妹を大切になさってください
「クレイン伯爵家ご嫡男、アルバート様。ならびに——」
典礼官の声が、そこで止まった。
春の王宮晩餐会。大広間の扉の前には、名を呼ばれるのを待つ貴族たちが並んでいる。
その列の端に、私は一人で立っていた。
婚約者のアルバートから届いた手紙は、今朝の一枚だけだ。
『迎えに行けない。会場で会おう』
だから一人で来た。一人で馬車を降り、一人で列に並び、彼を待つことにした。
そして今、彼はここにいる。
腕に、リリア・ハートウェル伯爵令嬢を連れて。
淡い桃色のドレス。首元には、大粒の真珠の首飾り。
典礼官が名簿に目を落とす。そこに書かれた同伴者の名は、リリアではない。
ローレン子爵令嬢セシリア。私の名前だ。
周りの視線が、二人から私へ移ってくる。
「ああ、セシリア。ちょうどよかった。リリアが一人で心細いと言うから、一緒に来たんだ。君なら分かってくれるだろう?」
悪びれた様子はない。本当に、そう思っているのだ。
私は一歩前に出て、二人に向き直った。
「妹を大切になさってください」
声は、自分でも驚くほど落ち着いている。
「私は他人になりますから」
それだけ言って、列を離れた。
背中で誰かが息をのむ。アルバートが私の名を呼んだ気もするけれど、振り返らなかった。
「セシリア様、待って……!」
リリアの声だ。泣き出しそうな、細い声。
あの声を聞くたびに、私はいつも足を止めてきた。彼女を泣かせてはいけない。アルバートが困るから。そう思って。
今夜は、止まらずに歩いた。
大理石の廊下に、踵の音がやけに大きく響く。
涙は出ない。
かわりに頭に浮かんだのは、ひと月前の誕生日のことだ。
アルバートから贈られたのは、刺繍入りのハンカチだった。彼が選んでくれたものなら、何でも嬉しいと思えた。
同じ月、リリアの誕生日には、真珠の首飾りが贈られている。
さっき、彼女の首元で光っていたものだ。
そのとき一度だけ、私は口にした。少しだけ、寂しいと。
アルバートは眉をひそめて言った。
『リリアは妹みたいなものだから。家族に嫉妬するなんて、みっともないよ』
私は謝った。そうね、ごめんなさい、と。
そうやって六年間、たくさんのことを飲み込んできた。舞踏会で一人になる夜も。約束の日に「リリアが熱を出した」と言われ、待ちぼうけになった午後も。
自分が我慢すれば、丸く収まる。
ずっと、そう信じていた。
けれど列の端で待ちながら、ようやく分かったのだ。
彼女が家族なら、私は何なのだろう。
婚約者として扱われていない。家族でもない。
それならもう、他人と変わらないではないか。
「ローレン子爵令嬢」
後ろから呼ばれて、足を止めた。
振り返ると、紺色の制服を着た若い男性が、名簿を抱えて立っている。胸元の徽章で、王宮典礼局の書記官だと分かった。走ってきたのか、少し息が上がっている。
「失礼いたします。典礼局の者です。今夜の席次について、確認させてください」
「はい」
「ご婚約者のクレイン様は、別のご令嬢を同伴して入場なさいました。ローレン様のお席は、どのように……」
言いにくそうに、彼は名簿をめくる。
席を詰めるか、別の場所に移すか。そういう相談なのだろう。
「私の席は、空けたままにしてください」
「空けたまま、ですか」
「はい。それから、今夜私が招待に応じて王宮に来たこと。クレイン様が別の方と入場されたこと。私が入場せずに退出したこと。これを、記録に残していただけますか」
書記官は目を瞬かせた。
「記録、でございますか。席次の変更ではなく」
「ええ。変更ではなく、記録です」
彼はしばらく私の顔を見ていた。それから表情を引き締め、深く頷く。
「入場記録には、事実をそのまま記載いたします。それが典礼局の務めですので」
「ありがとうございます」
「念のため、長官に報告いたします。どうぞお気をつけてお帰りください」
一礼して、彼は大広間の方へ戻っていった。
長官。王宮典礼局の長官は、たしかグレイヴス侯爵だったはずだ。社交の名簿を作るとき、その名を何度も書いた。顔は知らない。
外套を受け取り、迎えの馬車を呼んでもらう。
揺れる馬車の中で、膝の上の手袋を見下ろした。
今夜のために新しく仕立てた、白い手袋だ。結局、一度も誰の手にも触れずに終わった。
自分で言った言葉が、まだ耳に残っている。他人になります。あんなにはっきり物を言ったのは、生まれて初めてかもしれない。
明日になれば、きっと後悔する。そう思っていたのに、窓の外を流れる王都の灯りを見ているうちに、呼吸が楽になっていくのが分かった。
来月のクレイン家の茶会。あの招待名簿は、誰が作るのだろう。
そう考えかけて、やめた。それはもう、私が心配することではない。
屋敷に戻ったのは、晩餐会が始まって一時間も経たない頃だった。
玄関で迎えた母が、目を丸くする。
「セシリア? どうしたの、こんなに早く」
「少し、疲れてしまって」
「アルバート様は? 送ってくださらなかったの?」
答えようとして、言葉に詰まる。
全部を話すには、まだ自分の中で整理がついていない。今ここで話せば、きっと母に言いくるめられてしまう。
「お父様は?」
「書斎よ。今夜は早く休むとおっしゃっていたけれど」
「では、明日。お父様とお母様に、きちんとお話しします」
「喧嘩でもしたの? アルバート様は少し気が回らないところもあるけれど、悪い方ではないわ」
「分かっています」
本当に、分かっている。アルバートは悪い人ではない。誰かを傷つけようとして、リリアの手を取ったわけではない。
だからこそ、六年間、何も変わらないままだったのだ。
悪意があれば、怒ることもできただろう。悪意がないから、私が飲み込むしかなかった。
母はしばらく私の顔を見つめてから、声を落として尋ねた。
「何か、我慢できないことがあったの?」
責める調子ではない。心配してくれているのだと分かる。
それでも、その言葉が胸に引っかかった。
我慢できないことがあったの。
母はいつも、そう聞く。何があったのか、ではない。我慢できなかったのか、と。
小さい頃から、私はその問いに「いいえ」と答えてきた。
「……明日、お話しします」
もう一度だけそう言って、階段を上がる。
自室の扉を閉めると、ようやく肩の力が抜けた。
侍女のアンナがドレスを脱がせてくれる間、私は黙っていた。アンナも何も聞かない。髪をほどく指が、いつもよりゆっくりだった気がする。
一人になってから、机の引き出しを開けた。
奥にしまってあるのは、婚約誓約書の写しだ。六年前、私が十三歳のときに、両家の当主が署名したもの。原本は王宮典礼局に登録されている。
その下に、紙の束があった。
クレイン伯爵夫人の名で出した、季節の挨拶状の下書きだ。
三年前、伯爵夫人に頼まれた。社交の手紙はどうしても苦手だから、あなたが代わりに書いてくれないかしら、と。
将来の義母の頼みだ。断る理由はなかった。
それから三年間、クレイン家の挨拶状も、茶会の招待名簿も、席の並びも、私が作ってきた。どの家とどの家の仲が悪いか。誰と誰を隣に座らせてはいけないか。全部、頭に入っている。
アルバートは、このことを知らない。
息子には言わないでほしいと、伯爵夫人に頼まれたからだ。
私は下書きの束を、机の上に置いた。
婚約者としては、エスコートすらしてもらえない。
けれど、家の仕事は任される。
それは家族の扱いでも、婚約者の扱いでもなかった。
ペンを取り、新しい紙を一枚出す。
婚約は、両家の当主が署名し、王宮典礼局に登録して成立する。解消するには、両家が合意するか。あるいは一方が申し立て、相手が婚約を守らなかった事実を示すか。
名簿作りを手伝ううちに、そういう手続きも覚えていた。
紙に、上から順に書いていく。
一、父と母に、今夜のことを話す。
二、クレイン家に、婚約解消の意思を伝える。
三、合意が得られなければ、典礼局に申し立てる。
四、今夜の入場記録の写しを求める。
書き終えて、ペンを置いた。
手が、少しだけ震えている。
怖くないと言えば嘘になる。父はきっと反対するだろう。母は泣くかもしれない。クレイン家との縁が切れれば、ローレン家の立場も変わる。
それでも、今夜の私は「いいえ」と答えなかった。
列の端で、自分の名前が別の人のために飛ばされたとき。私の口から出たのは、謝罪ではなかった。
それが、少しだけ誇らしい。
蝋燭を吹き消す前に、もう一度だけ紙を見る。
一行目から四行目まで、どれも自分の字だった。
翌朝。
朝食を終えて部屋に戻ろうとしたところで、アンナが小走りでやってきた。
「お嬢様。アルバート様がお見えです」
予想はしていた。昨夜のことを、何か言いに来たのだろう。
謝罪だろうか。それとも、怒っているだろうか。
どちらでも、答えは変わらない。昨夜書いた紙は、まだ机の上にある。
アンナは少し言いよどんでから、付け加えた。
「……リリア様も、ご一緒です」
「お母様は?」
「奥様は、応接間にお通しするようにと」
「いいえ。玄関でお話しします。長くはかかりませんから」
アンナは目を丸くしたが、何も言わずに頷いてくれた。
私は小さく息を吐き、玄関へ向かう。
扉の前に、アルバートが立っていた。その半歩後ろに、目を赤くしたリリアがいる。彼女の指先は、当たり前のようにアルバートの袖をつまんでいた。昨夜と同じ真珠の首飾りが、朝の光を受けて白く光る。
アルバートの手には、大きな花束。
白い百合だ。香りが強すぎて苦手だと、私が何度も話した花。リリアの好きな花でもある。
花束の向こうで、彼はいつもと同じ笑顔を浮かべた。
「おはよう、セシリア。昨夜のあれは、冗談だろう?」




