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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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10/50

一、自分で、決める

晩餐会の当日、私は日の出前に典礼局へ入った。


昨夜は、ほとんど眠れていない。席次表の百八十二の名前が、目を閉じても頭の中で並び続けていたからだ。


「顔色が悪いですね」


出勤したばかりのマルタが、眼鏡越しに私を見た。


「ご心配なく。仕事に支障はありません」


「心配はしていません。倒れられると、人手が減るので」


素っ気なく言いながら、マルタは机の上に、温かい茶の入った杯を置いた。私の机の端に、そっと。


「飲みなさい。書記が会場で倒れたら、典礼局の恥です」


「……ありがとうございます」


返事は、ない。


けれど、杯の茶は、ちょうど私の好きな濃さをしていた。


午前のうちに、もう一つ、片付けておくことがあった。


引き出しから請求書の書式を取り出し、必要事項を埋める。請求者、セシリア・ローレン。請求する記録、春の王宮晩餐会の入場記録の写し。


書き終えた紙を、トビアスの机に持っていくと、彼は目を丸くした。


「ご自分の分、ですか」


「ええ。局の書記が請求するのも、規定どおりでしょう?」


「それは、もちろん。……では、夕方までにお渡しします」


トビアスは、嬉しそうに笑った。


「ローレン様が、書記として請求書を出されるなんて。なんだか、感慨深いです」


私も、少しだけ笑い返した。


夕刻、王宮の大広間では、長いテーブルが何列も並べられていた。


給仕たちが、銀の食器を磨き、花を飾り、蝋燭を立てていく。壁際の台には、百八十二枚の席札が、卓ごとに整然と並べられていた。


その一枚一枚が、昨夜、典礼局の書記たちの手で書かれたものだ。私も、そのうち六十枚ほどを書いた。


最終の確認に、台の前を端から歩く。


第二卓。サラン侯爵夫人の席札を手に取って、指が止まった。


『サラン伯爵夫人』


違う。


昇爵前の称号で、書かれている。


「ハイム典礼官」


私は、近くにいた白髭の典礼官を呼んだ。


あの夜、入口で私の名を読み上げて言葉を止めた、あの人だ。ブルーノ・ハイムという名だと、数日前に知った。


「この席札、称号が古いままです。サラン家は昨年冬に昇爵されています」


ハイム典礼官は、私の手元をのぞき込み、眉を寄せた。


「……これは、昨夜、別の書記が書いたものですな」


「開場まで、あと四十分あります。私が書き直します」


「間に合いますか」


「はい」


自分でも驚くほど、迷いがなかった。


隅の机を借りて、新しい札を一枚取る。ペンを持つ手は、もう震えなかった。


『サラン侯爵夫人』


一文字ずつ、同じ大きさに、同じ間隔で。


三年間、他人の名前のために磨いた字が、今は、ここに生きている。


書き終えた札を台に戻したとき、背後から、低い声がした。


「称号の誤りに、気づいたのですか」


長官だった。


いつから、そこにいたのだろう。昨日と同じ濃い灰色の上着だけれど、袖口が少しだけ皺になっている。目の下には、うっすらと影があった。


「はい。更新簿の記載と、照合しました」


「そうですか」


長官は、新しい札を見て、それから、古い方の札を手に取った。


「この札を書いたのは、新しく入った書記です。私が確認すべきところを、見落とした」


「長官のせいでは……」


「見落としは、見落としです。責任は、私にあります」


そう言って、古い札を、懐にしまう。


「ですが、気づいてくださって、助かりました」


淡々とした声だ。けれど、その一言で、肩の力が少しだけ抜けた。


「あの……長官。お休みには、なっていますか」


自分でも驚くことに、口が先に動いていた。


長官は、わずかに目を見開く。


「なぜ、そのようなことを」


「ノール書記官が、心配しておられました。昨日から、お屋敷に戻っていないと」


「……余計なことを」


小さく呟いてから、長官は咳払いをした。


「晩餐会の前は、いつもこうです。慣れていますので」


「慣れているのと、平気なのとは、違うと思います」


言ってしまってから、はっとした。上司に向かって、何ということを。


けれど長官は、怒らなかった。ほんの一瞬だけ、返す言葉を探すように、唇を結んでいる。


「……善処します」


そう言って、きびすを返した。その背中は、いつもより少しだけ、速足に見えた。


開場の鐘が鳴る。


私は、大広間の入口へ向かった。


あの夜と同じ、大きな扉。同じ大理石の床。違うのは、私の手に、名簿が握られていることだった。


隣に、ハイム典礼官が立つ。


「では、ローレン嬢。ご確認を」


「はい」


貴族たちが、列を成して入ってくる。典礼官が名を読み上げ、私が、名簿の席と照合していく。誤りがあれば、すぐに案内の者へ伝えるのが役目だ。


「ベルナール伯爵、ご夫妻」


「第四卓、左から二番目」


「モーリス侯爵夫人」


「第一卓、右端です」


名前と席が、頭の中で、すぐにつながる。クレイン家で三年、その前から、人の名前だけは、不思議と忘れたことがなかった。


何組目かの客のあとで、ハイム典礼官が、一瞬、言葉を止めた。


「……クレイン伯爵、ならびに、伯爵夫人」


息が、止まった。


扉の向こうに、見覚えのある二人が立っている。


伯爵と、その隣に、藤色のドレスを着た伯爵夫人。


アルバートの姿は、なかった。


あの夜と同じ列。同じ名簿の位置。けれど、今、そこに立っているのは、名を呼ばれる側の人たちだ。


「第五卓、右から三番目と四番目です」


自分の声が、驚くほど、平らに出た。


伯爵は、軽く頷いた。


「ありがとう、ローレン嬢」


その後ろで、伯爵夫人が、足を止めた。


視線が、台の上の席札に向いている。


「その字は……」


伯爵夫人は、第五卓の札を一枚、指先で持ち上げた。


『クレイン伯爵夫人』


私が書いたものだった。


「あなたの字ね」


「……はい」


「三年間、見てきた字だもの。すぐに分かるわ」


伯爵夫人は、札を、そっと台に戻した。


そして、小さな声で言った。


「あのとき、あなたに、一度もお礼を言わなかったわね。ごめんなさい」


息をのんだ。


アルバートと同じことを、この人も言うのか。


「……お言葉は、受け取ります」


私が答えると、伯爵夫人は、少し驚いたような顔をして、それから、目の端を押さえた。


「ええ。ありがとう」


伯爵が、そっと妻の腕を取り、会場の奥へ連れていった。


私は、深く息を吐いた。


「大丈夫ですか」


ハイム典礼官が、小声で聞いた。


「はい。……問題ありません」


そう答えて、次の名を待つ。


あの夜の扉の前に、私は、今度は、立つ側として立っている。


ただ、足は少しも震えない。あの夜と同じ場所なのに、まるで別の扉のようだった。


晩餐会は、滞りなく進んでいく。


席札の誤りは、サラン侯爵夫人の一枚だけだ。席次を巡る苦情は、一つも出ない。ベルナール伯爵夫人とモーリス侯爵夫人は、広間の別々の端で、それぞれ穏やかに談笑している。


宴の終わりが近づく頃、広間の隅に、マルタが立っているのに気づいた。


「悪くありませんでした」


私の隣に来て、前を向いたまま言う。


「悪くない、というのは、この局では、最高の評価です」


「……光栄です」


「ただし、明日の朝には、新しい名簿が来ます。今夜のことは、忘れなさい」


そう言い捨てて、マルタは、いつもの足取りで去っていった。


終宴の時刻になり、長官が、私の元へ来る。


「お疲れ様でした」


「はい。……お疲れ様です」


「一つ、お知らせがあります」


長官は、少しだけ声を落とした。


「秋の建国祭に合わせて、隣国のザルツ大公国から、使節団が来訪します。その席次と接遇の準備を、この局が担当することになりました。数か月がかりの仕事になります」


ザルツ大公国。


名簿を作っていた頃に、遠い国の名前として、何度か目にしたことがある。


「規模は、今夜の十倍近くになります。私は、その準備に、あなたの力も借りたいと考えています」


「私の、ですか」


「臨時書記の期間は一か月。それとは別に、考えておいてください。この局に、正式に残る気があるのかどうか」


即答はできなかった。


けれど、不思議と、迷いの形が、以前とは違っていた。どうしたらいいか分からない、ではない。どうしたいのかを、自分に尋ねている。


「……考えます。自分で」


長官は、小さく頷いた。


「それで、結構です」


屋敷に戻ったのは、夜も更けた頃だった。


玄関の灯りが、一つだけ点いている。扉を開けると、母が、階段の下の椅子に腰かけていた。


「お母様。まだ、起きていらしたのですか」


「眠れなかったのよ。……どうだったの、初めての晩餐会は」


私は、少し考えてから口を開く。


「入口に立って、名前を確認しました。あの夜と、同じ扉でした」


母は、はっと息をのんだ。


「怖くなかったの?」


「少しだけ。でも、仕事でしたから」


言ってから、自分の言葉に、少し驚いた。仕事でしたから。あの夜の私が聞いたら、きっと信じなかっただろう。


母は、黙って立ち上がり、私の頬に、そっと手を当てた。


「温かいミルクを、用意させたわ。飲んで、寝なさい」


それだけ言って、母は台所の方へ歩いていった。


その夜、部屋に戻って、机の引き出しを開けた。


奥から、一枚の古い紙を取り出す。晩餐会の夜に、書いた紙だ。


一、父と母に、今夜のことを話す。

二、クレイン家に、婚約解消の意思を伝える。

三、合意が得られなければ、典礼局に申し立てる。

四、今夜の入場記録の写しを求める。


一から三には、すでに印がついていた。


四の横に、私は、今日、典礼局の書記として自分の名で請求し、受け取った、あの夜の入場記録の写しを、そっと重ねる。


ペンで、小さく印をつけた。


これで、全部が終わりだ。


そう思った。けれど、胸の中に残ったのは、安堵だけではない。


次に何をするのか。この紙には、もう、書くことがない。


新しい紙を、一枚取り出す。


ペンを持って、しばらく考えてから、一行目に、こう書いた。


一、自分で、決める。


少し迷ってから、その下に、もう一行を足した。


二、典礼局に残るかどうかの答えを、期限までに、自分の言葉で出す。

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