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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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二十年前の失敗

長官の部屋は、思っていたより、ずっと狭かった。


壁一面の書棚と、窓際の大きな机。机の上には、書類が几帳面に積まれている。私が毎朝淹れる紅茶の杯が、今日は、すでに空になっていた。


「ザルツ大公国からの書状です」


マルタが、封蝋の割れた紙を、長官の前に広げた。


長官は、無言で目を走らせる。


私は、その少し後ろに立って、横から文面をのぞいた。


流れるような古い書体だった。ヴェルデン語の綴りが、少しだけ違う。見慣れない言い回しが、ところどころに混じっている。


「要点を」


長官が、短く言った。


「使節団の来訪日は、秋の建国祭の三日前。団長は、大公陛下の叔父君、ハインリヒ公。随行者は、四十名余り」


マルタが、淡々と読み上げる。


「ここまでは、想定どおりです。問題は、ここから」


マルタの指が、文面の一箇所を押さえた。


「使節団の席次は、貴国の爵位序列ではなく、我が国の古式『七柱の序』に拠られたい、とあります」


長官の眉が、わずかに動いた。


「七柱の序」


「ザルツ大公国の、古い序列の作法です。母方の家系を、第一の基準にする」


「つまり、父方の爵位が高くても、母方の血筋が低ければ、下座になる」


「その逆も、あります」


マルタは、書状を、そっと机に置いた。


「ヴェルデンの序列と、まともに衝突します。建国祭の晩餐会には、貴族が数百人。席次を、ザルツ式に組み替えれば、こちらの侯爵家が、ザルツの一介の随行者より、下座になる事態も起こり得ます」


部屋が、静まり返った。


「先例は」


長官が、問う。


「二十年前、ザルツ使節団が来訪した際の記録が、書庫にあるはずです。当時は、ここまで厳密な要求は、出ていませんでしたが」


二十年前。


その言葉を口にしたとき、マルタの声が、ほんの少しだけ、固くなった気がした。


長官は、窓の外に目をやった。


「書庫を、確認してください。ベル書記官。それから」


振り返った長官と、目が合う。


「ローレン嬢。あなたも、同行を」


典礼局の書庫は、地下にあった。


石の階段を下りると、ひんやりとした空気と、古い紙の匂いが、鼻をつく。


天井まで届く棚が、迷路のように並んでいる。マルタが、手燭を掲げて、先を歩いた。


「年代順に並んでいます。王国暦七九二年は、左の奥」


棚の隙間を縫って進む。足元に、うっすらと埃が積もっていた。


「ずいぶん、誰も入っていないのですね」


「必要がなければ、入りません」


マルタは、振り返らなかった。


「二十年前の記録は、特に」


「それは、どういう」


「……行けば、分かります」


左奥の棚に、革の背表紙が並んでいた。


その一冊を、マルタが引き抜く。表紙には、『王国暦七九二年 ザルツ大公国使節団接遇記録』とあった。


机代わりの木箱の上に、記録を広げる。


私は、ページをめくった。


最初は、普通の記録だった。来訪日、随行者の名簿、日程。やがて、晩餐会の席次表のページに入ると、紙の端に、不穏な赤い書き込みが増えていく。


『席次に関する抗議、三件』

『ザルツ側随行者、一名退席』

『晩餐会、開始が二刻遅延』


「これは……」


「当時、席次を巡って、揉めたのです」


マルタが、静かに言った。


「ザルツの序列と、ヴェルデンの序列を、どちらも尊重しようとして。結局、どちらも納得させられなかった」


最後のページの、署名欄が目に入った。


『王宮典礼局長官 ルドルフ・グレイヴス』


私は、はっとして、マルタを見た。


「……先代の、長官ですか」


「長官の、お父上です」


マルタは、記録に視線を落としたまま、口を開く。


「あのとき、私は、入局二年目の下っ端でした。この記録の作成を、手伝わされたのです。……一晩中、徹夜で」


珍しく、マルタの声が、やわらかかった。


「ルドルフ様は、責任を、すべて背負われました。誰も、あの方を責めませんでしたが。ご自分で、ご自分を許せなかったのでしょう」


「……そうでしたか」


それ以上は、聞けなかった。


記録の後ろには、当時の随行者名簿が、綴じられていた。


指でたどっていくと、末尾に近いところに、一つの名前が目に留まる。


『ハインリヒ・フォン・ザルツ(随行、二十五歳)』


「ベル書記官。この名前は」


「ええ」


マルタは、頷いた。


「今回の団長と、同じ方です。二十年前は、青年の随行者でした。この晩餐会を、一番近くで、ご覧になっていたはずです」


私は、息をのんだ。


あの方は、この失敗を、覚えている。


だから、わざわざ、書状に、序列の要求を書いてきたのだろうか。それとも、ただの、古い作法の主張なのか。


分からない。けれど、一つだけ、はっきりしたことがある。


今度は、間違えられない。


それとは別に、ふと、思い出した言葉がある。


私たちは、起きたことを書くだけです。


最初の面談で、記録を消さない理由を尋ねた私に、長官はそう答えた。事実だけを、一字も曲げずに残す。その頑なさの底には、こういう記憶が、あったのかもしれない。


「ローレン書記」


マルタが、私を呼んだ。


「この記録を、一晩、貸します。あなたの目で、読みなさい」


「私が、ですか」


「二十年前の私たちには、見えなかったものが、あなたには、見えるかもしれない」


そう言って、マルタは、記録を私の手に押しつけた。


その夜、下宿の部屋で、私は、燭台の灯りの下に、記録を広げた。


二十年前の晩餐会の、席次表。ザルツ側の随行者と、ヴェルデン側の貴族が、一つの長い卓に、序列順に並べられている。


そして、揉めた箇所には、すべて、同じ構図があった。


どちらの序列を上座に置いても、もう一方が、下座になる。


当たり前だ。序列とは、そういうものだ。


私は、紙を一枚取り出して、ペンを走らせた。


ザルツの序列。ヴェルデンの序列。二つの線が、どう並んでも、交わらない。


ならば、線を、一本にしようとするから、いけないのではないか。


そう考えたとき、ふと、実家の食堂の、円い卓を思い出した。


母が、親戚を集める日に、いつも使っていた卓。どの席も、同じ距離。上座も、下座も、ない。


円卓。


指が、止まった。


円い卓には、始まりも、終わりも、ない。座る人に、序列を、感じさせないのだ。


けれど、序列を完全に消すわけではない。入場の順で、名前を呼ぶ順で、きちんと保つ。座る場所と、呼ばれる順番を、切り離せばいい。


私は、夢中で、図を描き始めた。


翌朝、一番に、長官の部屋の扉を叩いた。


「長官。お話が、あります」


長官は、いつものように、机に向かっていた。机の杯は、空になっている。


私は、昨夜の図と、記録を、机の上に並べた。


「ザルツ側の随行者と、ヴェルデンの高位貴族を、円卓に、混ぜて座らせます。席そのものには、序列をつけません。かわりに、入場の順と、名前を呼ぶ順に、両国の序列を、それぞれ反映させるのです」


「入場と、着席を、分ける」


「はい。ザルツの方々は、『七柱の序』に従った順に、呼ばれます。ヴェルデンの方々は、爵位の順に。両方の儀礼が、守られます。座る場所は、混ざります」


長官は、図を、じっと見つめる。


長い、沈黙が落ちた。


「……二十年前の失敗は、どちらの序列も、一つの卓の上に、並べようとしたことだった」


「はい」


「あなたは、卓の数を増やした。そして、座る席から、序列を取り払った」


長官は、図の端を、指でなぞった。


「円卓は、場所を取ります。晩餐会の広間の、構造を、組み替える必要がある。給仕の動線、料理の順、すべて、見直しになる」


「はい。申し訳ありません。実現の難しさまでは、まだ」


「いや」


長官は、顔を上げた。


「検討する価値が、あります。すぐに、準備室を設けます」


その目には、昨夜の疲れとは、別の光があった。


開け放していた扉の向こうから、マルタが、ひょいと顔を出した。


「失礼します。聞こえておりましたので」


マルタは、机の上の図を、一瞥した。


数拍の間があって、短く言う。


「悪くありません」


それだけ言って、また、扉の向こうへ消えた。


この局で、最高の評価だ。思わず、頬がゆるんでしまいそうになるのを、必死にこらえる。


長官は、咳払いを一つして、続けた。


「責任者は、私。補佐に、ベル書記官。そして、作成補助として、あなたに、全体の席次の設計を任せたい」


「……私に、ですか」


長官は、そこで一度、言葉を切って、机の端に置かれた古い記録の表紙を見た。


「あなたは、あれを、読んだのですね」


「……はい」


「署名も」


「はい」


長官は、表紙の文字を、しばらく見つめていた。


「あれは、父の、最後の大きな仕事でした。成功とは、言えなかったが」


淡々とした声だった。けれど、指先が、ほんの少しだけ、強く紙を押さえている。


「同じ失敗を、繰り返すつもりは、ありません。そのために、力を貸してください」


「……はい。全力で」


短く答えると、長官は、小さく頷いた。


「それと」


長官は、気を取り直したように、書類をめくる。


「臨時書記の期間が、今日で満了します。書類上、契約を更新する必要がある」


そうだった。


もう、一か月が、経っていたのだ。


「延長を、お願いします」


迷いなく、言えた。


「ただし、典礼局に正式に残るかどうかの答えは、その延長期間の終わりに、出させてください」


長官は、わずかに目を細めて、頷いた。


「承知しました。それが、あなたの決めたことなら」


そして、机の引き出しから、小さな鍵を取り出した。


「書庫の鍵です。あなたに、預けます」


差し出された鍵は、少し冷たく、けれど、確かな重みがあった。


二十年前、誰も入りたがらなかった地下の書庫。その鍵を、預けられる。


私は、両手で、鍵を受け取った。


「ありがとうございます。大切に、お預かりします」


「無理は、なさらないように」


長官は、そう言ってから、少しだけ視線をそらした。


「……あなたに言える立場では、ないのですが」


私は、思わず、小さく笑った。


「はい。お互いに、ですね」

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