↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/50

事実を、述べているだけです

七日目の朝、トビアスが、小さな封筒を持って私の机へ来た。


「ローレン様。初めての、給金です」


封筒には、典礼局の紋が押されている。中を見なくても、軽く、けれど確かな重みがあった。


臨時の書記には、七日ごとに給金が出る。そう聞いてはいたけれど、実際に自分の手に載せるのは、これが初めてだ。


「ありがとうございます」


「受領の署名を、こちらに」


差し出された帳面に、自分の名前を書く。セシリア・ローレン。何度も書いてきた名前なのに、今日は、ペン先が少しだけ弾んだ。


封筒を開けると、銀貨が数枚。それに、細かい銅貨が数十枚。


令嬢として、お小遣いをもらったことは、あった。けれど、自分の働きに対して、誰かが決めた額を渡される、という経験は、なかった。


「少ないですか」


隣の机から、マルタが、手を止めずに言った。


「いいえ。……いえ、金額が、というより」


「というより」


「どう使えばいいのか、まだ分からないのです」


マルタは、そこで初めて、ペンを置いた。


眼鏡の奥の目が、わずかに細くなる。


「初給金で、人が最初に何を買うかは、その人間を表すものです」


「ベル書記官は、何を買われたのですか」


「新しい靴です」


即答だった。


「それまで、前任者のお下がりを履いていましたから。十八のときです」


淡々と言って、マルタは、また書類に戻った。


その横顔を、少しの間、見つめてしまう。


平民の出で、二十二年。この局で、一番に頼られている人が、お下がりの靴から、始まったのだ。


昼休みに、マルタが、思い出したように言った。


「あなた、今は、屋敷から馬車で通っていますね」


「はい。毎朝、一番の馬車で」


「往復で、二刻」


「……そのくらいです」


「朝が早い仕事の人間が、一日に二刻を道に捨てるのは、無駄です」


マルタは、パンをちぎりながら、そっけなく続ける。


「局の近くに、私の従姉が営む下宿があります。二階の部屋が一つ、空いているそうです。家賃は、あなたの給金の三分の一ほど。朝食付き」


「下宿……」


「勧めているわけではありません。事実を、述べているだけです」


事実を述べているだけ。


その言い回しが、どこか長官に似ていて、少しだけ可笑しかった。


「考えてみます」


「二度、考えなさい」


マルタは、そう言って、パンをかじった。


夕方、仕事を終えてから、私は、初めて、一人で王都の通りを歩いた。


付き添いの侍女も、行き先を決める誰かもいない。


石畳の道に、店が並んでいる。ガラス越しの陽が、傾きかけている。


最初に立ち止まったのは、小さな文具店だった。


窓際に、深い紺色のインク壺が、飾られていた。


その隣に、軸の細い、黒いペン。値札を見ると、給金の半分ほどだ。


手に取ってみる。軸の握りが、私の指に、ちょうどよく収まった。


「いらっしゃいませ。書き物を、なさる方ですか」


店主が、穏やかに声をかけてくれた。


「ええ。仕事で」


「それは、いいペンです。長く使えますよ」


仕事で。


自分で言った言葉に、くすぐったい思いがした。


私は、そのペンを買うことにした。


それから、隣の店で、小さな包みを二つ。一つは、母の好きな薔薇の香りの石鹸。もう一つは、父が気に入っている、深い色の茶葉。


それから、もう一軒。


手芸店の前で、足が止まった。


棚に、色とりどりの刺繍糸が並んでいる。淡い藤色の糸が、目に入った。


アルバートから贈られた、刺繍のハンカチを思い出す。あれは、彼が選んだものではなかったのだと、今は分かる。伯爵夫人が用意して、彼は、箱に入れただけだ。


私は、その藤色の糸を、一束買った。


ハンカチに刺繍をするのは、好きなのだ。誰かの誕生日のために、よく刺してきた。


今度は、自分のために、刺そう。


そう思ったら、少しだけ、胸が軽くなった。


屋敷に戻ると、母が、居間で待っていた。


「お帰りなさい。今日は、少し遅かったのね」


「ええ。少し、寄り道をしてきました」


私は、小さな包みを、母の前に置いた。


「お給金で、買ってきたのです。お母様に」


母は、包みを見て、目を丸くした。


それから、そっと解いて、薔薇の石鹸を手に取る。顔に近づけると、小さく、息を吸った。


「……いい香り」


「お好きな、香りでしょう」


「ええ。でも、どうして」


「前に、一度だけ、おっしゃっていたので」


私が七つの頃のことだ。母が、ふと、薔薇の香りがする、と言って、微笑んだ。その横顔を、どうしてだか、ずっと覚えている。


母は、石鹸を胸に抱えたまま、しばらく、口をきかない。


やがて、目の端を、指でぬぐった。


「……ありがとう。大切に、使うわ」


その声は、少し震えていた。


「お父様には、こちらを」


茶葉の包みを、傍らに置いた。


「あの人は、素直に喜べないかもしれないけれど」


「承知しています」


「でも、きっと、毎朝、飲むわ」


母は、笑って、そう言った。


翌朝の食卓で、父は、何も言わずに、その茶葉で淹れた紅茶を飲んだ。


一口、二口。それから、新聞の陰で、ぼそりと呟く。


「……悪くない」


母と私は、目を合わせて、こっそり笑った。


その朝、出勤してすぐ、そのペンで、書類に署名をした。


インクの出が、驚くほど滑らかだ。書き終えて顔を上げると、書類を取りに来た長官が、私の手元を見ていた。


「新しいペンですか」


「はい。……初めての給金で」


「そうですか」


長官は、それ以上、何も言わない。ただ、書類を受け取るとき、ほんの少しだけ、口元が動いたように見えた。


「いいペンです。大切にしてください」


そう言って、自分の部屋へ戻っていく。


たったそれだけのやり取りなのに、一日中、ペン先が軽かった。


それから十日ほどが過ぎた夜、夕食のあとに、母が居間で紅茶を淹れながら、思い出したように言った。


「今日ね、ベルナール伯爵夫人が、お見えになったのよ」


「ベルナール伯爵夫人が」


「ええ。クレイン家のお茶会のことを、教えてくださったの」


私は、茶碗に口をつけながら、母の顔を見た。


クレイン家の、茶会。


四日前に行われたはずだ。招待状は、伯爵夫人が、自分で書いたのだろう。


「どうだったのですか」


「それがね……」


母は、言いにくそうに、声を落とした。


「席の並びが、少し、混乱したらしいの。モーリス侯爵夫人と、ベルナール伯爵夫人が、隣り合ってしまったとか」


胸の奥が、きゅっと縮んだ。


そこは、私が、必ず、離していた席だった。


「ベルナール伯爵夫人は、気分を損ねて、途中で、お帰りになったそうよ。モーリス侯爵夫人も、あまり、嬉しくない様子だったとか」


「……そうですか」


母は、私の顔を、じっと見た。


「あなた、喜ばないのね」


その言葉に、はっとする。


喜べない。


胸に浮かぶのは、勝ち誇るような気持ちではなかった。むしろ、あの伯爵夫人が、どれほど心細く、一人で席を考えたのだろうと、思ってしまう。


「……喜べません。誰かが困ったことを、嬉しいとは、思えないのです」


「そうね」


母は、静かに頷いた。


「あなたは、そういう子だわ」


伯爵夫人の言葉と、同じだ。


けれど、母の「そういう子」には、責める響きも、置き去りにする響きもない。ただ、確かめるような、温かさがある。


その夜、私は部屋で、新しい黒いペンを、机の上に置いた。


窓の外には、王都の灯りが、遠くまで続いている。


下宿。


実家を出る、ということが、どういうことなのか、まだ、うまく想像できない。


母の薔薇の石鹸。父の茶葉。朝の、あの包み。ここには、確かな安心がある。


けれど、それは、誰かが整えてくれた安心だ。


私が、自分で作ったものではない。


ペンを手に取って、新しい紙に、二つの言葉を、書いた。


実家。下宿。


その下に、線を引いて、考えられることを、並べていく。


通勤の時間。家賃。母の寂しさ。父の反応。朝食。窓からの景色。


書いても、書いても、答えは、出なかった。


ただ、一つだけ、はっきりしている。


これは、誰かに決めてもらうことでは、ない。


翌日、マルタに、そっと言った。


「ベル書記官。その下宿、一度、見せていただけますか」


マルタは、書類から、顔を上げない。


「今日の夕方、仕事が片付いたら」


それだけの返事が、返ってきた。


その日の夕方、私は、マルタに連れられて、局の裏手の坂道を、少し上る。


蔦の絡まる、古い石造りの建物だ。玄関で迎えてくれたのは、丸い眼鏡をかけた、小柄な老婦人だった。


「まあ、マルタの局の、お嬢さんね。エルゼ・ブラントです。さあ、どうぞ」


老婦人は、私の手を取って、ぎゅっと握った。


「うちは、夜の九時が門限なの。朝は、六時に、焼きたてのパンを出すわ。それ以外は、好きなように、なさい」


案内された二階の部屋は、小さかった。


寝台と、机と、小さな本棚。それに、窓。


実家の私の部屋の、三分の一もない。けれど、ブラント夫人が磨いたのだろう、床も窓枠も、ぴかぴかに光っていた。


「どうかしら。狭いでしょう」


「いいえ。……ちょうど、この机の広さが、仕事に向いている気がします」


思ったままを言うと、ブラント夫人は、嬉しそうに目尻を下げた。


「あの子も、同じことを言ったわ。マルタが、ここに来た最初の日にね」


「ベル書記官が?」


「ええ。十八のときに。……あら、内緒だったかしら」


ブラント夫人が口に手を当てると、廊下で待っていたマルタが、咳払いをするのが聞こえる。


私は、思わず笑ってしまう。


窓を開けると、坂の下に、王宮の石壁が見える。


その一角に、小さな灯りが、点っている。


典礼局の、奥の部屋の窓だ。


長官の部屋の灯りだと、すぐに分かった。


今夜も、まだ、あの灯りは、消えていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。