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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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六と半分

三日後の朝、掲示板の前に、人だかりができていた。


人だかり、といっても、局員は十人に満たない。ただ、全員が、同じ一点を見ていた。


週報の表。長官の欄。


『睡眠 七』『持ち帰り 0』


三日続けて、同じ数字が並んでいる。


「七、ですね」


トビアスが、囁くように言った。


「七です」


「三日連続です」


「ええ。事実の記録です」


そう答えつつ、私も、表から目が離せなかった。


零時前に寝台に入り、七時間後に起きる。たったそれだけのことが、この局では、小さな事件だった。


「ローレン書記」


背後から、マルタの声がした。


「官房から、返事が届いています」


差し出された紙は、灰青色ではなく、白い紙である。


『週報の写し、確かに受領した。睡眠の欄、拝見した。官房にも、同種の欄を設けたく、書式を借りたい。 ヴァイス』


「借りたい、と」


「はい。貸す、と返事をしておきました」


マルタは、眼鏡を押し上げた。


「官房長が、局の書式を借りるのは、私の二十二年で、初めてです」


「ベル書記官の、お手柄ですね」


「いいえ。あなたの書式です。私は、有益と述べただけです」


そう言う声が、少し、弾んでいた。


そこへ、長官が、書類を抱えて、廊下の向こうから歩いてきた。


人だかりを見て、足を止める。


「何か、事件ですか」


全員が、一斉に、目を逸らした。


「いいえ、長官」


私が、代表して答える。


「週報の確認を、していただけです」


「そうですか。……七、です」


長官は、聞かれてもいないのに、言った。


「三日続きました。持ち帰りも、ゼロです。ただ、昨夜は、布団の中で、報告書の続きを考えてしまい、寝つくまでに、少しかかりました」


「それは、七に含めて、よいのでしょうか」


「含めません。実際には、六と半分です」


「では、欄には、六と半分、と」


「七、と書いたのは、私の見積もりの甘さです。訂正します」


長官は、本当に、ペンを取って、七の字を二重線で消し、『六・五』と書き直した。


誰かが、ぷっと吹き出した。


「正直ですね、長官」


「事実に反することは、書きません」


長官は、真顔で言い切る。


けれど、書き直した数字を見る目には、どこか、満足の色があった。


昼過ぎ、局の裏口に、荷車が横付けされる。


届いたのは、一脚の椅子だった。


木の背に、薄い青の布を張った、飾りのない椅子。座面の縁には、小さな真鍮の鋲が、一列に打たれている。


「壁際用、でございます」


運んできた職人が、帳面を差し出す。


「ご注文の、一脚。お間違いは、ございませんか」


「ありません。一脚です」


私は、受領の欄に、署名した。


『セシリア・ローレン』


何度書いても、この三語は、胸の奥で、少しだけ、響いた。


長官が、廊下から、様子を見に来た。


「届きましたか」


「はい。承認いただいた、予算の範囲です」


「座り心地は」


私は、椅子に、腰を下ろしてみた。


固くはなく、柔らかすぎもしない。背が、ちょうど、肩甲骨の下に当たる。


「ほどほどです」


「それは、重要です」


長官は、椅子を、じっと見た。


「ハインリヒ公が、次にいらしたとき、この椅子は、どこに置きますか」


「広間の、壁際に。あの、私が立っていた場所に」


「それまでは」


「それまでは、局の廊下に。誰かが、座りたくなったら、座ってよい椅子に」


「分かりました。では」


長官は、廊下の端の、窓の下を、指さした。


「あそこでしょうか。窓から、楡の木が、見えます」


椅子は、そこに置かれた。


その日の夕方には、ハイム典礼官が、杖を壁に立てかけて、そこで本を読んでいた。


声は、小さな声のままだが、日に日に、輪郭が戻ってきている。


トビアスは、昼休みに、そっと座って、居眠りを始めた。


マルタは、座らない。けれど、通りかかるたびに、椅子の位置を、わずかに直していく。


土曜の午後、私は、実家のお茶に招かれた。


招待状は、母の字だった。


『セシリアへ。土曜の午後、お茶を一緒に。 母』


短い、一行。右肩が、少し、上がっている。母の字だった。


五行目の、前半。


『母と、お茶を飲む』


まだ、印をつけていない。母が書いた招待状に、私が、自分の足で、応える日が、来た。


玄関の扉を開けたのは、アンナだった。


「お嬢様。お待ちしておりました」


「ありがとう、アンナ」


「奥様は、温室でございます。お茶の支度を、ご自分で」


「ご自分で?」


「はい。三度、茶葉を、お替えに」


アンナは、目を細める。


温室の中は、午後の光で、暖かかった。


母は、小さな円卓に、白い茶器を並べていた。手が、少し、震えている。けれど、その震えを、止めようとは、していなかった。


「いらっしゃい、セシリア」


「お招き、ありがとうございます、お母様」


「座って」


向かいに、腰を下ろした。


紅茶は、薄い琥珀色だった。


「一口、どうぞ」


「いただきます」


口に含むと、ほんのり、薔薇の香りがした。


「これは」


「あなたが、買ってくれた石鹸を、洗面所に置いたら、香りがとてもよかったの。それで、薔薇の茶葉を、探したの。……合っているかしら」


「合っています。とても」


「よかった」


母は、胸の前で、手を、軽く重ねた。


しばらく、二人で、黙って茶を飲んだ。


沈黙が、怖くなかった。


「あの夜のこと、お話ししてもよいかしら」


母が、ゆっくり、言った。


「箱を、開けた夜のことを」


「はい。聞きたいです」


「お父様が、書斎から、箱を持ってきたの。お義母様の手紙の、控えが入った、古い木の箱」


母は、紅茶の湯気を、見つめていた。


「あの人は、一通ずつ、声に出して、読み始めたの。『これはお義母様の言葉だろう』『これは、お前の言葉か』と、手探りで。間違えると、笑って、また最初から」


「お父様が」


「ええ。……あんなふうに、笑う人だとは、知らなかった。結婚して二十年以上になるのに」


母の目元が、緩んだ。


「七年分、全部は読めなかったの。三晩かけて、半分ほど。それでも、分かったことが、あったわ」


「何が、でしょう」


「お義母様が、本当に書きたかった一行は、いつも、手紙の最後に、小さく、あったの。『体を大切に』『無理をしないで』。それは、私の言葉ではなくて、お義母様が、私にくださった言葉でも、あったのね」


母は、そう言って、喉を、小さく、鳴らした。


「私は、七年間、それを、あの方の代わりに、世の人へ、書き送っていたつもりだった。けれど、本当は、自分が、言われたかったのかもしれない。そう思ったら、あの人の前で、泣いてしまったの」


「お父様は」


「黙って、ハンカチを、差し出したわ」


母は、可笑しそうに、笑った。


「長年連れ添った人の、ハンカチは、折り目が、いつも同じ。それが、不思議と、嬉しかった」


私は、茶器を、置いた。


「お母様」


「なあに」


「私は、お母様と同じ道を、歩いていたのですね」


「ええ。私が、先に歩いて、あなたに、見せてしまったのかもしれない。耐えれば、誰かが喜ぶ、という道を」


母は、まっすぐ、私を見た。


「でも、あなたは、その道を、自分の足で、降りたわ。私には、できなかったこと」


「降りたのは、一人では、ありません。長官と、ベル書記官と、ブラント夫人と、……たくさんの方が、手を貸してくださいました」


「それでも、最後に、足を出したのは、あなたよ」


母の声は、静かで、揺れていなかった。


「ありがとう、セシリア」


「何を、でしょう」


「先に、降りてくれて」


その一言で、視界が、揺れた。


けれど、涙は、落ちる前に、笑いに変わった。


「お母様」


「なあに」


「今日は、お茶の後に、刺繍を、一緒にしてもいいですか」


「刺繍?」


「藤の花です。六行目に、書いたんです。完成させる、と」


母の顔が、ぱっと明るくなった。


「それなら、糸は、私の箱に、たくさんあるわ。あなたが好きな、藤色も」


「持ってきました、自分の分を」


私は、鞄から、小さな布と、藤色の糸の束を、取り出した。


下宿の机で、半分ほど、刺していたもの。


母は、布を、受け取って、窓の光にかざした。


「この、花びらの重ね方……」


「どこか、おかしいでしょうか」


「いいえ。私の癖と、同じ。右肩が、少し、上がるのよ」


母は、嬉しそうに、指で、花びらの縁をなぞる。


温室の窓の外で、庭の木の葉が、風に揺れる。


その音を聞きながら、二人で、針を動かした。


話さなくて、よかった。


針の音と、茶器の触れ合う音だけで、午後が、満ちていく。


夕方、帰り際、父が書斎から出てきた。


「セシリア」


「お父様」


「もう、帰るのか」


「はい。明日も、局がありますので」


「そうか」


父は、懐に手を入れて、折り畳んだ紙を、取り出した。


「これを、持って行きなさい」


「何でしょう」


「箱の中にあった。控えの一通だ。母上の名で、親戚に宛てて出された、お前の誕生の知らせだ」


「私の」


「お前の名が、書いてある。……十九年前の、お前の生まれた日の、手紙だ」


広げると、丸みのある字で、短く、こう書かれていた。最後の一画だけが、少し、右肩に上がっている。


『親戚の皆様へ。孫娘が生まれました。名はセシリア。良い名です。』


その下に、一行だけ、行を改めて。


『この子が、いつか、自分の名で、自分の道を歩く人になりますように』


私は、紙を、両手で持った。


「お父様、これは……」


「字は、ヘレナのものだ。だが、最後の一行だけは、母上のお言葉をそのまま書いたと、ヘレナが教えてくれた」


父は、咳払いを一つ、挟んだ。


「どの字で書かれていようと、母上は、お前のことを、とうに、願っておられた。私は、そう読んだ」


声が、喉の奥で、少し、掠れた。


「持って行きなさい。お前の、紙だ」


「はい。……大切にします」


紙を、鞄の、藤色の糸の隣に、そっと、挟んだ。


父は、満足そうに、頷いた。


それから、少し、照れたように、背を向けた。


「気をつけて」


「はい。また、来ます」


「……行ってらっしゃい」


その言葉は、書斎の扉の向こうから、小さく、聞こえた。


門の外に出て、振り返る。


邸の窓に、母と父の影が、並んで、立っていた。


私は、手を振った。


影も、手を振り返す。


石畳を歩きながら、鞄の中の紙の重みを思う。


席札の裏の、白。


祖母の、手紙の一行。


どちらも、「自分の名で、自分の道を」という、同じ一点を、指している気がした。


下宿に戻ったら、五行目に、二つ目の印をつけよう。


『母とお茶を飲む』にも、済みの印を。


そして、六行目の藤の花の、続きを、刺そう。


窓の向こうの、長官の部屋の明かりを、見ながら。


その灯りは、零時前に、消える約束だった。

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