承認の文面
使いの者が去ったあとも、私は、封筒を、開けなかった。
灰青色の紙は、手の上で、思ったよりも、冷たい。
廊下の向こうに、長官が、立っていた。自分宛の封筒を、片手に持ったまま、歩み寄ってはこない。
「開けますか」
「はい。ここで」
「では、私も、ここにいます」
長官は、自分の封筒を、懐に仕舞った。
「あなたの分が、先です」
「長官の分は」
「急ぎではないでしょう。官房の封筒は、たいてい、二通目のほうが、薄い」
冗談なのか、経験則なのか、判断がつかなかった。
少し離れた机で、マルタが、書類を揃える手を、止めている。トビアスは、箱の蓋を持ったまま、固まっていた。
見ないふりをする人が、三人。
私は、封蝋に、爪をかけた。
乾いた音がして、紋章が、二つに割れる。
中の紙は、一枚だった。
『典礼局臨時書記 セシリア・ローレン殿
貴殿の任官願、および局長官の推薦書を、昨日付で受理した。
官房は、貴殿を、本日付で、王宮典礼局の正式書記に任ずる。
任官証は、本状に同封した。
任官願に付された条件は、局内の運用に属する事項として、局長官の裁量に委ねる。官房は、これに異を唱えない。
官房 ヴァイス』
署名の下に、別のインクで、細い字が、一行ずつ、足されている。
『追記。数日を要すると、局長官は述べたはずだ。だが、昨夕、書状を受けた時点で、議は整っていた。急いだのではない。待つ理由が、なかった』
私は、二度、読んだ。
数日は、覚悟していた。覚悟していたのに、昨日の今日だった。
指先が、少し、冷える。
「ローレン書記」
「……はい」
「同封の、任官証を」
促されて、封筒の底から、厚い紙を、取り出した。
官房の印。罫線の入った、立派な紙。
そこに、私の名が、あった。
『セシリア・ローレン』
名の前に、『臨時』の二文字は、もう、ない。
私は、その紙を、胸の前で、持った。
嬉しい、のだと思う。けれど、思ったよりも、静かだった。飛び上がるような気持ちは、湧いてこない。代わりに、足の裏に、床の硬さが、はっきり、伝わってくる。
任じたのは、官房。
願ったのは、私。
どちらか一つでは、この紙は、ここにない。
「長官」
「はい」
「承認が、下りました」
「そのようですね」
「長官は、ご存じでしたか」
「いいえ」
長官は、首を、横に振る。
「推薦書は、出しました。結果は、官房の日程次第でした。今朝、結果が出ると、知っていたら、ここまで落ち着いて、朝の握手の列に、立てなかったと思います」
「落ち着いて、いらっしゃいましたか」
「そう見えたなら、記録に、残してください」
真顔で言うので、思わず、肩が揺れた。
「おめでとうございます、とは、言いません」
「はい。分かっています、長官」
「事実を、述べます。ローレン書記は、本日から、典礼局の正式書記です」
長官は、それだけ言って、一歩、横に退いた。
そこで、マルタが、ようやく、立ち上がった。
「ローレン書記。名簿を」
「名簿、ですか」
「局員名簿です。正式書記の署名は、本人が、局の名簿に、書く。それが、局の内規の、第三条です」
マルタは、戸棚から、薄い革張りの帳面を、出してきた。
開かれた頁の、一番下の行に、私の名が、鉛筆で、書かれている。
『セシリア・ローレン(臨時)』
鉛筆の線の上に、マルタの指が、置かれた。
「これは、私が、ひと月前に、書いたものです。いつでも、消せるように、鉛筆で」
「はい」
「今日は、ペンで、書きます。あなたが」
私は、黒い軸の、自分のペンを、取った。
『セシリア・ローレン』
その横の、『(臨時)』の括弧を、そのまま、消すのではなく、定規を当てて、二本の線で、潰す。
マルタが、消しゴムで、鉛筆の跡を、きれいに、拭った。
それから、局の印を、すぽんと、押す。
「受理しました」
声が、いつもより、半音、高かった。
「ベル書記官」
「何でしょう」
「ありがとうございます」
「礼は、不要です。内規を、適用しただけです」
そう言いながら、マルタは、眼鏡を外して、布で、拭き始めた。
拭く必要は、なさそうだった。
「ローレン様!」
トビアスが、箱を持ったまま、一歩、踏み出した。
「おめでとうございます!」
「ありがとう、トビアス」
「あの、これは、言って、いい言葉ですか」
「いいわ。事実を、祝う言葉だもの」
トビアスの顔が、ぱっと、明るくなる。
「では、もう一度。おめでとうございます、ローレン書記!」
その呼び方に、胸が、くすぐったくなった。
「ローレン様、で、いいのよ。今までどおり」
「いえ。今日からは、書記と、お呼びしたいです。局の名簿に、そう書いてありますから」
「……では、お好きなように」
「はい!」
壁の隅で、ハイム典礼官が、ゆっくり、拍手を、していた。
音は、ほとんど、聞こえない。掌が、触れるか触れないかの、小さな拍手である。
私は、その人にも、深く、礼をした。
「さて」
長官が、自分の封筒を、取り出した。
「では、私の分を、拝見します」
封蝋を、割る。
目が、紙の上を、滑っていく。
最初の数行で、長官の眉が、わずかに、動いた。
「何と、書いてありますか」
「読みます」
長官は、咳払いを、一つして、声に出した。
「『局長官グレイヴス殿。任官願の第一条に、局員の睡眠および持ち帰りを記録する、との記載を見た。官房に、同種の例は、ない。参考のため、貴局の週報の写しを、毎週、官房へ、提出されたい』」
「毎週、ですか」
「続きがあります。『なお、提出された写しは、官房長自身が、確認する』」
マルタが、横から、ぼそりと、言った。
「ヴァイス伯爵が、直々に」
「そのようです」
「長官の、睡眠を」
「記録の、写しを、です」
長官は、紙を、持ったまま、微妙な顔をした。
「私的な事柄が、公的な制度に、なりました」
「事実の、記録です」
私は、できるだけ、真面目な声で、言った。
「それに、官房が、確認なさるなら、書き間違いは、できませんね」
「……あなたは、楽しんでいますね」
「いいえ。長官の、健康を、案じています」
「顔が、笑っています」
「顔は、勝手に、笑うものですから」
長官は、小さく、息を吐く。その息は、ほとんど、笑いに近かった。
「分かりました。提出に、応じましょう。ただし、数字は、実際のものを、書きます」
「それで、お願いします。実際の数字が、六でも、七でも、五でも」
「五の日は、書きたくありませんね」
「五の日は、そもそも、作らないでください」
マルタが、書類で、顔の下半分を、隠した。
肩が、細かく、揺れていた。
九時四十五分。
任官の知らせに、浮き立つ時間は、それで、終わった。
「さて」
マルタが、手を、一つ、叩いた。
「正式書記の、最初の仕事です」
「はい」
「昨夜の晩餐の、官房向け報告書。席次の項を、あなたが、書きなさい。作成者として、名を入れて」
「私が、ですか」
「昨日は、私が、草稿を作りました。けれど、席次表の項は、あなたの仕事です。他人の文章で、他人の仕事を、述べるのは、事実の形では、ありません」
私は、一瞬、言葉に、詰まった。
三年間、他人の名で、他人の言葉を書いてきた。
いまは、自分の仕事を、自分の名で、書く。
「承知しました。午後三時までに、仕上げます」
「期限は、三時です。ただし、睡眠は、削らないこと」
「はい」
自分の机に、戻る。
引き出しの奥には、ザルツの席札が、眠っている。鍵は、掛けたままだった。開ける日は、まだ、先だ。
報告書の、白紙を、広げた。
『席次表について。作成者 セシリア・ローレン』
最初の一行を、書く。
誰の名の下でもない、私の字だった。
手が、速く、動いている。動かしているのは、私だった。
私は、自分で、書いている。
ペンの先から、図の説明が、流れていく。一番近い席の者同士、遠い席の者同士。誰の隣が、誰か。理由が、図の中に、全部ある。
十一時、頁が、一枚、埋まった。
十二時前、二枚目に入る。
昼休みに、持参のパンを、かじりながら、読み返した。
自分の字で、自分の仕事を、述べる。書いた言葉に、嘘が、一つも、なかった。
午後二時四十分。
三枚の報告書を、清書し、署名の欄に、名を入れた。
『王宮典礼局 正式書記 セシリア・ローレン』
その肩書きの、文字を、しばらく、見ていた。
自分で、書ける。
自分で、書いて、差し出せる。
三時の鐘が、鳴る前に、マルタの机に、置いた。
マルタは、全部を読み終えてから、顔を上げた。
「誤りは、ありません」
「ありがとうございます」
「それと」
マルタは、眼鏡を、押し上げた。
「第二頁の、三行目。『声を、重ねる者がいた』という表現。あれは、いい書き方です」
「ベル書記官のことを、書きました」
「知っています。だから、『声を重ねた者』ではなく、『重ねる者がいた』と、直しておきました。名を、出さないほうが、よい箇所です」
「……はい」
「その代わり、私の名は、ザルツの記録には、載らないでしょう」
マルタは、さっぱりした顔で、続けた。
「構いません。声は、残りましたから」
言葉の、最後が、少し、震えた。
私は、何も言わず、頭を下げた。
夕方の五時。
局の掲示板の前に、全員が、集まっていた。
週報の新しい表に、今朝の分から、数字が、並ぶ。
長官の欄には、『睡眠 六』『持ち帰り 0』。
その横に、小さな字で、こう、足されていた。
『官房へ、写しを提出』
その下に、さらに、細い字で。
『提出者の睡眠は、明日、七を、努力する』
「長官」
「何でしょう」
「努力、ですか」
「善処、より、一段、強い言葉を、選びました」
「一段、ですか」
「一段です」
私は、堪えきれずに、笑った。
トビアスが、遠慮がちに、声をかけてきた。
「あの、ローレン書記」
「何?」
「受付に、お客様が。クレイン伯爵家の、お使いの方が、お手紙を、お預かりして、おられます」
息が、ほんの少し、止まる。
クレイン伯爵家。
アルベルトの、家だった。
「宛名は」
「『セシリア・ローレン書記殿』と。……お返事は、お急ぎでは、ないとの、ことです」
「分かりました。受け取ります」
足は、驚くほど、静かに、動いた。
逃げたい、とは、思わなかった。
私は、もう、ただの、ローレン子爵令嬢ではない。局の名簿に、自分の名を書いた、書記だ。
階段を、降りながら、思う。
どんな手紙でも、読む前に、一度、息を、吸おう。
読んで、答えるのは、私の仕事で、私の字だ。




