えて立っている。
「まだ、残っておられたんですか」
「ええ。もう少しだけ」
「あまり、無理をなさらないでください。……と言っても、長官が、いちばん無理をなさるのですけど」
トビアスは、声を落とした。
「実は、長官、昨日から家に戻っていないんです。この部屋の奥の長椅子で、寝ておられて」
「昨日から?」
「晩餐会の前は、いつもそうなんです。ご自分で、全部の確認をなさらないと、気が済まない方で」
私は、思わず、奥の小部屋の方を見た。
扉の隙間から、灯りが漏れている。冷めた紅茶のことを、思い出した。
三日目の朝、私は、二度目の草案を、マルタの机に置いた。
マルタは、今度は、何も言わずに、最後まで読んだ。赤いペンは、一度も動かなかった。
「……サラン侯爵夫人の席は」
「爵位に基づき、第二卓の右端です。昇爵は、昨年冬の更新簿、七十二頁にて確認しました」
「ほかに、変更のあった家は」
「四家あります。理由は、すべて、各席の脇に記載しました」
マルタは、眼鏡の奥から、私をじっと見た。
「理由が書いてあります」
「はい」
「それが、書記の仕事です」
それ以上は、何も言われなかった。
けれど、草案は、そのまま、長官の机に回された。
四日目の夕方。
晩餐会の前日だ。
長官が、私を、小部屋に呼んだ。
最終の席次表が、机の上に広げられている。長官は、一つ一つの席の脇の、小さな理由の文字を、指で追っていた。
「モーリス侯爵夫人と、ベルナール伯爵夫人の席は、第一卓と第四卓に分けた」
「はい」
「第四卓の脇に、あなたは、こう書いた。『両家は先々代より交流なし。同卓を避け、ただし双方の序列は保つ』」
「はい」
「事実のみ。申し分ない」
褒め言葉というより、検査に合格した、という報告に聞こえる。それでも、少しだけ、背筋が伸びる。
長官は、表の下の欄に、ペンを走らせた。
署名の欄。作成者、と書かれた行の下に、二つの名前が並ぶ。
王宮典礼局長官、レオンハルト・グレイヴス。
その隣に、長官は、もう一つ、書き足した。
作成補助、セシリア・ローレン。
私は、息をのんだ。
公文書の上に、私の名前がある。誰かの名の代わりでも、誰かの婚約者としてでもなく。私が、この手で調べて、考えて、決めたことの、記録として。
「明日の晩餐会、あなたも、会場に出てください」
長官が、顔を上げずに言った。
「入口で、典礼官とともに、席次の確認をしていただきます」
入口。
あの夜、私が一人で並んでいた、扉の前。
今度は、名簿を持つ側として、そこに立つのだ。




