払いの先
受付の窓口の脇に、見慣れない従僕が、一人、立っていた。
黒の上着に、クレイン伯爵家の小さな紋。年は、四十を過ぎたくらいだろうか。両手で、白い封筒を、胸の前に捧げ持っている。
「ローレン書記殿で、いらっしゃいますか」
「はい」
「奥様より、お預かりしてまいりました。お手に渡すことだけが、私の務めでございます」
「お返事は、お急ぎではない、と伺いました」
「はい。お返事は、お急ぎになりませんよう、と。奥様は、そう、お申しつけでございました」
従僕は、深く、頭を下げた。
私は、封筒を、受け取る。
白い厚手の紙。表に、私の名。
『セシリア・ローレン書記殿』
字が、不揃いだった。大きさが、行の途中で、変わっている。けれど、一画ごとの払いの先が、かすかに、持ち上がっていた。
私の癖だ。
三年間、あの人の名で、書き続けた手紙に、私の癖が、染みついていた。それを、あの人は、いま、自分の手で、なぞっている。
「お返事の有無は、お伺いしないよう、言われております」
従僕は、そう、告げて、また、礼をした。
「では、これにて、失礼いたします」
背中が、門の向こうへ、遠ざかる。
私は、封筒を持ったまま、窓口の前で、立っていた。
それから、階段の脇の、待合の間の扉を、開けた。
一階の、中庭に面した小部屋。窓の外には、楡の木。
扉は、端まで、開けたままにした。マルタの規程だ。
椅子に、座る。
膝の上に、封筒を置く。
息を、吸った。
吸って、止めて、吐いた。
封を、切る。
便箋は、二枚。同じ、不揃いな字が、びっしりと、並んでいた。
『セシリア・ローレン書記殿
字が、不揃いで、読みづらいことと思います。清書は、しません。これが、いまの私の字ですので。
まず、お詫びを申し上げます。
三年間、私は、あなたに、私の名で、手紙を書かせてしまいました。誰の目にも、あなたの名は、触れませんでした。それを、よく承知していながら、「ありがたい」の一言で、済ませていたのが、私です。
次に、お礼を申し上げます。
晩餐の夜、広間の入口で、あなたの字の席札を、手に取りました。私の名が、誰の字で書かれているのか、初めて、自分の目で見ました。あなたの字は、いつも、私の名を、私よりも美しく書いてくださっていたのですね。
もう一つ、訂正を。
かつて私は、夫に、こぼしました。黙って三年も手紙を書き続けられる娘は、いつか、黙って出ていく娘だ、と。
あれは、誤りでした。
あなたは、黙って出ていったのでは、ありません。最後に、はっきり、お断りの言葉を、残して、出て行かれました。私は、その意味に、気づくのが、遅れました。
近況を、少しだけ。
茶会の招待状は、自分で、書いています。一通に、半日。夫は、「遅い」と笑い、息子が、隣で、名簿を読み上げてくれます。
息子は、近ごろ、夜ごとに、宮廷作法集を読んでいるようです。私は、何も言いません。ただ、書斎の灯りが、遅くまで、点いています。
ハートウェルのリリア嬢が、父君と共に、週に一度、お見えになります。私に、手紙の書き方を、教えてほしい、と。私が、人に教えられるはずは、ございません。ふたりで、下手な字を、並べております。笑ってしまうほど、揃いませんが、悪くない時間です。
ミレイユ嬢とのことは、急がないことに、いたしました。息子が、そう、申しました。まず、手紙を、交わすところから、と。
お返事は、不要です。お返事を期待して、書いたのでは、ございません。
ただ、私の字で、私の言葉で、あなたへ書いてみたかったのです。三年間、あなたが、していらしたことを、一度だけ、私も、してみたかったのです。
マーガレット・クレイン』
二枚を、読み終えた。
窓の外の楡が、風に、揺れている。
涙は、出なかった。出なくて、よかった、と思う。
読む前に、吸った息が、まだ、胸のどこかに、残っている気がした。
怒りは、ない。
恨みも、ない。
かといって、「許します」と書くのも、違う。許す立場に、立ちたいのでもない。
「ローレン書記」
扉の外から、声がした。
トビアスだった。盆に、湯気の立つ杯を、載せている。
「長官が、お茶を、と。お入れしても、よろしいでしょうか」
「ええ。ありがとう」
トビアスは、杯を、卓に、置いた。
目の端で、手紙を、見る。それから、見なかったことに、した。
「長官は」
「執務室で、官房への週報の写しを、清書なさっています。『睡眠 六』と書く手が、何度も止まっておられました」
「止まる?」
「七と、書きたい、そうです。けれど、昨夜は、六ですから」
「それは、事実に反するわね」
「はい。長官は、事実に、反することは、お書きになりません」
トビアスは、真面目な顔で、頷いた。
私は、笑ってしまった。
「ありがとう、トビアス。もう少し、ここにいます」
「承知しました。お声がけは、いたしません」
扉は、開けたまま。足音が、遠ざかる。
入れ違いに、廊下を、マルタが通りかかった。
歩調は一定で、待合の間の前でだけ、ほんの半拍、遅くなる。
「ローレン書記」
「はい、ベル書記官」
「私的な面会は、扉を開けて行うこと。それが、規程です」
「開けています」
「手紙の場合は、開けなくても、よろしい。ただし、読んだ後の顔は、廊下から見えます」
マルタは、眼鏡の奥から、私を一瞥した。
「悪い顔では、ありませんでした」
「ありがとうございます」
「礼は、不要です。見えたものを、述べただけですから」
遠ざかる靴音は、いつもより、心なしか軽かった。
茶を、一口、飲んだ。
薄い。長官らしい、淹れ方だった。濃くしないのは、私が、この頃、夜によく眠れていないと、気づかれたからだろうか。
いや、それは、考えすぎだ。
けれど、ありがたかった。
私は、鞄から、自分の紙を取り出して、卓に置く。
黒い軸の、ペン。
一年前の私なら、どうしただろう。
返事を書かない選択は、できなかった。書かなければ失礼だと、思ったから。書いたとしても、「お気遣いなく、私は大丈夫です」と、相手の心を先に軽くしてしまう文面になっただろう。
いまは違う。
書かない自由も、書く自由も、私の手の中にある。
だから、書くと決められたことが、嬉しかった。
返事は、不要、と、あの人は、書いた。
書かなくても、構わない。急がなくても、構わない。
けれど、「書く」と決めたのは、私だった。
受け取ったものに、受け取った、と言う。それは、礼儀というより、事実の記録だ。
ペン先を、紙に、置く。
『クレイン伯爵夫人
お手紙、受け取りました。
お詫びは、受け取ります。お礼も、受け取ります。
三年間の手紙は、私にとって、無駄では、ありませんでした。あの三年間に書いた字が、いまの私の字の、土台です。悔いは、あまり、ありません。
「黙って出ていく娘ではない」と、書いてくださったことに、感謝します。私は、言って、出ていきたかったのです。そのとおりに、受け取っていただけて、嬉しく思います。
私の字は、もう、お貸しできません。けれど、ご自分の字で書かれた招待状を、受け取る方々は、きっと、嬉しいと思います。
最後に、一つだけ。払いの先を、もう少し、持ち上げると、きれいに見えます。
リリア様と、息子様と、ミレイユ様に、よい時間が、ありますように。
セシリア・ローレン』
書き終えて、読み返す。
肩書きは、書かなかった。「典礼局正式書記」と、書けば、局の手紙になる。これは、私の手紙だ。
名だけ。
家名の、ローレンは、付いている。けれど、私の名の後ろに、付いているだけだった。
私は、紙を、二つに折る。
封筒に入れて、封をする。
そのとき、扉の外に、足音がした。
長官だった。
廊下に立ったまま、扉の中には、入ってこない。
「お邪魔は、していませんね」
「していません。……手紙を、書き終えたところです」
「そうですか」
長官は、それ以上、聞かなかった。
私の手元の封筒を、一度だけ、見る。見て、そのまま、視線を、中庭の楡に、移した。
「週報の件で、一つ、ご報告に」
「はい」
「今夜は、零時前に、寝台に入ります。持ち帰りは、ゼロ。官房への写しは、清書の時点で、六と書きました。明日の分は、明日、書きます」
「七に、なりますか」
「努力します」
「一段、強い言葉でしたね」
「ええ。強くしました」
長官の口の端が、持ち上がった。
「ローレン書記」
「はい」
「その手紙は、お一人で、決められましたか」
「はい。私が、決めました」
「それなら、結構です」
長官は、軽く頷いて、背を向けた。
「かばいません」
扉の外で、足を止めずに、そう言った。
「ただし、お茶は、冷める前に、お飲みなさい」
足音が、遠ざかる。
私は、杯を、もう一度、取った。
温かさが、掌に、染みた。
窓の外で、楡の葉が、夕方の光を、受けて、揺れている。
私は、封をした手紙を、鞄に、仕舞った。
明日の朝、下宿へ行く前に、受付へ預けよう。使いの者に、頼む。クレイン家へ、直接。
書いて、出して、それで、終わり。
あの三年間の続きでは、ない。
新しい一通だ。
私の字で、私の名で、私が選んで、出す。
待合の間の扉を、閉めかけて、手を止める。
扉は、いつも、開けておく、決まりだった。
私は、そのまま開けておいて、廊下へ出る。
階段の踊り場で、窓の外を見た。
夕方の空が、薄い橙に染まっている。局の屋根の向こうに、王宮の塔が、細く伸びている。
三年前の私は、この景色を、知らなかった。
知らないまま、机に向かって、他人の名で、他人の挨拶を書き続けた。
いまの私は、自分の足で、この階段に立っている。
手紙一通で、世界は変わらない。けれど、手紙一通を、自分で選んで書けるようになった。それは、確かに、変わったことだった。
下宿へ帰ったら、ブラント夫人に、パンを一つ、多めに頼もう。
明日の朝のために。




