一、自分で、決める
晩餐会の当日、私は日の出前に典礼局へ入った。
昨夜は、ほとんど眠れていない。席次表の百八十二の名前が、目を閉じても頭の中で並び続けていたからだ。
「顔色が悪いですね」
出勤したばかりのマルタが、眼鏡越しに私を見た。
「ご心配なく。仕事に支障はありません」
「心配はしていません。倒れられると、人手が減るので」
素っ気なく言いながら、マルタは机の上に、温かい茶の入った杯を置いた。私の机の端に、そっと。
「飲みなさい。書記が会場で倒れたら、典礼局の恥です」
「……ありがとうございます」
返事は、ない。
けれど、杯の茶は、ちょうど私の好きな濃さをしていた。
午前のうちに、もう一つ、片付けておくことがあった。
引き出しから請求書の書式を取り出し、必要事項を埋める。請求者、セシリア・ローレン。請求する記録、春の王宮晩餐会の入場記録の写し。
書き終えた紙を、トビアスの机に持っていくと、彼は目を丸くした。
「ご自分の分、ですか」
「ええ。局の書記が請求するのも、規定どおりでしょう?」
「それは、もちろん。……では、夕方までにお渡しします」
トビアスは、嬉しそうに笑った。
「ローレン様が、書記として請求書を出されるなんて。なんだか、感慨深いです」
私も、少しだけ笑い返した。
夕刻、王宮の大広間では、長いテーブルが何列も並べられていた。
給仕たちが、銀の食器を磨き、花を飾り、蝋燭を立てていく。壁際の台には、百八十二枚の席札が、卓ごとに整然と並べられていた。
その一枚一枚が、昨夜、典礼局の書記たちの手で書かれたものだ。私も、そのうち六十枚ほどを書いた。
最終の確認に、台の前を端から歩く。
第二卓。サラン侯爵夫人の席札を手に取って、指が止まった。
『サラン伯爵夫人』
違う。
昇爵前の称号で、書かれている。
「ハイム典礼官」
私は、近くにいた白髭の典礼官を呼んだ。
あの夜、入口で私の名を読み上げて言葉を止めた、あの人だ。ブルーノ・ハイムという名だと、数日前に知った。
「この席札、称号が古いままです。サラン家は昨年冬に昇爵されています」
ハイム典礼官は、私の手元をのぞき込み、眉を寄せた。
「……これは、昨夜、別の書記が書いたものですな」
「開場まで、あと四十分あります。私が書き直します」
「間に合いますか」
「はい」
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
隅の机を借りて、新しい札を一枚取る。ペンを持つ手は、もう震えなかった。
『サラン侯爵夫人』
一文字ずつ、同じ大きさに、同じ間隔で。
三年間、他人の名前のために磨いた字が、今は、ここに生きている。
書き終えた札を台に戻したとき、背後から、低い声がした。
「称号の誤りに、気づいたのですか」
長官だった。
いつから、そこにいたのだろう。昨日と同じ濃い灰色の上着だけれど、袖口が少しだけ皺になっている。目の下には、うっすらと影があった。
「はい。更新簿の記載と、照合しました」
「そうですか」
長官は、新しい札を見て、それから、古い方の札を手に取った。
「この札を書いたのは、新しく入った書記です。私が確認すべきところを、見落とした」
「長官のせいでは……」
「見落としは、見落としです。責任は、私にあります」
そう言って、古い札を、懐にしまう。
「ですが、気づいてくださって、助かりました」
淡々とした声だ。けれど、その一言で、肩の力が少しだけ抜けた。
「あの……長官。お休みには、なっていますか」
自分でも驚くことに、口が先に動いていた。
長官は、わずかに目を見開く。
「なぜ、そのようなことを」
「ノール書記官が、心配しておられました。昨日から、お屋敷に戻っていないと」
「……余計なことを」
小さく呟いてから、長官は咳払いをした。
「晩餐会の前は、いつもこうです。慣れていますので」
「慣れているのと、平気なのとは、違うと思います」
言ってしまってから、はっとした。上司に向かって、何ということを。
けれど長官は、怒らなかった。ほんの一瞬だけ、返す言葉を探すように、唇を結んでいる。
「……善処します」
そう言って、きびすを返した。その背中は、いつもより少しだけ、速足に見えた。
開場の鐘が鳴る。
私は、大広間の入口へ向かった。
あの夜と同じ、大きな扉。同じ大理石の床。違うのは、私の手に、名簿が握られていることだった。
隣に、ハイム典礼官が立つ。
「では、ローレン嬢。ご確認を」
「はい」
貴族たちが、列を成して入ってくる。典礼官が名を読み上げ、私が、名簿の席と照合していく。誤りがあれば、すぐに案内の者へ伝えるのが役目だ。
「ベルナール伯爵、ご夫妻」
「第四卓、左から二番目」
「モーリス侯爵夫人」
「第一卓、右端です」
名前と席が、頭の中で、すぐにつながる。クレイン家で三年、その前から、人の名前だけは、不思議と忘れたことがなかった。
何組目かの客のあとで、ハイム典礼官が、一瞬、言葉を止めた。
「……クレイン伯爵、ならびに、伯爵夫人」
息が、止まった。
扉の向こうに、見覚えのある二人が立っている。
伯爵と、その隣に、藤色のドレスを着た伯爵夫人。
アルバートの姿は、なかった。
あの夜と同じ列。同じ名簿の位置。けれど、今、そこに立っているのは、名を呼ばれる側の人たちだ。
「第五卓、右から三番目と四番目です」
自分の声が、驚くほど、平らに出た。
伯爵は、軽く頷いた。
「ありがとう、ローレン嬢」
その後ろで、伯爵夫人が、足を止めた。
視線が、台の上の席札に向いている。
「その字は……」
伯爵夫人は、第五卓の札を一枚、指先で持ち上げた。
『クレイン伯爵夫人』
私が書いたものだった。
「あなたの字ね」
「……はい」
「三年間、見てきた字だもの。すぐに分かるわ」
伯爵夫人は、札を、そっと台に戻した。
そして、小さな声で言った。
「あのとき、あなたに、一度もお礼を言わなかったわね。ごめんなさい」
息をのんだ。
アルバートと同じことを、この人も言うのか。
「……お言葉は、受け取ります」
私が答えると、伯爵夫人は、少し驚いたような顔をして、それから、目の端を押さえた。
「ええ。ありがとう」
伯爵が、そっと妻の腕を取り、会場の奥へ連れていった。
私は、深く息を吐いた。
「大丈夫ですか」
ハイム典礼官が、小声で聞いた。
「はい。……問題ありません」
そう答えて、次の名を待つ。
あの夜の扉の前に、私は、今度は、立つ側として立っている。
ただ、足は少しも震えない。あの夜と同じ場所なのに、まるで別の扉のようだった。
晩餐会は、滞りなく進んでいく。
席札の誤りは、サラン侯爵夫人の一枚だけだ。席次を巡る苦情は、一つも出ない。ベルナール伯爵夫人とモーリス侯爵夫人は、広間の別々の端で、それぞれ穏やかに談笑している。
宴の終わりが近づく頃、広間の隅に、マルタが立っているのに気づいた。
「悪くありませんでした」
私の隣に来て、前を向いたまま言う。
「悪くない、というのは、この局では、最高の評価です」
「……光栄です」
「ただし、明日の朝には、新しい名簿が来ます。今夜のことは、忘れなさい」
そう言い捨てて、マルタは、いつもの足取りで去っていった。
終宴の時刻になり、長官が、私の元へ来る。
「お疲れ様でした」
「はい。……お疲れ様です」
「一つ、お知らせがあります」
長官は、少しだけ声を落とした。
「秋の建国祭に合わせて、隣国のザルツ大公国から、使節団が来訪します。その席次と接遇の準備を、この局が担当することになりました。数か月がかりの仕事になります」
ザルツ大公国。
名簿を作っていた頃に、遠い国の名前として、何度か目にしたことがある。
「規模は、今夜の十倍近くになります。私は、その準備に、あなたの力も借りたいと考えています」
「私の、ですか」
「臨時書記の期間は一か月。それとは別に、考えておいてください。この局に、正式に残る気があるのかどうか」
即答はできなかった。
けれど、不思議と、迷いの形が、以前とは違っていた。どうしたらいいか分からない、ではない。どうしたいのかを、自分に尋ねている。
「……考えます。自分で」
長官は、小さく頷いた。
「それで、結構です」
屋敷に戻ったのは、夜も更けた頃だった。
玄関の灯りが、一つだけ点いている。扉を開けると、母が、階段の下の椅子に腰かけていた。
「お母様。まだ、起きていらしたのですか」
「眠れなかったのよ。……どうだったの、初めての晩餐会は」
私は、少し考えてから口を開く。
「入口に立って、名前を確認しました。あの夜と、同じ扉でした」
母は、はっと息をのんだ。
「怖くなかったの?」
「少しだけ。でも、仕事でしたから」
言ってから、自分の言葉に、少し驚いた。仕事でしたから。あの夜の私が聞いたら、きっと信じなかっただろう。
母は、黙って立ち上がり、私の頬に、そっと手を当てた。
「温かいミルクを、用意させたわ。飲んで、寝なさい」
それだけ言って、母は台所の方へ歩いていった。
その夜、部屋に戻って、机の引き出しを開けた。
奥から、一枚の古い紙を取り出す。晩餐会の夜に、書いた紙だ。
一、父と母に、今夜のことを話す。
二、クレイン家に、婚約解消の意思を伝える。
三、合意が得られなければ、典礼局に申し立てる。
四、今夜の入場記録の写しを求める。
一から三には、すでに印がついていた。
四の横に、私は、今日、典礼局の書記として自分の名で請求し、受け取った、あの夜の入場記録の写しを、そっと重ねる。
ペンで、小さく印をつけた。
これで、全部が終わりだ。
そう思った。けれど、胸の中に残ったのは、安堵だけではない。
次に何をするのか。この紙には、もう、書くことがない。
新しい紙を、一枚取り出す。
ペンを持って、しばらく考えてから、一行目に、こう書いた。
一、自分で、決める。
少し迷ってから、その下に、もう一行を足した。
二、典礼局に残るかどうかの答えを、期限までに、自分の言葉で出す。




