他人ですから
リリアの手紙を、私はひとまず袖の中にしまった。
先に済ませなければならないことがある。
書斎の扉を叩くと、中から父の低い声がした。入ると、父は机の前に立ったまま、窓の外を見ている。
「典礼局では、何を聞かれた」
「晩餐会の夜のことです。記録の確認でした」
私は、記録簿に書き加えられた一行のことを話した。アルバートが「体調不良で欠席」と申告していたこと。典礼官と書記官の証言で、それが採用されなかったこと。
父の眉が、ぴくりと動いた。
「アルバート殿が、そんな申告を」
「はい」
「……それは、お前の顔を立てようとしたのかもしれん。婚約者に置いていかれたと噂になるより、病で休んだことにした方が」
「お父様」
父の言葉を、途中で止めた。こんなことをするのは、生まれて初めてだ。
「それなら、私に一言、聞いてくださればよかったのです。アルバート様は、私に何も聞かずに、私が来なかったことにしようとしました」
父は口を結んだ。
私は、受理の写しを取り出して机の上に置いた。
「それから、もう一つご報告があります。典礼局で、婚約解消の申し立てをしてまいりました。私の名前で」
父は写しを手に取った。
読み進めるうちに、その顔から色が引いていく。指先が、紙の端を強くつかんだ。
「……お前の名で、だと」
「成年に達した当事者は、本人の名で申し立てができると、規則に定められています」
「規則の話をしているのではない!」
父の声が、書斎に響いた。
廊下で、誰かが足を止める気配がする。
「この婚約は、私とクレイン伯爵が結んだものだ。家と家の約束だ。それを、娘が一人で、当主の頭越しに、王宮へ申し出たというのか。クレイン家にどう顔向けしろというんだ」
「申し訳ありません」
私は頭を下げる。けれど、取り下げますとは言わなかった。
「お父様にご相談すれば、止められると思いました。止められたら、私はまた我慢をしたと思います。六年間、そうしてきたように」
父は写しを机に置き、椅子に深く座り込んだ。
しばらく、何も言わなかった。
時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……クレイン伯爵から、返事が来た」
やがて父は、引き出しから一通の手紙を取り出した。
「先日の晩餐会の件は、息子の配慮が足りなかった。しかし若い者同士の行き違いであり、大事にするほどのことではない。近いうちに両家で食事をして、水に流したい。そう書いてある」
水に流したい。
その言葉を、私は頭の中で繰り返した。何もなかったことにしたい、という意味だ。
「私は、それでいいと思っていた。お前も、時間が経てば落ち着くだろうと」
父は、手紙と受理の写しを並べて見下ろした。
「だが、もう遅いのだな。典礼局に通知が出れば、クレイン家にも届く」
「はい」
「お前の味方は、できん」
父の声は、疲れていた。
「私はローレン家の当主だ。家同士の付き合いを壊すわけにはいかない。クレイン家には、私から詫びを入れる。それが、私の務めだ」
「……分かりました」
それ以上のことは、言えなかった。
部屋を出ようとしたとき、父が背中に声をかけた。
「セシリア。解消が成ったとして、そのあと、どうするつもりだ」
振り返って、答えを探す。
次の縁談を待つのか。この屋敷で、静かに暮らすのか。どちらの姿も、うまく思い描けなかった。
「まだ、分かりません」
正直に答えると、父は短く息を吐いた。
「分からないまま、決めたのか」
「はい。分からないことより、今のままでいることの方が、怖かったのです」
父は何か言いかけて、やめた。
味方はできない。けれど、取り下げろとも言わなかった。それが今の父にできる、精いっぱいなのだと思う。
書斎を出ると、廊下に母が立っていた。
母は何も言わず、私の手を一度だけ握って、離す。
「……お母様」
「お父様の声、廊下まで聞こえていたわ」
母は書斎の扉に目をやり、それから私を見た。
「私には、あなたのようなことはできなかった。お義母様のお手紙を書いていた頃、一度だけ、もう嫌だと言おうとしたことがあったの。でも、言えなかった」
「どうしてですか」
「言ったら、私の居場所がなくなると思ったのよ」
母は小さく笑った。笑っているのに、どこか泣きそうな顔だった。
「あなたは、居場所がなくなってもいいと思ったの?」
少し考えてから、私は答えた。
「居場所があると思っていたところが、本当は居場所ではなかったのだと、気づいただけです」
母は返事をしない。ただ、もう一度だけ私の手に触れて、自分の部屋へ戻っていった。
その夜、私は部屋でリリアの手紙を読み返した。
来てくださらなかったら、私、ずっと待っているわ。
この言い方を、私はよく知っている。
六年間、何度も聞いてきた。来てくれなかったら、泣いてしまうわ。アルバートが一緒じゃないなら、行かない。そう言われるたびに、周りの誰かが予定を変えた。たいていは、私だった。
行かなければ、彼女は本当に待つかもしれない。そして、待たせたのは私だということになる。
行けば、彼女の思いどおりになる。
どちらを選んでも、居心地が悪い。けれど、行かずに逃げるのは、私が選びたい終わり方ではなかった。
一度だけ、きちんと話そう。そして、きちんと断ろう。
翌日の午後、私はハートウェル家を訪ねた。
アンナが付き添いを申し出てくれたけれど、玄関の外で待ってもらうことにする。リリアは二人だけでと書いてきた。その条件だけは、守っておきたかった。
執事に案内されて、庭の奥へ進む。
ガラス張りの温室には、白い百合が一面に咲いていた。むせかえるような香りの中、籐の椅子に座ったリリアが顔を上げる。
「来てくださったのね、セシリア様!」
ぱっと顔を輝かせて、彼女は立ち上がった。
首元には、あの真珠の首飾り。温室の明るい光の中で、晩餐会の夜よりもずっと白く見えた。
「どうぞ座って。お茶を用意させたの。セシリア様のお好きな、林檎の焼き菓子もあるのよ」
「ありがとうございます。でも、長居はできません。お話というのは」
リリアは少しだけ唇を尖らせて、それから椅子に座り直した。
「アルバートがね、とても落ち込んでいるの」
予想していた言葉だ。
「昨日もうちに来て、ずっと黙っていたわ。私が焼き菓子を勧めても食べないの。あんなアルバート、初めて見た」
昨日も、ここに来ていた。
私が典礼局で申立書を書いていた頃、彼はこの温室で、リリアに慰められていたのだろう。思っていたより、胸は痛まなかった。
「セシリア様がいなくなったら困るって。だから、もう許してあげて。ね?」
「リリア様。私は、アルバート様を責めているわけではありません」
「だったら、婚約を続ければいいじゃない」
リリアは不思議そうに首をかしげた。
「私ね、ずっと思っていたの。アルバートがいつか結婚するなら、相手はセシリア様がいいって。知らない人だったら嫌だもの。私がアルバートと出かけたら怒るような人だったら、困るでしょう?」
その言葉に、背筋が冷たくなった。
彼女が欲しいのは、アルバートの妻ではない。自分の居場所を、黙って譲ってくれる人だ。
「セシリア様は、怒らないもの。私がアルバートといても、いつもにこにこしてくれた。だから、セシリア様がいいの」
悪気はない。
彼女は本当に、心からそう思っているのだ。私が六年間黙っていたことを、私の優しさだと思っている。そして、それがこれからも続くと信じている。
「それにね」
リリアは、少し得意そうに続けた。
「あの夜の申告だって、私が考えたのよ。セシリア様が恥をかかないように、体調が悪かったことにしましょうって。アルバートは迷っていたけれど、私がそうしてって言ったの」
私は、しばらく何も言えなかった。
アルバートは、自分では考えていなかったのだ。リリアに言われて、そのとおりにした。
そして、リリアはそれを、私のためだと信じている。
「リリア様」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「お気持ちは分かりました。でも、私の答えは変わりません。私はもう、アルバート様の婚約者には戻りません」
「どうして?」
リリアの目に、涙がにじんだ。
「私が悪いの? 私がいるから?」
「あなたが悪いのではありません」
それは、本当のことだった。
「私が、自分で決めたことです」
「でも、セシリア様がいなくなったら、アルバートは誰と結婚するの? 伯爵様は、きっとすぐに別の人を探すわ。その人が、私のことを嫌いだったらどうするの?」
リリアは、真珠の首飾りを握りしめた。
「アルバートが、私と会えなくなったら……」
それが、彼女の本当に恐れていることなのだと分かった。
アルバートを失うこと。いつでも呼べば来てくれる人が、いなくなること。私のことは、その心配の中に入っていない。
「それは、アルバート様とリリア様が、お二人で考えることです」
できるだけ穏やかに、私は言った。
「私はもう、その相談には加われません。他人ですから」
リリアは何か言い返そうとして、言葉を探すように口を開いたり閉じたりした。
けれど、私はもう待たなかった。一礼して、温室の扉に手をかける。
扉が、外から開いた。
立っていたのは、アルバートだった。
息を切らしている。手に握られているのは、白い紙が一枚。典礼局の紋が、こちらからも見えた。
アルバートは、私とリリアを見比べて、目を見開く。
「セシリア……どうして君がここに」
それから、手の中の紙を私に突きつけるように持ち上げる。
「今朝、典礼局から通知が来た。君の名前で、婚約解消の申し立てがあったと。……本当なのか」




