拗ねているのではありません
「冗談ではありません」
私が答えると、アルバートは小さく笑った。
「またそれか。昨夜のことなら、悪かったと思っているよ。リリアのお父上が急に来られなくなってね。初めての王宮晩餐会で、一人では心細いと言うから」
「それで、私の代わりに」
「代わりじゃない。リリアは家族みたいなものだ。家族が困っていたら、助けるのは当然だろう?」
彼は花束を差し出した。
白い百合の香りが、玄関いっぱいに広がる。喉の奥が、少しだけ詰まった。
「百合は苦手だと、前にお伝えしました」
「そうだったか? リリアが、これがいちばん綺麗だと言うから」
アルバートの後ろで、リリアが小さく肩をすくめる。
「ごめんなさい、セシリア様。私が選んだの。だって、とてもいい香りでしょう?」
悪気のない声だった。
彼女は昔から、こういう人だ。自分が好きなものは、みんなも好きだと思っている。そして、たいていの場合、周りがそれに合わせてきた。
私も、その一人だ。
「お気持ちだけ、いただきます」
花束には手を伸ばさずに、私は言った。
「アルバート様。私は昨夜、本気でお伝えしました。婚約を、解消させていただきたいのです」
アルバートの笑みが、わずかに固まる。
「……セシリア。少し疲れているんじゃないか」
「いいえ」
「一晩で決めるようなことじゃないだろう。六年だぞ。僕たちが婚約したとき、君はまだ十三だった。ずっと一緒にやってきたじゃないか」
「はい。六年です」
だからこそ、決めたのだ。けれど、それを説明する気にはなれなかった。説明すれば、彼はまた「家族に嫉妬するなんて」と返すだろう。その言葉を、もう一度聞きたくはない。
リリアが、アルバートの袖を引いた。
「アルバート、セシリア様は怒っているのよ。私のせいだわ」
「君のせいじゃない」
「でも……。セシリア様、私、アルバートを取ろうなんて思っていないの。アルバートは、私のお兄様みたいな人なのよ。昔から、ずっとそうだったの」
リリアの目に、涙がたまっていく。
昨夜までの私なら、ここで謝っていた。泣かせてしまってごめんなさい。気にしていないから。そう言って、話を終わらせていたはずだ。
今は、何も言わずに彼女を見ていた。
リリアは、私が何も言わないことに戸惑ったようだった。涙を拭くことも忘れて、アルバートの顔を見上げる。
アルバートが、ため息をついた。
「分かった。今日は帰るよ。来週の観劇、席を取ってある。そのときにゆっくり話そう」
「その席は、リリア様とどうぞ」
「セシリア」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「そうやって拗ねるのは、みっともないよ」
覚えのある言葉だった。
ひと月前と同じ。いいえ、もっと前から、何度も聞いてきた言葉だ。
「拗ねているのではありません」
自分の声が震えていないことを、確かめながら続ける。
「父を通して、正式にクレイン伯爵へお伝えします。今日は、そのことをお知らせしたかっただけです」
アルバートは、しばらく私を見ていた。
何か言いかけて、口を閉じる。それから花束をリリアに渡し、踵を返した。
「行こう、リリア」
リリアは百合を抱えたまま、何度も振り返りながら馬車へ向かう。
扉が閉まる直前、彼女と目が合った。
もう泣いてはいない。自分の思いどおりにならない相手を、初めて見たような目をしていた。
「セシリア」
背後から、母の声がした。
振り返ると、廊下の柱の陰に母が立っている。その隣には、父の姿もある。
「今のは、どういうことだ」
父の声は低い。
書斎に入るのは、久しぶりのことだ。
窓際の机に父が座り、母はその横の椅子に腰かける。私は二人の正面に立った。
昨夜の晩餐会で起きたことを、順番に話す。アルバートが迎えに来なかったこと。リリアを同伴して入場したこと。私が退出し、典礼局に記録を頼んだこと。
話し終えると、父は長く息を吐いた。
「一晩の不作法で、六年の婚約を捨てるつもりか」
「一晩ではありません」
「では、何だ」
「去年の冬の舞踏会。お母様のお誕生日の晩餐。私の誕生日も。アルバート様は、いつもリリア様を優先なさいました」
「それは聞いている。だが、お前は気にしていないと言っていただろう」
その通りだ。
私はいつも、気にしていないと言ってきた。父が心配そうな顔をすれば、笑ってみせた。母が何か言いかければ、先回りして「大丈夫です」と言う。それが、いちばん波風の立たないやり方だったから。
だから父は、本当に知らなかったのだ。
「……気にしていないと、言い続けてきました。言わなければ、丸く収まると思っていたからです」
父は黙った。
かわりに口を開いたのは、母だった。
「セシリア。殿方には、そういうところがあるものよ。お父様だって、若い頃は」
「ヘレナ」
父が遮る。母は口をつぐみ、膝の上で手を組み直した。
その仕草を見て、私は初めて思った。母も、何かを我慢してきたのかもしれない。それを娘に伝えることが、母なりの守り方だったのだろう。
けれど、私は母と同じようには生きられそうにない。
「クレイン家は、うちより格上の家だ」
父は指先で机を叩きながら言った。
「それに、リリア嬢はハートウェル伯爵の娘だ。お前が騒げば、ハートウェル家とも気まずくなる」
「騒ぐつもりはありません。あったことを、記録に残していただいただけです」
「その記録が、騒ぎになると言っているんだ」
父の言うことも、間違ってはいない。社交界では、事実よりも噂の方が早く広まる。昨夜の入口にいた人たちは、今ごろ、それぞれの屋敷で話しているだろう。
「この縁談は、私とクレイン伯爵が決めたものだ。こちらから解消を申し出れば、ローレン家は社交界で笑われる。お前の次の縁談も、難しくなるだろう」
「分かっています」
「分かっていて、言うのか」
「はい」
父は私の顔をじっと見つめる。私は目をそらさなかった。
長い沈黙のあと、父は机の上の便箋を引き寄せた。
「……クレイン伯爵に、一度、話をしたいと書く。解消の話ではない。昨夜の件について、説明を求めるだけだ」
「お父様」
「それ以上は、今は約束できない。いいな」
全部ではない。けれど、何もしないよりは、ずっと前に進んでいる。
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、父は何も言わずにペンを取った。
自室に戻ると、アンナがお茶を淹れてくれた。
机の上には、昨夜書いた紙が置いたままになっている。
一、父と母に、今夜のことを話す。
その横に、小さく印をつけた。
話した。全部が伝わったわけではない。父はまだ解消に賛成していないし、母は悲しそうな顔をしていた。
それでも、私は言った。気にしていないとは、一度も口にしていない。
「お嬢様」
アンナが、遠慮がちに口を開く。
「差し出がましいことを申しますが……昨夜から、お嬢様のお顔が、少し違って見えます」
「どう違うの?」
「うまく言えません。ただ、前より、ご自分の足で立っていらっしゃるように見えるのです」
私は、手元のカップに目を落とした。
自分の足で立つ。そんなふうに考えたことはなかった。今までは、誰かの隣に立つことばかり考えていた気がする。
「ありがとう、アンナ」
お茶は、少しだけ苦い。
カップを置いて、玄関でのリリアの顔を思い出す。
泣いて、謝って、アルバートの袖を引く。子どもの頃から変わらない仕草だ。そうすれば、誰かが必ず折れてくれた。
今朝、初めて誰も折れなかった。
あの目は、怒りでも悲しみでもなかったと思う。ただ、分からないという顔だった。どうしてセシリア様は、いつものように謝らないのだろう、と。
彼女を責める気持ちは、あまり湧いてこない。そう育てたのは、彼女一人ではないのだから。
夕方になって、屋敷に一通の手紙が届いた。
持ってきたのは、父付きの執事だ。けれど彼は父の書斎ではなく、私の部屋の扉を叩いた。
「お嬢様宛てでございます」
差し出された封筒は、厚手の白い紙でできている。封蝋に押されているのは、見覚えのある紋章だった。
王宮典礼局の紋だ。
社交の名簿を作るとき、何度も目にしてきた。けれど、自分宛ての手紙で見るのは初めてだ。
封を切ると、短い文面が整った字で並んでいた。
『ローレン子爵令嬢セシリア殿
昨夜の王宮晩餐会における入場記録について、記載内容をご本人に確認いたしたく、明後日午前、王宮典礼局までお越し願いたい。
なお、ご婚約に関わる記録であるため、ご家族の同伴は任意とする。
王宮典礼局長官 レオンハルト・グレイヴス』
署名の下に、同じ筆跡で一行だけ書き添えてあった。
『追記 記録は、事実のとおり作成済みである』
私は、手紙を二度読み返した。
ご本人に確認いたしたく。
父ではなく、私に宛てて書かれている。婚約は両家の当主が結んだものだ。それなのに、この手紙は、私自身の言葉を求めていた。
廊下を足早に近づいてくる音がした。執事から聞いたのだろう、父が部屋の入口に立つ。
「典礼局から、だと?」
私は黙って手紙を差し出した。父は眉を寄せて読み、署名のところで目を止める。
「長官が、直々にか」
「入場記録の確認だそうです」
「……同伴は任意、か。私も行こう。お前一人では」
「いいえ」
言ってから、自分でも少し驚いた。父の申し出を、こんなふうに断ったことはない。
「この手紙は、私に宛てられています。ご本人に確認したい、と。ですから、私の言葉でお答えしたいのです」
父は手紙と私の顔を、何度か見比べた。それから、短く言った。
「馬車は出す。それだけだ」
「はい。ありがとうございます」
父が去ったあと、私は手紙を机に置き、昨夜の紙の隣に並べた。
明後日。王宮典礼局。
そこで、私は何を話せばいいのだろう。




