私が我慢をやめた理由が、残ります
「本当です」
私が答えると、温室の中の空気が止まった気がした。
アルバートは通知を握ったまま、立ち尽くしている。百合の甘い香りだけが、何事もなかったように漂っていた。
「……どうして」
ようやく出てきた声は、かすれていた。
「どうして、僕に一言も相談してくれなかったんだ。父上から聞かされるなんて」
一言も。
その言葉を聞いて、思わず小さく息を吐いた。
「アルバート様も、晩餐会の夜、私に一言もなく申告なさいました。私が体調不良で欠席したと」
アルバートの顔が、こわばった。
「それは……君のためを思って」
「典礼局で、その申告を見せていただきました。記録には採用されませんでした。私があの夜、王宮に来ていたことは、典礼官と書記官が証言してくださいましたから」
「採用、されなかった……」
アルバートは、助けを求めるようにリリアを振り返った。
リリアは椅子から立ち上がり、彼の袖をつかむ。
「アルバート、私はセシリア様のためにって……悪いことなんて、何も」
「リリア」
アルバートが、彼女の言葉を遮った。
「少し、黙っていてくれないか」
リリアの手が、袖から離れた。
信じられないものを見るような顔で、彼女はアルバートを見上げている。私も、少し驚いていた。六年間、アルバートがリリアにそんなふうに言うのを、一度も聞いたことがない。
アルバートは、私に向き直った。
「セシリア。僕は、君を傷つけるつもりなんてなかった。本当だ」
「存じています」
「だったら」
「傷つけるつもりがなくても、傷つくことはあります」
自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
「アルバート様は、悪い方ではありません。それは、六年間ずっと分かっていました。だから私は、黙っていたのです。でも、黙っていても、何も変わりませんでした」
アルバートは何か言おうとして、口を開く。
けれど、言葉は出てこない。手の中の通知が、くしゃりと音を立てる。
「……異議を出す」
やがて彼は、低い声で言った。
「こんな形で、六年を終わらせたくない。審問で、ちゃんと話をさせてくれ」
「それは、アルバート様の権利です」
私は一礼した。
「審問で、お会いしましょう」
アルバートの横をすり抜けて、温室を出る。
背中で、リリアがすすり泣く声がする。アルバートが彼女を慰める声は、聞こえてこなかった。
玄関の外で待っていたアンナが、私の顔を見るなり駆け寄ってきた。
「お嬢様、お顔の色が」
「大丈夫よ。少し、百合の香りに酔っただけ」
アンナは疑わしそうな顔をしたけれど、それ以上は聞かずに、私の肩に薄い肩掛けをかけてくれた。屋敷を出るときに、黙って持ってきてくれていたらしい。
「ありがとう。用意がいいのね」
「お嬢様は、いつもご自分のことを後回しになさいますから」
馬車に乗り込んでから、膝の上で手を組んだ。指先が冷たい。
少し黙っていてくれないか。
アルバートがリリアに言った、あの一言。
あれは、私のために言ったのではないと思う。彼自身が、初めて何かに気づきかけて、リリアの声を聞いていられなくなったのだ。
それが何なのかは、私には分からない。分かる必要も、もうない。
それから三日間、私は屋敷からほとんど出なかった。
部屋にこもって泣いていたわけではない。典礼局で見せてもらった規則の冊子を思い出しながら、審問になった場合に聞かれそうなことを、紙に書き出していた。
婚約が結ばれた日付。晩餐会の招待状の文面。アルバートからの手紙の言葉。これまでにリリアが優先された日のうち、ほかの人も見ていたもの。
書き出してみると、思っていたよりずっと多かった。そして、そのほとんどに、私が「気にしていません」と言った記憶が添えられている。
二日目の夜、母が部屋に来た。
何も言わずに、私の書いた紙を一枚手に取って読み、それからまた机に戻す。
「字が、きれいね」
「伯爵夫人のお手紙で、練習しましたから」
言ってから、少し皮肉に聞こえたかもしれないと思った。けれど母は、小さく笑っただけだった。
「その字は、あなたのものよ。誰のために書いて覚えたのだとしても」
そう言って、母は部屋を出ていった。
私は、自分の書いた紙を見下ろした。三年間、他人の名前のために磨いてきた字。それが、今は自分のために並んでいる。
三日後、クレイン伯爵が屋敷を訪れた。
伯爵が一人でローレン家に来るのは、婚約が結ばれた日以来のことだ。
父の書斎に通された伯爵は、しばらく父と二人きりで話していた。やがて、執事が私を呼びに来る。
書斎に入ると、伯爵は椅子から立ち上がった。
白髪まじりの髪を後ろに撫でつけた、背の高い人だ。アルバートとは、目元がよく似ている。けれど、伯爵の目には、息子にはない鋭さがあった。
「セシリア嬢。急に押しかけて、すまない」
「いいえ、伯爵」
伯爵は、すぐには本題に入らなかった。
窓の外に目をやり、それから、ゆっくりと口を開く。
「妻から聞いた。三年もの間、妻の名で手紙を書いてくれていたそうだね」
私は、思わず父を見た。
父は、目を見開いている。代筆のことは、父にはまだ話していなかった。
「来月の茶会の招待状が、一通も書けないと泣きつかれてね。問いただしたら、全部話してくれた」
そう言うと、伯爵は深く頭を下げる。
「知らなかった。いや、知ろうとしなかったと言うべきだろう。妻の手紙がある年から急に上手くなったとは、思っていた。それだけだった。……申し訳ない」
格上の家の当主が、子爵家の娘に頭を下げている。
父が慌てて腰を浮かせかけたけれど、伯爵は手で制した。
「謝罪は、謝罪だ。それとは別に、話がある」
伯爵は椅子に座り直し、膝の上で指を組んだ。私も、父の隣の椅子に腰を下ろす。
伯爵は、あらためて私の方へ向き直った。
その目は、もう謝る人の目ではなかった。
「息子は、異議を出すと言っている。私も、当主として、それを止めるつもりはない」
「はい」
「審問になれば、晩餐会のことも、申告のことも、すべて記録に残る。ハートウェル家の娘の名前も出るだろう。クレイン家にとっても、ローレン家にとっても、愉快なことにはならない」
伯爵は、言葉を区切った。
「だから、提案をしに来た。申し立てを取り下げてもらえれば、婚約は両家の合意で、静かに解消する。息子の不始末として、ローレン家の名に傷がつかないよう、私が手を回そう」
父が、はっと息をのむ音がした。
それは、父がいちばん望んでいた形だ。家の体面を守ったまま、婚約を終わらせることができる。
私は、すぐには答えなかった。
伯爵の提案は、筋が通っている。審問をしなくても、婚約は終わる。誰も傷つかない。
けれど。
「伯爵。お心遣い、ありがとうございます」
私は、伯爵の目をまっすぐに見た。
「ですが、合意で静かに解消すれば、あの夜のことは記録に残りません。私が王宮に行き、名前を飛ばされ、帰ったこと。それが、なかったことになります」
「記録に残すことに、何の意味がある」
「私が我慢をやめた理由が、残ります」
書斎が、しんと静まり返った。
伯爵は、長いあいだ私を見ている。値踏みするような目ではない。何かを確かめるような目だった。
「……君は、妻が言っていたとおりの娘だな」
伯爵夫人の言葉が、頭をよぎる。あなたは、そういう子だったのね。
「伯爵夫人は、何と」
「黙って三年も手紙を書き続けられる娘は、いつか黙って出ていく娘だ、と」
伯爵は、ほんのわずかに口元をゆるめた。笑ったのか、苦笑したのか、分からなかった。
「提案は取り下げよう。審問で会うことになる」
伯爵は父に一礼し、書斎を出ていった。
扉が閉まると、父は椅子に崩れるように座り込んだ。
「代筆の話は、本当なのか」
「……はい」
父は額に手を当て、長い息を吐いた。
怒鳴られるかと思った。けれど、父の口から出てきたのは、まったく別の言葉だ。
「クレイン伯爵に、頭を下げさせてしまったな」
「……申し訳ありません」
「お前が謝ることではない」
父は、机の上の受理の写しに目をやった。この数日、ずっとそこに置かれたままになっている。
「三年だぞ。三年も他家の手紙を書かされて、それを誰にも言わずにいたのか。私は、お前が何をしているのか、何も知らなかった」
父の声には、怒りよりも、戸惑いの方が多く混じっている。
「伯爵は、合意での解消を持ちかけてくださった。正直に言えば、私はあれを受けてほしかった」
「存じています」
「だが、お前は断った。断る理由を、伯爵の前で、はっきり言った」
父は私を見た。この数日で初めて、まっすぐに。
「私には、あんなふうには言えなかっただろう」
それが褒め言葉なのかどうか、父自身にも分かっていないようだった。
その夕方、王宮典礼局から二通目の手紙が届く。
封を切ると、トビアスのものらしい丁寧な字で、こう書かれていた。
『クレイン伯爵家嫡男アルバートより、異議の申し出あり。
審問は十日後、王宮典礼局にて行う。審問官は、王宮典礼局長官レオンハルト・グレイヴスが務める。
なお、相手方の申し出により、以下の者を証人として喚問する。
ハートウェル伯爵家次女、リリア・ハートウェル』
私は、最後の一行を読み返した。
アルバートが、リリアを証人に呼んだ。
あの夜、彼の腕にいたのはリリアだ。申告を考えたのも、リリアだった。彼女が審問の場で何を話すのか、アルバートは分かっているのだろうか。
手紙の端には、小さな字で一行が添えられていた。
『申立人も、証人を申し出ることができる。期限は五日後まで』




