私の名で終わらせたいのです
体調不良。
その四文字が、記録簿の上に並んでいる。
あの夜、私は熱もなかったし、咳もしていない。王宮の入口まで自分の足で歩き、列に並び、名前を呼ばれるのを待っていた。
それなのに記録の上では、私は最初から来なかったことになろうとしている。
「……事実ではありません」
声が少しかすれた。私は膝の上で手を握り、もう一度言い直す。
「私は、あの夜、王宮に参りました。体調も悪くありませんでした」
長官の表情は動かない。
「承知しました。では、順に伺います」
ペンを取り、新しい紙を一枚、手元に引き寄せる。
「当日、王宮に到着された時刻は」
「七時の鐘の少し前です。屋敷を出たのが六時半で、馬車で二十分ほどかかりました」
「どの門から」
「正門です。外套は西側の控えの間で預けました」
「列のどのあたりに」
「扉から数えて、十二番目くらいでした。前にはベルナール伯爵ご夫妻が並んでいらっしゃいました」
長官のペンが、一瞬だけ止まった。
それからまた動き出す。私は持ってきた紙を取り出し、膝の上に広げた。
「昨夜、思い出せることを書き出してまいりました。よろしければ、ご覧ください」
長官は紙を受け取り、目を通した。
時刻。場所。交わした言葉。並んでいた人たちの家名。典礼官が名前を読み上げて止まったこと。私が書記官に頼んだ三つのこと。
読み終えるまで、長官は一言も話さなかった。部屋の中には、紙をめくる音だけが響いていた。
「よく覚えておられる」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。褒めているのか、ただ確認しているのか、声からは分からない。
「名簿を作るお手伝いを、長くしておりましたので」
「どちらの」
一瞬、答えに迷った。
伯爵夫人の代筆のことは、誰にも言わないと約束していた。けれど、その約束はもう、私の手を離れている。昨日、伯爵夫人に全部お返ししたのだから。
「……クレイン伯爵家の茶会の名簿です。伯爵夫人のお名前で」
長官は何も言わずに頷いた。それ以上は聞かれなかった。そのことに、少しだけほっとする。
かわりに、別のことを尋ねられる。
「書記官に、席を空けたままにするよう依頼されたそうですね。理由を伺っても」
「席を詰めてしまえば、私がそこにいるはずだったことが、誰にも分からなくなります」
私は少し考えてから、言葉を選んだ。
「別の場所に移していただけば、私はあの夜、クレイン様の婚約者ではない誰かとして座ることになります。どちらも、事実とは違うと思いました」
長官は、私の紙の上に視線を落としたまま口を開く。
「空席は、当夜の記録で唯一、誰の申告にもよらない証拠になりました」
それが、あの夜の私の選択への評価なのかどうか。声の調子からは、読み取れない。
長官は扉の外に声をかけ、トビアスを呼んだ。それから、あの夜の典礼官も。
入ってきた典礼官は、白い髭をたくわえた年配の男性だった。私の顔を見て、小さく目を見開く。
「あの夜の、ご令嬢ですな」
「はい」
長官が尋ねる。
「当夜、クレイン殿の同伴者として名簿に記載されていたのは」
「ローレン子爵令嬢、セシリア様でございます」
「ローレン嬢は、その場におられたか」
「おられました。列の端に、お一人で。クレイン様と言葉を交わされ、その後、ご退出なさいました」
典礼官の答えは、私の紙に書いたことと、ほとんど同じだ。
続いてトビアスも、廊下で私から依頼を受けたことを証言する。
二人が部屋を出ていくと、長官は記録簿に向き直った。
「記録は、以下のとおりとします」
ペンが、整った字で一行を書き加えていく。
『ローレン子爵令嬢セシリア、招待に応じ王宮に到着。同伴予定者クレイン伯爵家嫡男アルバートが、別の令嬢を同伴して入場。ローレン嬢は入場せず退出。典礼官および書記官の証言により確認』
「クレイン殿の申告は、事実と異なるため採用しません。ただし、申告があったこと自体は記録に残します」
「残すのですか」
「消せば、記録を書き換えたことになります」
長官は、私の顔を見ずに言った。
「申告が誤りだったのか、何かの行き違いだったのか。それを判断するのは、この局の仕事ではありません。私たちは、起きたことを書くだけです」
冷たい言い方だと思った。
けれど、少し考えて、そうではないと気づく。
もし長官が私の肩を持って、アルバートの申告を消してしまったら。それは、アルバートが私の出席を消そうとしたのと、同じことになる。
この人は、どちらの味方もしない。
だからこそ、この記録は誰にも動かせないのだ。
「ありがとうございます」
私が言うと、長官はわずかに眉を寄せた。
「礼を言われることはしていません。仕事です」
それから、少しだけ間を置いて付け加える。
「本日の用件は以上です。ほかに、何か」
ここで「いいえ」と言えば、私は屋敷に帰ることになる。
父の書斎で、また話し合いが始まるだろう。クレイン伯爵からの返事を待ち、両家の当主が話し合い、その結果だけが私に伝えられる。
膝の上の手を、もう一度握り直した。
「婚約の解消について、伺ってもよろしいでしょうか」
長官が顔を上げた。
「どうぞ」
「両家の合意がなくても、一方からの申し立てで解消を求めることができると聞いております。その申し立ては、家の当主でなければできないのでしょうか」
長官は、すぐには答えなかった。
棚から薄い冊子を一冊取り出し、あるページを開いて私の前に置く。婚約の登録と解消に関する規則だった。
「婚約誓約書には、当主二名の署名と並んで、当事者二名の名が記されています。成年に達した当事者は、本人の名で申し立てができる」
成年は十八歳だ。私は十九になっている。
「ただし」
長官の声が、少しだけ低くなった。
「申し立てがあれば、両家の当主に通知が行きます。相手方には三十日の異議期間が与えられ、異議があれば審問になる。審問は非公開ですが、社交界に話が漏れないとは言えません」
「はい」
「お父上の同意がないまま申し立てれば、ご家族との関係にも影響が出るでしょう」
「……はい」
「それを承知のうえで、申し立てますか」
長官の目は、まっすぐだった。
私を止めようとしているのではない。背中を押そうとしているのでもない。ただ、私が何を選ぶのかを、待っている。
六年間、誰かにこんなふうに待ってもらったことがあっただろうか。
アルバートはいつも、私の答えを先に決めていた。君なら分かってくれるだろう。母も、父も、伯爵夫人も。私が「はい」と言う前に、もう答えを知っていた。
「申し立てます」
自分の声が、部屋の中にはっきりと響いた。
「父には、今日、帰ってから話します。反対されると思います。それでも、私の婚約ですから、私の名で終わらせたいのです」
長官はしばらく私を見ていた。
それから一枚の書式を取り出し、机の上に置いた。
「申立書です。理由の欄には、事実だけを書いてください。感情や推測は、審問で不利になります」
「分かりました」
ペンを借りて、一字ずつ書いていく。
申立人、ローレン子爵家長女セシリア。相手方、クレイン伯爵家嫡男アルバート。理由、王国暦八一二年春の王宮晩餐会において、相手方は婚約者としての同伴の約を履行せず、別の令嬢を同伴して入場したため。
それだけ書いて、ペンを置いた。
六年分の寂しさも、真珠の首飾りも、白い百合も、そこには書かなかった。書かなくていいのだと、長官が教えてくれたから。
長官は書類に目を通し、受付の印を押した。
「受理しました。本日から三十日が異議期間です。写しをお渡しします」
渡された紙には、今日の日付と、典礼局の紋が押されていた。
部屋を出る前に、私は振り返った。
長官はもう、次の書類に目を落としている。机の端の紅茶は、来たときと同じ位置で、すっかり冷めていた。
声をかけようとして、やめた。私が口を出すことではない。
廊下に出ると、トビアスが出口まで送ってくれた。
書記官たちの机の間を通り抜けるとき、来るときに見た席次表が、まだ同じ机に広げられているのが目に入った。上座近くで隣り合った、あの二つの家名も、そのままだ。
「どうかなさいましたか」
トビアスに聞かれて、私は首を振った。
「いいえ。立派なお仕事だと思って」
「長官のおかげです。うちの長官は、記録の一字一句にうるさいんですよ。昨日も夜中まで残っておられました」
トビアスは誇らしげに言って、それから声を落とした。
「……実を言うと、あの夜の申告を受けたのは別の書記官でして。長官は晩餐会の翌朝それを見つけて、すぐにローレン様への手紙を書かれたんです。朝食も取らずに」
冷めた紅茶のことを思い出した。
帰りの馬車の中で、受理の写しを何度も見返した。
今日の日付と、私の名前。三十日後には、何かが決まっている。アルバートは異議を出すだろうか。父は、何と言うだろうか。
分からないことばかりだった。けれど、少なくとも一つだけは、はっきりしている。この紙に名前を書いたのは、私自身だ。
屋敷に戻ると、玄関でアンナが待っていた。
「お帰りなさいませ。旦那様が、書斎でお待ちです。それから……」
アンナは、銀の盆に載せた手紙を差し出した。
淡い桃色の封筒。封蝋は押されていない。表には、丸みを帯びた字で、私の名前だけが書かれていた。
裏返すと、差出人の名前があった。
リリア・ハートウェル。
封を開けると、短い文面が一枚だけ入っていた。
『セシリア様。
アルバートには内緒で、二人だけでお話がしたいの。明日の午後、ハートウェル家の温室でお待ちしています。
来てくださらなかったら、私、ずっと待っているわ。
リリア』




