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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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気配の種類が、違うだけだ

三日考えて、私は、結論を出した。


二度どころか、三度、四度。紙の上の「実家」と「下宿」の間に、何度も線を引いたり消したりした。


最後に決め手になったのは、窓から見えた、あの灯りではない。


自分で作ったものが、まだ、何もない、という事実だった。


その夜、夕食のあとで、私は、両親に切り出した。


「お父様、お母様。お話があります」


父は、食後の茶碗を置いた。母は、膝の上で手を重ねる。


「典礼局の近くに、下宿を借りたいのです。家賃は、お給金から払います」


居間が、静まり返った。


「下宿……」


母が、小さく繰り返した。


「実家から通うこともできます。お母様のお弁当も、とても嬉しいのです。けれど、私は、一度、自分で自分の暮らしを組み立ててみたい。そう思いました」


父は、腕を組んで、天井を見た。


「子爵家の娘が、街中の下宿に住むなど、世間は何と言うか」


「存じています」


「縁談にも、差し障る」


「それも、承知しています」


父は、深く息を吐いた。


「……お前は、本当に、人の言うことを聞かなくなったな」


責める口調ではなかった。どちらかといえば、呆れたような、少しだけ寂しいような声だ。


「聞いていないのではありません。お父様のおっしゃることは、全部、聞いています。そのうえで、私が決めたいのです」


父は、しばらく黙っていた。


母は、うつむいて、膝の上の手を見つめている。


「ヘレナ」


父が、母の名を呼んだ。


「お前は、どう思う」


母は、顔を上げた。目が、少しだけ赤い。


「……寂しいわ」


はっきりした声だった。


「あなたが家にいなくなるのは、とても寂しい。毎朝のお弁当も、夜、起きて待っているのも、私の楽しみだったのだもの」


「お母様……」


「でも」


母は、私を見た。


「あなたが、自分で決めたことでしょう。それなら、私は、笑って見送りたいの。あのとき、私が言えなかったことを、あなたは、言えたのだから」


父が、驚いたように母を見る。


母は、そこで初めて、気づいた顔になる。ずっと胸にしまっていたことを、父の前で、口にしてしまったと。


「……あなた、あのときというのは、その」


「いいの。もう、昔のことよ」


母は、小さく笑って、首を振る。


父は、何か言いかけて、結局、口を閉ざした。ただ、母の手の上に、自分の手を、そっと重ねる。


そして、私の方を向く。


「条件が、ある」


「はい」


「日曜は、必ず、家に帰ってきなさい。夕食を、一緒に食べる」


思ってもみなかった言葉に、まばたきをした。


「それだけ、ですか」


「それと」


父は、席を立って、書斎の方へ消えた。


すぐに戻ってきた父の手には、古い真鍮の燭台が握られていた。


「私が、若い頃に使っていたものだ。夜に書き物をするなら、蝋燭の灯りは、必要だろう」


渡された燭台は、ずしりと重く、あちこちに細かい傷があった。


「……ありがとうございます」


「持っていけ。ただし、火の始末は、きちんとしろ」


父は、そう言って、ぷいと顔をそむける。


母が、小さく吹き出した。つられて、私も笑ってしまう。


引っ越しは、次の日曜の朝に決まった。


荷物は、驚くほど少ない。衣装箱が一つ。本が数冊。刺繍糸と、針道具。それから、真鍮の燭台。


「これも、持っていきなさい」


母が差し出したのは、薔薇の石鹸と、小さな包みだった。包みの中には、焼き菓子が入っている。


「向こうで、お友達ができたら、分けてあげなさい」


「……はい」


玄関には、アンナが立っていた。


目を真っ赤にして、エプロンの端を握りしめている。


「お嬢様。私も、ついて行きたかったのです」


「アンナ」


「でも、下宿には、侍女は連れて行けないと、奥様から伺いました。私は、ここで、お待ちしています。日曜には、必ず、お迎えに上がりますから」


アンナは、鼻をすすった。


私は、そっと彼女の手を取った。


「ありがとう、アンナ。あなたが、あの夜、何も聞かずにいてくれたこと、本当に、嬉しかったの」


「お嬢様……」


「また、日曜に。待っているわ」


アンナは、何度も頷いた。


馬車に乗り込む前に、一度、玄関を振り返る。


父と母が並んで立っている。父は、腕を組んで、あさっての方を向いている。母は、手を振ってくれていた。


手を振り返しながら、私は、小さく呟いた。


「行ってきます」


下宿の前で馬車を降りると、玄関先に、マルタが立っていた。


日曜だというのに、いつもの紺の制服を着て、腕を組んでいる。


「ベル書記官。どうして、こちらに」


「近所ですから」


それだけ言って、マルタは、私の衣装箱の片側を、ひょいと持ち上げた。


「持ちなさい。そちらの端を」


二人で箱を抱えて、階段を上る。マルタは、息も切らさずに、さっさと上っていく。


部屋に箱を置いたあとで、マルタは、窓の外を見ながら、ぽつりと言った。


「最初の夜は、誰でも、心細いものです」


「……はい」


「それを、悪いことだと思わないこと。以上」


言い捨てて、マルタは、あっという間に帰ってしまった。


下宿での、最初の夜は、思っていたより、静かだった。


ブラント夫人が用意してくれた夕食を食べて、湯を使い、部屋に戻る。


窓辺の机に、燭台を置いて、火を灯す。


小さな灯りが、狭い部屋を、ぼんやりと照らした。


誰も、いない。


そのことに、ふいに、胸がきゅっと縮んだ。


実家には、いつも誰かの気配があった。侍女の足音、母の声、父の咳払い。ここには、それが、ない。


自分の呼吸の音だけが、はっきり聞こえる。


少しだけ、怖い、と思う。


そのとき、控えめに、扉が叩かれた。


開けると、ブラント夫人が、湯気の立つ杯を持って立っていた。


「眠る前に、温かいものを、と思ってね。ミルクに、少しだけ蜂蜜を入れたの」


「……ありがとうございます」


杯を受け取ると、手のひらが、じんわりと温まった。


実家で、母が用意させてくれた夜のミルクと、同じ味がする。


「それじゃあ、おやすみなさい。何かあったら、遠慮なく、下から呼ぶのよ」


夫人が階段を下りていく足音を聞きながら、私は、杯に口をつけた。


一人きり、ではない。ただ、気配の種類が、違うだけだ。


そう思うと、胸の縮みが、ゆっくりほどけていく。


後悔は、なかった。


私は、引き出しから、藤色の刺繍糸を取り出した。


古いハンカチを一枚、枠に張って、針に糸を通す。


何を刺すか、決めていなかった。


けれど、針を布に差し入れると、自然に、手が動いた。


小さな、藤の花。一輪、また一輪。


誰のためでもない。誰に贈るでもない。私が、刺したいから、刺す。


そんな針仕事は、生まれて初めてかもしれなかった。


気づくと、蝋燭が、半分ほど短くなっている。時計を見れば、いつもなら、とうに眠っている時刻だ。


夜更かしをして、怒る人も、止める人もいない。


それが、少し寂しくて、少しだけ、可笑しかった。


窓の外に、目をやる。


坂の下に、王宮の石壁が、夜の中に浮かんでいる。


その奥の、いつもの窓には、今夜も、灯りが点っていた。


翌朝は、ブラント夫人の焼きたてのパンを食べてから、一番に家を出る。


小麦の甘い匂いと、バターのとろける音。食堂で、一人分の朝食を取るのも、案外、悪くない。


「いってらっしゃい」


ブラント夫人の声に送られて、坂を下る。


下宿から、典礼局まで、歩いて十分もかからない。馬車の揺れも、朝の混雑も、ない。


それだけで、一日の始まりが、ずいぶん軽く感じられた。


誰もいない大部屋に入って、自分の机に向かう。


奥の小部屋の扉が、少しだけ開いている。


覗くつもりはなかった。けれど、扉の前を通り過ぎるとき、机に突っ伏している人影が、目に入ってしまう。


長官だった。


上着を脱いで、シャツの袖をまくり、書類の上に、腕を枕にして、眠っている。


手元の杯の紅茶は、また、冷めきっていた。


私は、息を止めて、そっと、扉を閉めかけた。


起こすべきか。それとも、このままにするべきか。


迷って、結局、起こさないことにした。


かわりに、給湯室へ行って、湯を沸かす。


新しい紅茶を淹れて、小部屋の机の端に、音を立てずに置いた。冷めた杯は、そっと、下げる。


メモを残すことも、考えた。けれど、やめた。何も書かない方が、きっと、この人は、気が楽だ。


そのまま、自分の席に戻って、仕事を始めた。


しばらくして、扉の向こうで、椅子の音がした。


息を潜めて、耳を澄ます。


それから、カチャリ、と、杯が受け皿に触れる、小さな音。


やがて、出勤してきたトビアスが、私の顔を見るなり、目を丸くした。


「ローレン様。なんだか、顔色が、すごく良くなっていませんか」


「そうですか?」


「はい。馬車で通っておられた頃より、ずっと」


そう言われて、少し、嬉しくなる。


その日、昼前に、長官が私の机の前を通りかかった。


「ローレン嬢」


「はい」


「……今朝の件について、特に、申し上げることは、ありません」


「はい」


長官は、そのまま、通り過ぎようとして、一歩だけ、足を止めた。


「温かい紅茶は、助かりました」


それだけ言って、自分の部屋へ戻っていく。


私は、机の上で、ペンを握ったまま、そっと笑った。


翌朝も、その次の朝も、同じように、新しい紅茶を置く。


三日目の朝には、冷めた杯が、空になっていた。


四日目の朝、机の端に、小さな紙が一枚、置かれている。


『ありがとう。 L』


たった、それだけの、走り書きだった。


その同じ日の午後、典礼局に、一通の書状が届いた。


差出人は、ザルツ大公国。


封蝋には、見たことのない、獅子の紋章が押されている。


マルタは、書状に目を通すなり、眉を寄せた。


「……これは、少し、厄介ですね」


長官の部屋へ行こうとして、足を止めて、私を振り返る。


「ローレン書記。ついて来なさい」

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