↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
46/50

席札の裏

朝の七時半、局の机の上に、一枚の新しい紙が、置かれていた。


罫線を引いただけの、簡素な表。


縦に、局員の名が並ぶ。長官、ベル書記官、六人の書記、ハイム典礼官、そして、私。


横には、二つの欄。


『睡眠』『持ち帰り』


昨夜、下宿の机で、自分で引いたものだった。


私は、ペンを取って、自分の名の横に、数字を入れる。


『睡眠 七』


「ローレン書記」


背後から、マルタの声がした。


「それは、週報の新しい書式ですか」


「はい。任官願の第一条の、実務案です」


マルタは、表を、端から端まで、眺めた。


「内規にない欄です」


「はい」


「ですが、有益です」


眼鏡の位置を直す。


「承認は、官房の仕事ですが、局内の運用は、局内で決まる。今週から、試してみましょう」


「ありがとうございます」


「礼は不要です。有益だと、述べただけです」


マルタは、表を、壁の掲示板に、画鋲で留めた。


その指先が、かすかに、楽しそうだった。


出勤してきたトビアスが、掲示板の前で、足を止める。


「あの。僕の欄にも、睡眠、ですか」


「はい。全員です」


「昨夜は、八時間、寝ました。書いて、よろしいでしょうか」


「ええ。事実ですから」


「八は、多いでしょうか」


「多くありません。むしろ、羨ましいです」


トビアスは、嬉しそうに、『八』と、書き込んだ。


その数字の横に、小さな丸まで、描き足した。


九時半。


局の前の通りに、青い馬車が、三台、静かに、止まった。


ザルツの色だった。装飾は、少ない。厚い布の幌と、実用的な車輪。


玄関の石段の上に、私たちは、並んで立った。


長官。マルタ。ハイム典礼官。トビアス。そして、私。


ハイム典礼官は、昨日よりも、顔色が、ずっと、よかった。喉元には、白い布が巻かれている。


「長官殿」


声は、掠れていた。けれど、確かに、声だった。


「戻られましたか」


「小さな声だけ、ですが。出立のご挨拶には、足ります」


典礼官は、髭の下で、少し、笑った。


先頭の馬車の扉が、開く。


濃い青の外套の人が、降りてきた。


ハインリヒ公。


朝の光の中で、その顔は、昨夜よりも、ずっと、軽く見えた。


「皆様。お見送りに、感謝します」


公は、石段の下で、深く、礼をした。


長官が、一歩、前に出る。


「ハインリヒ公。ヴェルデン王国典礼局一同、道中の無事を、お祈りいたします」


「ありがとう、長官殿。昨夜の晩餐が、私の人生で、いちばん、味のする晩餐でした」


「記録に、そのとおり、残します」


「それは、ぜひ」


公は、小さく、笑った。


そのとき、通りの向こうから、一人の老人が、歩いてきた。


杖はない。背筋は、まっすぐ。夫人は連れず、一人で。


モーリス侯爵だった。


私たちは、思わず、石段の上で、姿勢を正す。


侯爵は、公の前で、足を止めた。


「立ったまま、失礼する」


あの夜と、同じ言葉だった。


公は、少し、目を、細めた。


「立ったまま、お受けします」


二人が、手を、差し出す。


短い、握手だった。


長く握らず、強く握らず、ただ、互いの手の、温度を、確かめるような。


「侯爵。ヴェルナー夫人は、お元気ですか」


「ああ。昨夜の帰りの馬車で、団長殿の話を、延々と、聞かされた。あれは、よい方だ」


「私も、そう思います」


「次の晩餐では」


侯爵が、咳払いを、一つ、した。


「私は、端の席に、座ろうと思う。ザルツの方々の、戸口の傍に。手を、挙げる役を、務めよう」


公は、声を出して、笑った。


「それは、心強い。ならば、私も、お返しに、侯爵の席の近くに、座りましょう」


「いや、それは困る。私の席は、上座だ」


「侯爵」


「冗談だ。……いや、半分は、冗談だ」


二人が、同時に、笑う。


石段の上で、マルタが、ほんの少し、目元を、拭う。


私は、見なかったことにした。


見えていたけれど、見なかったことにするのも、局の仕事だった。


「ハイム典礼官」


公が、典礼官の方を向いた。


「声が、戻りましたか」


「小さな、声ですが」


「昨夜の復唱は、見事でした。……いや、復唱は、ベル書記官でしたね。典礼官殿の、お導きが、あってこその、ことでした」


典礼官は、静かに、礼を返す。


「紙に、書いただけの、ことでございましょう」


「紙に書いた一行が、人を、動かすことも、あります」


公は、マルタの前で、足を止めた。


「ベル書記官。昨夜の声を、ありがとう」


「記録には、残りません」


「ええ。ですが、声は、残りました。三百六十人の耳に」


マルタは、一瞬、言葉に、詰まった。


それから、深く、頭を下げる。


「……光栄です、団長殿」


公は、懐から、小さな紙の包みを、取り出した。


「ローレン書記」


私の方へ、向き直る。


「一言だけ、お時間を」


「はい」


石段の端へ、二人で、数歩、離れた。


長官は、同じ場所に、立ったまま、こちらを、見ている。


近づかない。けれど、離れない。


「あなたに、お渡ししたいものがあります」


公は、包みを、開いた。


厚手の紙が、一枚。


ザルツの、あの、独特の、手触りの紙だった。縁に、細い青い線が、引かれている。


表を、こちらへ向ける。


『セシリア・ローレン殿 ヴェルデン王宮典礼局』


細い、角張った字。名の下に、局の名が、並んでいる。肩書きというより、居場所の名のように、見えた。


「席札です。まだ、席は、ありません。裏は、白紙です」


公は、紙を、裏返してみせた。


そこには、何も、書かれていない。ただ、厚い紙の、白だけがあった。


「裏は、あなたが、あなたに宛てて、書いてください」


「私が、私に」


「私が、二十年前の私へ、書いたように。いつ書いても、何を書いても、あるいは、書かなくても、構いません」


「団長殿」


私は、紙を見つめたまま、言った。


「これは、お誘いでは、ありませんね」


「ええ。誘いではありません」


公は、はっきり、答えた。


「頼みでも、ありません。席札は、席に着く人のものです。あなたは、いつか、どこかに、自分で席を決めて、座る。そのときに、読んでください」


私は、息を、吸った。


目の縁が、少しだけ、熱い。


けれど、手は、震えなかった。


両手で、紙を、受け取る。


「お預かりします。書く日は、自分で決めます」


「それが、いちばん、いい」


公は、満足そうに、頷いた。


「それと、もう一つ。これは、冗談では、ありません」


「何でしょう」


「次に、ヴェルデンへ来るとき、あの壁際に、椅子を、一脚、置いておいてください」


私は、きょとんとした。


「椅子、ですか」


「あなたが、立っていた場所に。立っていても、座っていても、よい。選べるように」


公の目が、静かに、笑っていた。


私は、小さく、息を、吐いた。


「局の予算に、申請しておきます」


公は、声を出して、笑った。


「長官殿に、承認を、いただいてください」


「はい。必ず、通します」


石段の上で、長官が、咳払いをした。


聞こえていた、らしい。


公は、馬車の方へ、歩き出した。


扉の前で、振り返る。


「ヴェルデン典礼局の皆様。……お世話になりました」


深い、礼。


私たちも、全員で、礼を返した。


馬車の扉が、閉まる。


青い車輪が、石畳を、ゆっくり、動き始める。


最後尾の馬車の窓から、若者が一人、身を乗り出して、帽子を振っていた。トマス・リンデだった。その隣で、ヨーゼフ・ブレンナーが、小さく、手を挙げている。


トビアスが、思わず、手を振り返した。


馬車の列は、通りの角を曲がって、見えなくなった。


静けさが、石段に、戻ってくる。


石段の下には、侯爵が、まだ、立っていた。帽子を、胸に当てて、馬車の消えた角を、見ている。


やがて、振り返って、私たちに、軽く、頷く。それから、一人で、ゆっくり、歩き去った。


二十年分の荷物を、下ろした背中だった。


「……行きましたね」


トビアスが、小さな声で、言った。


「ええ」


長官が、短く、答えた。


「さあ」


マルタが、手を、一つ、叩く。


「通常の業務に、戻ります。昨夜の記録の整理。呼名札の回収分の、保管。官房への報告書の草稿。三時までに、終えること」


「はい!」


トビアスが、元気よく、答えた。


私たちは、局の中へ、戻る。


廊下の掲示板の前で、長官が、足を止めた。


私の引いた、新しい表。


『睡眠』『持ち帰り』


長官は、ペンを、取って、自分の欄に、書き込んだ。


『睡眠 六』


『持ち帰り 0』


それから、ほんの少し、ペンを止めて、私の名の欄を、見る。


『睡眠 七』


「ローレン書記」


「はい」


「あなたの『七』は、私より、一つ、多い」


「はい。長官も、七に、してください」


「善処します」


「それは、昨日も、聞きました」


長官は、小さく、笑った。


「ところで」


長官が、立ち去りかけて、振り返った。


「壁際の椅子の件ですが」


「はい」


「予算案を、先ほど、聞いていました。承認しましょう。ただし、一脚です」


「ありがとう存じます。座り心地は、ほどほどに、いたしますね」


「それは、重要です。座り心地がよいと、壁際で、眠ってしまう」


私は、思わず、吹き出す。


長官の口の端も、持ち上がっていた。壁際の椅子は、座るための椅子であり、立つ自由を、残すための椅子でもある。そう思うと、この予算は、悪くない使い道だった。


私は、自分の机に戻って、公から預かった席札を、引き出しの奥に、そっと、仕舞った。


鍵のかかる、小さな引き出し。


その鍵は、書庫の鍵と、真鍮の鍵の、隣に、掛かっている。


白い裏を、いま、見る必要は、ない。


席は、まだ、決まっていない。決める日は、私が、決める。


そのとき、廊下から、足音が、聞こえた。


官房の紋章の入った、使いの者だった。


「ローレン書記に、お届け物です。局長官にも、一通」


使いの者は、灰青色の封筒を、二通、差し出した。


封蝋は、官房の紋章。


私の手の上で、封筒が、ほんの少し、重かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。