リリア様を、責めないでください
証人の申し出の期限は、五日後だった。
私は、誰の名前も書かなかった。
アンナなら、あの夜の私の様子を話してくれるだろう。母も、父も、言えば来てくれたかもしれない。けれど、晩餐会の夜に起きたことは、すでに記録に残っている。典礼官と書記官の証言で、確かめられているのだ。
私が出したのは、自分で書いた時系列の紙と、受理の写し。それだけだ。
審問の朝は、よく晴れていた。
父は馬車の中で、何度も咳払いをしている。同伴は任意だと手紙にはあったけれど、父は当主として立ち会う。クレイン家からも、伯爵が来るはずだ。
「セシリア」
王宮の門が見えたところで、父が言った。
「審問では、感情的になるな。事実だけを言え」
「はい。そうするつもりです」
「……それと」
父は窓の外を見たまま、付け加える。
「無理に、強く見せなくていい」
意外な言葉だった。
返事ができないうちに、馬車は事務棟の前に着く。
審問が行われるのは、前に通された小部屋とは別の、広い部屋だ。
奥に高い机が一つ。その左右に、向かい合う形で席が用意されている。壁際の小さな机では、トビアスが記録の準備をしていた。
私と父は、右側の席に案内された。
左側の席には、すでにクレイン伯爵が座っている。その隣には、アルバート。そして、少し離れた椅子に、リリアが座っていた。
今日のリリアは、淡い灰色の落ち着いたドレスを着ている。首飾りは、していない。
目が合う。
彼女は、すぐに目をそらした。
アルバートは、私を見ていた。
ひと月前より、頬が少し痩せている。以前なら、そんなことにすぐ気づいて、心配する言葉をかけていた。今は、ただ事実として、目に入るだけだ。
扉が開き、レオンハルト・グレイヴス長官が入ってくる。
濃い灰色の上着に、審問官の印である銀の徽章。足音は静かで、部屋の空気が一瞬で引き締まった。
彼は奥の机につき、全員の顔を順に見た。私にも、アルバートにも、同じ長さで。
「ただいまより、ローレン子爵家長女セシリアの申し立てに対する、クレイン伯爵家嫡男アルバートの異議について、審問を行います」
淡々とした声が、広い部屋に響く。
「この審問は非公開です。ここで話されたことは、記録に残りますが、外部には漏らされません。審問官として、私はいずれの側にも立ちません。事実のみを確認します」
そして、記録簿を開いた。
「まず、申立人に伺います。申し立ての理由を、改めて述べてください」
私は立ち上がった。
膝が、少し震えている。けれど、声は出た。
「王国暦八一二年春の王宮晩餐会において、相手方は、婚約者としての私との同伴の約を履行せず、別の令嬢を同伴して入場しました。それが、申し立ての理由です」
「ほかに、理由は」
「ありません」
自分で言って、少し驚いた。
六年分の寂しさも、誕生日の贈り物の差も、書き出せば何枚にもなる。けれど、ここで求められているのは、事実だった。私が持っている事実は、あの夜のことだけで十分だ。
「承知しました。次に、相手方」
長官が、アルバートに視線を向ける。
「異議の理由を」
アルバートが立ち上がった。
顔色が、少し悪い。眠れていないのかもしれない。
「……あの夜、僕が彼女を迎えに行かなかったのも、リリアを同伴したのも、事実です。それは認めます」
「では、異議は何に対して」
「婚約を、解消するほどのことだったとは思えません」
アルバートは、握りしめた手を、腰の横で開いたり閉じたりしている。
「リリアは、妹のようなものです。母親を早くに亡くして、一人では何もできない。あの夜も、初めての王宮で心細いと言うから、放っておけなかった。それだけです。セシリアを蔑ろにするつもりは、一度もありませんでした」
「それだけ」
長官が、短く繰り返した。
「当夜、あなたはローレン嬢に、リリア嬢を同伴することを事前に伝えましたか」
「……いいえ」
「同伴の変更を、典礼局に届け出ましたか」
「それも、していません」
「では、ローレン嬢が入口で名前を飛ばされることを、あなたは予想していましたか」
アルバートは、答えに詰まった。
「予想……していませんでした。彼女なら、分かってくれると」
「分かってくれる」
長官は、ペンを走らせたまま、その言葉を書き取った。
「その確信は、どこから」
「六年間、彼女は、一度も文句を言わなかった。リリアのことで、不満を口にしたのは……ひと月前に、一度だけです」
「その一度のとき、あなたはどう答えましたか」
アルバートの肩が、ぴくりと動く。
「……家族に嫉妬するなんて、みっともない、と」
誰も、何も言わなかった。
長官は、その言葉も、そのまま記録に書き込んだ。
「当夜の記録に、あなたは書記官へ申告をしています。婚約者のローレン嬢は、体調不良で欠席した、と。これは事実ですか」
部屋が、静まり返った。
アルバートの唇が、わずかに動く。
「……事実では、ありません」
横で、伯爵が目を閉じた。
「では、なぜそのような申告を」
「それは……」
アルバートの視線が、リリアの方へ動いた。
その瞬間、リリアが立ち上がった。
「私です!」
高い声が、部屋に響いた。
「私が、考えたの。セシリア様が恥をかかないように、体調が悪かったことにしましょうって。アルバートは、悪くないわ」
長官は、手を止めずに言った。
「リリア嬢は、証人として喚問されています。発言は、尋ねられたときにお願いします。ただ、今の発言は、記録します」
リリアは、はっとして口を押さえた。
「失礼……しました」
「座ってください」
長官は声を荒らげない。それでも、有無を言わせない調子だった。リリアが椅子に戻ったのを確かめてから、続ける。
「では、証人に伺います。リリア・ハートウェル嬢。あなたは当夜、クレイン殿の同伴者として、王宮に入場しましたね」
「はい」
「ご自身の名が、同伴者として名簿に載っていないことは、ご存じでしたか」
「……いいえ。アルバートが、大丈夫だと言ったから」
「ローレン嬢が、その場にいたことは」
「列の端にいらっしゃいました。私、手を振ろうと思って……でも、セシリア様は、何も言わずに帰ってしまわれて」
リリアの声が、細くなっていく。
「あなたは、ローレン嬢が帰られたあと、どう思いましたか」
「悪いことをしたと、思いました。だから、アルバートに言ったんです。セシリア様が恥をかかないように、病気だったことにしましょうって」
「それは、ローレン嬢のためになると考えたのですか」
「はい。だって、置いていかれたなんて噂になったら、かわいそうだもの」
長官は、ペンを止めた。
初めて、リリアの顔を、まっすぐに見る。
「リリア嬢。あなたは、ローレン嬢の同意を得ずに、ローレン嬢が出席しなかったことにしようとした。これは、ローレン嬢のためになったと、今も思いますか」
リリアは、すぐには答えなかった。
「……セシリア様は、怒らないから」
小さな声が、そう言った。
「いつも、いいのよって、言ってくださるから。今度も、きっと、許してくださると思って」
部屋の空気が、変わった。
伯爵が、目を開けて、リリアを見ている。父も、息をのんでいた。
アルバートは、顔を上げられないまま、膝の上の手を握りしめている。
長官は、その言葉を一字一句、記録に書き込んだ。
「ありがとうございます。証人は、以上です」
それから、私の方を向く。
「申立人に確認します。相手方は、同伴の約を履行しなかった事実と、申告が事実でなかったことを認めました。この二点は、申し立ての理由と一致します」
「はい」
「審問官としての裁定は、三日後に出します。それまでに、申立人または相手方から、追加で述べたいことはありますか」
私は、立ち上がろうとして、少し迷った。
追加で述べたいこと。ない、と言えば、それで終わる。
けれど、一つだけ、どうしても言っておきたいことがあった。
「一つだけ、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「リリア様を、責めないでください」
部屋の視線が、私に集まった。
「リリア様は、悪い方ではありません。ただ、これまで、周りが何でも許してきただけです。私も、その一人でした」
リリアが、驚いたように顔を上げる。
「ですが、許し続けることが、いつも優しさだとは思いません。私は、そのことに気づくのが、遅すぎたのだと思います」
言い終えて、席に座る。
手の震えは、もう止まっていた。
長官は、何も言わない。ただ、ペンを置く前に、ほんの一瞬だけ、こちらに目を向ける。それが何を意味するのか、私には分からなかった。
審問は、そこで閉じられた。
扉を出たところで、父が小さく息を吐く。
「……言うべきことを、言ったな」
それが、父なりの褒め言葉なのだと、分かった。
伯爵と父が、廊下の端で言葉を交わしている。リリアは、ハートウェル家の使用人に付き添われて、先に帰っていく。振り返らなかった。
私が馬車を待っていると、足音が近づいてきた。
誰の足音なのか、顔を見る前に分かる。アルバートだ。
ひどく疲れた顔をしている。話しかけようとして、何度か口を開いては閉じ、ようやく言葉を絞り出した。
「セシリア。一つだけ、聞かせてほしい」
「何でしょう」
「母上の手紙のことだ」
心臓が、一度だけ強く打った。
「昨日、母上が、泣きながら話してくれた。茶会の招待状も、季節の挨拶状も、三年前から、全部……君が書いていたと」
アルバートは、私を見つめている。
初めて見る目だった。怒りでも、非難でもない。ただ、何かを必死に探しているような目だった。
「僕は、毎年、母上の手紙を読んでいた。上手になったと、褒めたこともある。……あれは、君の字だったのか」




