あなたは、そういう子だったのね
クレイン伯爵夫人が屋敷を訪ねてきたのは、翌日の昼過ぎのことだった。
先触れもない、突然の訪問だ。母は慌てて応接間を整えさせ、いちばん上等な茶器を出すよう指示した。
「セシリア、早く支度を。伯爵夫人をお待たせしてはいけないわ」
母の声には、緊張と、かすかな安堵が混じっていた。
伯爵夫人が直々に来てくださった。きっと、この話を丸く収めに来てくださったのだ。母はそう考えているのだろう。
私は鏡の前で髪を整え、深呼吸をひとつした。
応接間に入ると、伯爵夫人が窓辺の椅子から立ち上がった。
淡い藤色のドレスに、真珠の耳飾り。六年間、何度も顔を合わせてきた人だ。私の手を取って、困ったように微笑む。
「セシリア。昨日はアルバートが、本当に失礼をしたわね」
「いいえ、伯爵夫人」
「あの子には、よく言い聞かせたわ。悪気はないのよ。あなたも知っているでしょう?」
「はい。存じております」
悪気がないことは、誰よりも知っている。
母がお茶を注ぎ、三人で向かい合った。伯爵夫人はカップに口をつけてから、少し身を乗り出す。
「リリアのことはね、私がいけなかったの」
思いがけない言葉だった。
「あの子は、母親を早くに亡くしたでしょう。ハートウェル伯爵はお忙しい方だから、うちで過ごすことが多かった。それで私がアルバートに言ったのよ。妹だと思って、大事にしてあげなさいって」
伯爵夫人は、遠い目をした。
「あの頃のアルバートは十歳で、リリアは六つだったかしら。泣いてばかりいる小さな子に、あの子は本当に優しくしてくれた。私は、それが嬉しかったの」
その光景は、私にも想像できた。
小さなリリアの手を引く、少年のアルバート。きっと、彼はその頃から少しも変わっていないのだ。言われたとおりに、妹を大事にし続けている。
ただ、リリアはもう六つではない。そして私は、その「家族」の中に一度も入れてもらえなかった。
「だからね、セシリア。あの子たちを、もう少しだけ大目に見てあげてほしいの」
伯爵夫人は、私の手に自分の手を重ねた。
「婚約解消なんて、悲しいことを言わないで。あなたのことは、本当の娘のように思っているのよ」
本当の娘。
その言葉を、以前の私なら嬉しく聞いただろう。
「それに……」
伯爵夫人は少し声を落とした。
「来月の茶会のこと、覚えているでしょう? 招待名簿をそろそろ決めないといけないの。今年はモーリス侯爵夫人もお招きしたいのだけれど、席をどうしたらいいか、私にはさっぱりで」
母が、隣で小さく息をのむ気配がした。
伯爵夫人の代筆のことを、母には話していない。頼まれたとき、誰にも言わないでほしいと言われたからだ。
私は、重ねられた手をそっと引いた。
「伯爵夫人。お話しくださって、ありがとうございます。リリア様のことも、伯爵夫人のお気持ちも、よく分かりました」
伯爵夫人の顔が、ほっとゆるむ。
「でも、婚約を解消したいという気持ちは変わりません」
ゆるんだ顔が、そのまま止まった。
「それから、茶会の名簿のことですが」
私は、あらかじめ用意しておいた紙の束を、テーブルの上に置いた。
伯爵夫人の名で書いた、挨拶状の下書き。この三年分の招待名簿の控え。どの家とどの家を離して座らせるべきか、書きとめた覚え書き。
「これまでのものは、すべてお返しします。来月の茶会からは、伯爵夫人ご自身のお名前で、お作りください」
「セシリア……」
「私はもう、クレイン家の者ではなくなります。他人が、伯爵夫人のお名前で手紙を書くわけにはまいりません」
伯爵夫人は、紙の束を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
怒るかもしれない、と思った。泣かれるかもしれない、とも。
けれど伯爵夫人は、どちらもしなかった。ただ、ひどく疲れたような顔で、紙の束を手元に引き寄せた。
「……そう。あなたは、そういう子だったのね」
その言葉の意味を、私はうまく受け取れなかった。
責められたのか。それとも、何か別のことを言われたのか。
伯爵夫人は、それ以上何も言わずに席を立った。母が慌てて見送りに出ていく。
一人残された応接間で、私は冷めたお茶を見つめていた。
あなたは、そういう子だったのね。
頭の中で、何度も言葉を繰り返す。そういう子、とはどういう意味だろう。言いつけを守る子、という意味だったのか。それとも、いつか離れていく子、という意味だったのか。
三年間、私は伯爵夫人の役に立っているつもりでいた。義理の娘になる者の務めだと、信じていたから。けれど伯爵夫人は今日、私の顔を見るより先に、茶会の名簿の話をした。
それが答えなのだと思う。悲しくないと言えば嘘になるけれど、不思議なほど、腹は立たなかった。
見送りから戻ってきた母は、扉を閉めるなり私の前に立った。
「セシリア。今のは、どういうことなの」
「何のことでしょう」
「茶会の名簿よ。あなた、伯爵夫人のお手紙を書いていたの?」
「三年前からです。頼まれて」
母は、信じられないという顔をした。
「どうして黙っていたの」
「伯爵夫人に、誰にも言わないでほしいと頼まれましたから」
「それにしたって……」
言いかけて、母は口をつぐんだ。それから、ぽつりと言う。
「あんなふうにお返しするなんて。伯爵夫人に恥をかかせたのよ。少しは、我慢して差し上げても」
「お母様」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「私は三年間、我慢していました。誰にも言わずに、伯爵夫人のお名前で、手紙を書いてきました。それでもアルバート様は、私を晩餐会に迎えに来てくださらなかった」
母は唇を結んだまま、何も言わない。
「これ以上我慢しても、何も変わらないと思います。だから、やめることにしたのです」
母はしばらく私を見つめている。
何か言い返されるだろうと、私は身構えた。けれど母は、ふいに目をそらし、窓の外を見た。
「……私もね、若い頃、お義母様のお手紙を書いていたのよ」
小さな声だった。
「お父様は、今もご存じないわ」
それだけ言うと、母は部屋を出ていった。
閉じた扉を、私は長いあいだ見つめていた。
翌朝。
約束の日の空は、薄く曇っていた。
衣装部屋で、私は一着の濃紺のドレスを選んだ。飾りの少ない、地味な仕立てのものだ。
アルバートが好きだと言っていた、淡い水色のドレスには手を伸ばさなかった。王宮典礼局に行くのは、誰かに気に入られるためではない。
アンナが髪をまとめながら、鏡越しに私を見る。
「お嬢様、お一人で本当に大丈夫ですか」
「ええ。話すことは、もう決めてあるから」
昨夜、晩餐会の出来事を、起きた順番に紙に書き出した。時刻、場所、交わした言葉。覚えていることを、余さず並べてある。
晩餐会の朝、アルバートの手紙を受け取った時刻。屋敷を出た時刻。列に並んだ位置。典礼官が名を読み上げて言葉を止めたこと。アルバートの言葉。私の言葉。書記官に頼んだ三つのこと。
書いているうちに、手の震えは止まっていった。感情を並べるのではなく、起きたことを並べる。それなら、私にもできる。
あとは、それをそのまま話せばいい。
父が用意してくれた馬車で、王宮に向かう。
晩餐会の夜とは違う門をくぐり、事務棟の前で降りた。案内の衛兵に名を告げると、すぐに二階へ通される。
王宮典礼局は、思っていたより静かな場所だった。
広い部屋に机がいくつも並び、紺色の制服の書記官たちが、黙々とペンを走らせている。壁一面の棚には、革表紙の名簿がぎっしりと詰まっていた。インクと古い紙の匂いがする。
通り過ぎる机の一つに、大きな紙が広げられていた。細かい四角の中に、家名が書き込まれている。晩餐会の席次表だろう。
思わず足が止まりそうになった。上座に近いところに、仲が悪いことで知られる二つの家が、隣り合って並んでいる。
口を出す立場ではない。私は目をそらして、書記官の後を追った。
「ローレン様」
声をかけてきたのは、晩餐会の夜に私を呼び止めた、あの若い書記官だった。
「あの夜は失礼いたしました。トビアス・ノールと申します」
「こちらこそ。あの夜は、ありがとうございました」
私が頭を下げると、トビアスは少し照れたように頬をかいた。
「長官がお待ちです。どうぞ、こちらへ」
案内されたのは、奥の小さな部屋だった。
窓際に大きな机があり、書類が几帳面に積まれている。端に置かれた紅茶は、手をつけられないまま冷めているようだった。机の向こうで、一人の男性が書類から顔を上げた。
黒に近い、濃い灰色の上着。きちんと整えられた暗い色の髪。年は二十代の後半くらいだろうか。笑顔はない。かといって、冷たいというのとも少し違う。
ただ、まっすぐにこちらを見ていた。
男性は立ち上がり、机の前に出て、正式な礼をした。
「王宮典礼局長官、レオンハルト・グレイヴスです。ご足労いただき、感謝します」
「ローレン子爵家のセシリアと申します。お招きにあずかり、光栄に存じます」
私も礼を返す。長官は、机の前の椅子を私に勧めてから、自分の席に戻った。
一冊の記録簿が、私の前に開かれる。
春の王宮晩餐会。入場記録。整った字で、あの夜のことが書かれていた。
長官は、その一行を指で示した。
「お呼び立てした理由は、一つです」
淡々とした声だった。
「あの夜、あなたが退出されたあと、クレイン殿がこの局の書記官に申告をされています。婚約者のローレン嬢は、体調不良のため欠席した、と」
私は、息を止めた。
体調不良。そんな話は、誰からも聞いていない。
「あなたの依頼と、クレイン殿の申告は矛盾します。どちらが事実か、ご本人の口から確認したい」




