あなた自身の名で
「……はい」
アルバートの問いに、私は短く答えた。
「あれは、私の字です」
彼は、ほんの少しだけ目を閉じた。殴られたわけでもないのに、痛みをこらえるような顔をしている。
「去年の春。母上の手紙の最後に、僕宛ての一行が添えてあった。お風邪を召されませんように、と。あれも」
「伯爵夫人に頼まれて、私が書きました」
「そうか」
アルバートは、自分の手のひらを見下ろした。
「僕は、母上が書いたものだと思っていた。母上らしい気遣いだと」
「そう思われるように、書いたのです」
私は、できるだけ淡々と答えた。責めるつもりはなかった。ただ、事実を述べただけだ。
アルバートは、しばらく黙っていた。
廊下の窓から、午後の光が斜めに差し込んでいる。遠くで、書記官たちが書類を運ぶ足音がした。
「僕は、君に礼を言ったことが、一度もない」
低い声だった。
「手紙のことだけじゃない。茶会の準備も、誰かの誕生日も、君は黙って先回りして、全部用意してくれていたのに。僕は、それが当たり前だと思っていた」
「お礼を言われたくて、していたわけではありません」
「それは、分かる。だが……」
アルバートは、顔を上げた。
「言われたことがなかったのは、本当だろう」
思わず、言葉に詰まる。
その通りだ。六年間、一度もない。ありがとうと言われたくて動いたことはないと、自分では思っていた。けれど、言われなかったことを、きれいに忘れていたわけでもないらしい。
「……はい。ありませんでした」
認めた声が、少しだけ揺れてしまう。
アルバートは、深く息を吐いた。それから、ぎこちなく頭を下げる。
「遅すぎるが、言わせてほしい。ありがとう。今まで、すまなかった」
彼が私に頭を下げるのを見るのは、これが初めてだ。
胸の奥で、固まっていたものが、少しだけほどけた気がする。許したわけではない。戻りたくなったわけでもない。ただ、六年間のどこかに、言葉が一つ置かれた。それだけのことだ。
「お言葉は、受け取りました」
私は、一礼した。
「ですが、裁定は、裁定です。三日後に、お会いしましょう」
アルバートは、何も言い返さない。
私が馬車に乗り込むまで、彼は廊下の端に立ったまま、動かなかった。
三日後の午後、私は父とともに、再び典礼局を訪れる。
通されたのは、審問の広間ではなく、最初の面談と同じ小部屋だ。長官の机の前に、椅子が五つ並べられている。クレイン伯爵と、伯爵夫人。アルバート。私と、父。
伯爵夫人は、私と目が合うと、一度だけ小さく頭を下げた。
何も言わない。私も、同じように返した。
「これより、先日の審問に関する裁定を読み上げます」
長官は、一枚の書面を手に取った。
「申立人ローレン子爵家長女セシリアの申し立てに対し、相手方クレイン伯爵家嫡男アルバートの異議を、棄却する」
誰も、息をする音すら立てなかった。
「理由。相手方は、王国暦八一二年春の王宮晩餐会において、申立人を婚約者として同伴する約を履行しなかった。この事実は、相手方自身が審問において認めている。また、相手方は当夜、事実に反する申告を行ったが、これは典礼局が採用しなかった。以上により、婚約の継続を求める相手方の主張は、認められない」
淡々とした声が、一語ずつ、床に置かれていくようだった。
「よって、申立人とクレイン伯爵家嫡男アルバートとの婚約は、本日をもって解消とする」
終わったのだ。
頭では、そう分かっている。けれど、胸の中には、何の音もしない。
泣くかと思っていた。喜ぶかとも思っていた。実際には、ひどく凪いでいる。長い間、背中に載せていたものを、そっと降ろされたときのようだ。
「なお」
長官は、書面から目を上げた。
「記録には、証人リリア・ハートウェルの発言を含め、審問で述べられたすべてを残します。ただし、これらは非公開とし、両家当主の同意がない限り、外部に開示しません」
伯爵が、小さく頷いた。
「異議なし。クレイン家として、裁定を受け入れる」
それから、伯爵はアルバートを見た。
「お前も、受け入れるな」
アルバートは、膝の上で拳を握りしめた。
少しの間があった。
「……はい。受け入れます」
かすれた声が、そう答えた。
長官が、解消の受諾書を二通、机の上に並べた。両家の当主が、それぞれ署名する。伯爵が先に、続いて父が、ペンを取った。
父の手が、わずかに震えている。
署名を終えた父は、ペンを置いて、しばらく自分の字を見つめていた。
「……終わったな」
「はい」
「お前の名前も、そこにある」
父が指さした先には、当事者の欄があった。私の名が、自分の筆跡で並んでいる。
書類が確認され、典礼局の印が押された。
「以上で、手続きは完了です。両家の方々、ご足労をおかけしました」
長官が一礼する。それが、閉会の合図だった。
伯爵夫妻が、先に席を立つ。
伯爵夫人は、扉の前で一度だけ振り返った。何か言いたそうに唇が動く。けれど結局、小さく会釈をして出ていった。
アルバートは、最後まで椅子に座ったままだ。
やがて、のろのろと立ち上がる。扉の前で足を止めて、私の方を見た。
「セシリア。元気で」
「アルバート様も」
交わした言葉は、それだけだ。
彼は、ほんの少しだけ口の端を上げる。笑おうとして、うまくいかなかったような顔だった。それから、扉の向こうへ消えていった。
父が、私の肩に、そっと手を置く。
「先に、馬車で待っている。ゆっくり、来なさい」
父も出ていって、部屋には私と長官だけが残った。
書類をまとめる長官の手が、一瞬だけ止まる。
「ローレン嬢。少し、お時間をいただけますか」
「はい」
長官は、机の脇の書類棚から、一枚の大きな紙を引き出した。
見覚えのある紙だった。細かい四角の中に、家名が書き込まれている。
「これは、五日後の宮廷晩餐会の席次表です。あなたは先日、この局を訪れた際、廊下でこの表を見て、足を止められた」
心臓が、跳ねる。
「ノール書記官から聞きました。何かに気づかれたようだったと」
「それは……」
答えに迷った。
口を出す立場ではない、と思ったのだ。あのときは。
けれど、長官は、まっすぐに私を見ている。責めるつもりも、試すつもりもなさそうだ。ただ、知りたいと思っている目をしている。
私は、息を吸った。
「上座に近い、この二つの席です」
紙の一角を、指で示す。
「モーリス侯爵家と、ベルナール伯爵家。二つの家は、先々代の領地争いから、直接の言葉を交わしていません。同じ卓の隣に座らせると、どちらかが退席する恐れがあります」
長官は、黙って聞いている。
「ただ、モーリス侯爵夫人は、来月のクレイン家の茶会にも招かれる予定でした。伯爵夫人が、とても気にされていて。……私が名簿を作っていたとき、同じ問題に気づいて、二つの家は必ず離しておりました」
言ってから、はっとした。
また、余計なことまで話してしまったかもしれない。
けれど長官は、短く頷いただけだった。
「やはり、そうですか」
そして、席次表の上の二つの家名に、赤い印をつけた。
「この表は、先週、別の書記官が作成したものです。私は、確認の時間が取れなかった。三日前から、どうも気になっていたのですが、根拠が見つからなかった」
三日前。
審問があった日だ。
長官は、その日に何を思っていたのだろう。審問官として、私と、アルバートと、リリアの話を聞きながら、頭の隅で、席次表のことを考えていたのだろうか。
そう思うと、不思議と、緊張が少しほどけた。
「ローレン嬢」
長官は、書類を机の上に置いた。
「率直に申し上げます。この局では、人手が足りていません。記録の正確さを理解し、家同士の関係を把握し、必要な場面で事実を口にできる人間は、多くない」
そして、あまり抑揚のない声で、続ける。
「臨時の書記として、この局で働く気はありませんか」
言葉が、すぐには頭に入ってこなかった。
「……私が、ですか」
「期間は、試用として一か月。給金は規定どおり。婚約の件は、本日をもって終わりました。あなたが、誰かの家のために、他人の名で仕事をすることは、もうありません。この局での仕事は、あなた自身の名で記録されます」
あなた自身の名で。
その言葉が、胸の底へ、ゆっくり沈んでいく。
「ただし、この局に来れば、あなたはこれまでのような令嬢ではなくなります。朝は早く、仕事は多い。私も、決して優しい上司ではないでしょう。それを承知のうえで、考えてください」
私は、すぐには答えられなかった。
家に戻れば、父は、次の縁談の話をするかもしれない。母は、私の将来を心配するだろう。けれど、今、目の前に出された選択肢は、そのどちらでもない。
自分で選んでいい。
そう言われたのは、生まれて初めてかもしれなかった。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか。なぜ、私なのですか」
長官は、少しだけ考える間を置いた。
「あなたの申立書には、感情を表す言葉が、一つもなかった」
「……はい。事実だけを書くように、と」
「そう言われて、本当に事実だけを書ける人は、多くありません。大抵は、書いているうちに、自分の気持ちが紙に入り込む。あなたは、六年分の気持ちがありながら、それを入れなかった」
褒められているのか、観察されているのか。やはり、声の調子からは分からない。
「それだけです。特別な理由は、ありません」
それでも、その「それだけ」が、私にはひどく重く聞こえた。
「……少し、考えさせていただけますか」
「もちろんです。急ぎません」
長官は、頷いた。
そして、席次表を、もう一度机の上に広げる。
「ただ、この晩餐会は、五日後です。それまでに、この表を直さなくてはならない」




