事実を、述べているだけです
七日目の朝、トビアスが、小さな封筒を持って私の机へ来た。
「ローレン様。初めての、給金です」
封筒には、典礼局の紋が押されている。中を見なくても、軽く、けれど確かな重みがあった。
臨時の書記には、七日ごとに給金が出る。そう聞いてはいたけれど、実際に自分の手に載せるのは、これが初めてだ。
「ありがとうございます」
「受領の署名を、こちらに」
差し出された帳面に、自分の名前を書く。セシリア・ローレン。何度も書いてきた名前なのに、今日は、ペン先が少しだけ弾んだ。
封筒を開けると、銀貨が数枚。それに、細かい銅貨が数十枚。
令嬢として、お小遣いをもらったことは、あった。けれど、自分の働きに対して、誰かが決めた額を渡される、という経験は、なかった。
「少ないですか」
隣の机から、マルタが、手を止めずに言った。
「いいえ。……いえ、金額が、というより」
「というより」
「どう使えばいいのか、まだ分からないのです」
マルタは、そこで初めて、ペンを置いた。
眼鏡の奥の目が、わずかに細くなる。
「初給金で、人が最初に何を買うかは、その人間を表すものです」
「ベル書記官は、何を買われたのですか」
「新しい靴です」
即答だった。
「それまで、前任者のお下がりを履いていましたから。十八のときです」
淡々と言って、マルタは、また書類に戻った。
その横顔を、少しの間、見つめてしまう。
平民の出で、二十二年。この局で、一番に頼られている人が、お下がりの靴から、始まったのだ。
昼休みに、マルタが、思い出したように言った。
「あなた、今は、屋敷から馬車で通っていますね」
「はい。毎朝、一番の馬車で」
「往復で、二刻」
「……そのくらいです」
「朝が早い仕事の人間が、一日に二刻を道に捨てるのは、無駄です」
マルタは、パンをちぎりながら、そっけなく続ける。
「局の近くに、私の従姉が営む下宿があります。二階の部屋が一つ、空いているそうです。家賃は、あなたの給金の三分の一ほど。朝食付き」
「下宿……」
「勧めているわけではありません。事実を、述べているだけです」
事実を述べているだけ。
その言い回しが、どこか長官に似ていて、少しだけ可笑しかった。
「考えてみます」
「二度、考えなさい」
マルタは、そう言って、パンをかじった。
夕方、仕事を終えてから、私は、初めて、一人で王都の通りを歩いた。
付き添いの侍女も、行き先を決める誰かもいない。
石畳の道に、店が並んでいる。ガラス越しの陽が、傾きかけている。
最初に立ち止まったのは、小さな文具店だった。
窓際に、深い紺色のインク壺が、飾られていた。
その隣に、軸の細い、黒いペン。値札を見ると、給金の半分ほどだ。
手に取ってみる。軸の握りが、私の指に、ちょうどよく収まった。
「いらっしゃいませ。書き物を、なさる方ですか」
店主が、穏やかに声をかけてくれた。
「ええ。仕事で」
「それは、いいペンです。長く使えますよ」
仕事で。
自分で言った言葉に、くすぐったい思いがした。
私は、そのペンを買うことにした。
それから、隣の店で、小さな包みを二つ。一つは、母の好きな薔薇の香りの石鹸。もう一つは、父が気に入っている、深い色の茶葉。
それから、もう一軒。
手芸店の前で、足が止まった。
棚に、色とりどりの刺繍糸が並んでいる。淡い藤色の糸が、目に入った。
アルバートから贈られた、刺繍のハンカチを思い出す。あれは、彼が選んだものではなかったのだと、今は分かる。伯爵夫人が用意して、彼は、箱に入れただけだ。
私は、その藤色の糸を、一束買った。
ハンカチに刺繍をするのは、好きなのだ。誰かの誕生日のために、よく刺してきた。
今度は、自分のために、刺そう。
そう思ったら、少しだけ、胸が軽くなった。
屋敷に戻ると、母が、居間で待っていた。
「お帰りなさい。今日は、少し遅かったのね」
「ええ。少し、寄り道をしてきました」
私は、小さな包みを、母の前に置いた。
「お給金で、買ってきたのです。お母様に」
母は、包みを見て、目を丸くした。
それから、そっと解いて、薔薇の石鹸を手に取る。顔に近づけると、小さく、息を吸った。
「……いい香り」
「お好きな、香りでしょう」
「ええ。でも、どうして」
「前に、一度だけ、おっしゃっていたので」
私が七つの頃のことだ。母が、ふと、薔薇の香りがする、と言って、微笑んだ。その横顔を、どうしてだか、ずっと覚えている。
母は、石鹸を胸に抱えたまま、しばらく、口をきかない。
やがて、目の端を、指でぬぐった。
「……ありがとう。大切に、使うわ」
その声は、少し震えていた。
「お父様には、こちらを」
茶葉の包みを、傍らに置いた。
「あの人は、素直に喜べないかもしれないけれど」
「承知しています」
「でも、きっと、毎朝、飲むわ」
母は、笑って、そう言った。
翌朝の食卓で、父は、何も言わずに、その茶葉で淹れた紅茶を飲んだ。
一口、二口。それから、新聞の陰で、ぼそりと呟く。
「……悪くない」
母と私は、目を合わせて、こっそり笑った。
その朝、出勤してすぐ、そのペンで、書類に署名をした。
インクの出が、驚くほど滑らかだ。書き終えて顔を上げると、書類を取りに来た長官が、私の手元を見ていた。
「新しいペンですか」
「はい。……初めての給金で」
「そうですか」
長官は、それ以上、何も言わない。ただ、書類を受け取るとき、ほんの少しだけ、口元が動いたように見えた。
「いいペンです。大切にしてください」
そう言って、自分の部屋へ戻っていく。
たったそれだけのやり取りなのに、一日中、ペン先が軽かった。
それから十日ほどが過ぎた夜、夕食のあとに、母が居間で紅茶を淹れながら、思い出したように言った。
「今日ね、ベルナール伯爵夫人が、お見えになったのよ」
「ベルナール伯爵夫人が」
「ええ。クレイン家のお茶会のことを、教えてくださったの」
私は、茶碗に口をつけながら、母の顔を見た。
クレイン家の、茶会。
四日前に行われたはずだ。招待状は、伯爵夫人が、自分で書いたのだろう。
「どうだったのですか」
「それがね……」
母は、言いにくそうに、声を落とした。
「席の並びが、少し、混乱したらしいの。モーリス侯爵夫人と、ベルナール伯爵夫人が、隣り合ってしまったとか」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
そこは、私が、必ず、離していた席だった。
「ベルナール伯爵夫人は、気分を損ねて、途中で、お帰りになったそうよ。モーリス侯爵夫人も、あまり、嬉しくない様子だったとか」
「……そうですか」
母は、私の顔を、じっと見た。
「あなた、喜ばないのね」
その言葉に、はっとする。
喜べない。
胸に浮かぶのは、勝ち誇るような気持ちではなかった。むしろ、あの伯爵夫人が、どれほど心細く、一人で席を考えたのだろうと、思ってしまう。
「……喜べません。誰かが困ったことを、嬉しいとは、思えないのです」
「そうね」
母は、静かに頷いた。
「あなたは、そういう子だわ」
伯爵夫人の言葉と、同じだ。
けれど、母の「そういう子」には、責める響きも、置き去りにする響きもない。ただ、確かめるような、温かさがある。
その夜、私は部屋で、新しい黒いペンを、机の上に置いた。
窓の外には、王都の灯りが、遠くまで続いている。
下宿。
実家を出る、ということが、どういうことなのか、まだ、うまく想像できない。
母の薔薇の石鹸。父の茶葉。朝の、あの包み。ここには、確かな安心がある。
けれど、それは、誰かが整えてくれた安心だ。
私が、自分で作ったものではない。
ペンを手に取って、新しい紙に、二つの言葉を、書いた。
実家。下宿。
その下に、線を引いて、考えられることを、並べていく。
通勤の時間。家賃。母の寂しさ。父の反応。朝食。窓からの景色。
書いても、書いても、答えは、出なかった。
ただ、一つだけ、はっきりしている。
これは、誰かに決めてもらうことでは、ない。
翌日、マルタに、そっと言った。
「ベル書記官。その下宿、一度、見せていただけますか」
マルタは、書類から、顔を上げない。
「今日の夕方、仕事が片付いたら」
それだけの返事が、返ってきた。
その日の夕方、私は、マルタに連れられて、局の裏手の坂道を、少し上る。
蔦の絡まる、古い石造りの建物だ。玄関で迎えてくれたのは、丸い眼鏡をかけた、小柄な老婦人だった。
「まあ、マルタの局の、お嬢さんね。エルゼ・ブラントです。さあ、どうぞ」
老婦人は、私の手を取って、ぎゅっと握った。
「うちは、夜の九時が門限なの。朝は、六時に、焼きたてのパンを出すわ。それ以外は、好きなように、なさい」
案内された二階の部屋は、小さかった。
寝台と、机と、小さな本棚。それに、窓。
実家の私の部屋の、三分の一もない。けれど、ブラント夫人が磨いたのだろう、床も窓枠も、ぴかぴかに光っていた。
「どうかしら。狭いでしょう」
「いいえ。……ちょうど、この机の広さが、仕事に向いている気がします」
思ったままを言うと、ブラント夫人は、嬉しそうに目尻を下げた。
「あの子も、同じことを言ったわ。マルタが、ここに来た最初の日にね」
「ベル書記官が?」
「ええ。十八のときに。……あら、内緒だったかしら」
ブラント夫人が口に手を当てると、廊下で待っていたマルタが、咳払いをするのが聞こえる。
私は、思わず笑ってしまう。
窓を開けると、坂の下に、王宮の石壁が見える。
その一角に、小さな灯りが、点っている。
典礼局の、奥の部屋の窓だ。
長官の部屋の灯りだと、すぐに分かった。
今夜も、まだ、あの灯りは、消えていない。




