五行目に、印を
長官は、約束どおり、局の正面の扉まで、送ってくれた。
階段を降りる途中、言葉は、ほとんど、交わさなかった。
「長官は、ここまでで」
「ええ。今日は、お父上の時間です」
長官は、扉の脇で、足を止めた。
「行ってらっしゃい」
その声は、母の言葉と、少しだけ、似た響きがした。
私は、一礼して、石段を降りる。
門の前の石畳に、背の高い人が、立っていた。
濃い茶の外套。帽子を、両手で、くるくると回している。回しては、止め、また、回している。
「お父様」
声をかけると、父は、肩を、びくりと跳ねさせた。
「セシリア」
帽子が、手の中で、止まる。
「……いや。来るつもりは、なかったのだ。今朝、あれだけ、偉そうなことを言っておきながら」
「偉そうなこと、でしたか」
「聞かせろとは言わない、と。許可ではなく、報告で構わない、と。そう言った。その舌の根も乾かぬうちに、ここに、立っている」
父は、帽子を、胸の前に、持ち直した。
「答えを、聞きに来たのではない。……顔を、見に来た。それだけだ」
「顔を」
「お前が、どんな顔で、あそこから出てくるのか。それを、見たかった」
不器用な言い方だ。
けれど、嘘は、一つも、混じっていない。
私は、胸の前で、手を、組んだ。
「ご報告します、お父様」
「聞こう」
「正式な書記として、局に残ることを、願い出ました。さきほど、長官に、書状を、お渡ししました。推薦は、いただきました。官房の承認が、数日の後に、出ます」
「承認が、下りなければ」
「その場合も、私の仕事は、続きます。願い出ることは、私が決めたことです。結果は、仕事を、見てもらった結果として、受け取ります」
父は、しばらく、黙っていた。
「お前は、もう、私の手の届かないところで、決めているのだな」
「はい」
「……寂しいものだ」
低い声が、石畳に、落ちた。
「寂しい、と言ってよいのか、分からない。親が、子の巣立ちを、寂しがるのは、世間では、ありふれたことだと聞く。だが、私は、お前が、巣にいた間、お前の顔を、よく見ていなかった」
「お父様」
「見ていなかった者に、寂しがる資格が、あるのだろうか」
私は、少し、考えた。
それから、はっきり、言った。
「寂しいと、おっしゃって、よいと思います。ただ、止めないでください」
父は、目を、見開いた。
「止めない」
即答だった。
「止めはしない。止めようとして、いるのではない。ただ、……言ってみただけだ」
「はい。聞きました」
「聞いたか」
「聞きました。受け取りました」
父は、小さく、息を吐く。肩が、少しだけ、下がる。
「お父様。一つだけ、お願いがあります」
「何だ。言ってみなさい」
「下宿まで、歩いていただけませんか」
「下宿?」
「四百歩ほどです。私の、お願いです。散歩として」
父は、帽子を、見下ろした。
「散歩」
「紙に、書いたのです。私が、したいことの、五行目に。母とお茶を飲む。父と、散歩をする」
父の口が、半分、開いた。
「……五行目、なのか」
「五行目です」
「その、前の四行は、何だ」
「席次を作りたい。自分の名で記録に残りたい。嘘を書かない仕事をしたい。長官の週報に、私の睡眠も書く」
父は、吹き出しそうになって、咳払いで、ごまかした。
「週報に、睡眠、か」
「はい」
「……変わった、願いだ」
「そうでしょうか」
「いや。悪くない。悪くない、とは、思う」
父は、帽子を、被り直した。
それから、片方の肘を、半歩分だけ、私の方へ、差し出した。
腕を、組むのでは、ない。ただ、寄せる。
私は、それに、手を添えずに、横に並んだ。
並んで、歩き出す。
王宮前の通りは、祭の後の、のんびりとした、空気をしていた。
紙吹雪の残りを、子供たちが、拾って遊んでいる。露店の主人たちが、昨日の売れ残りの林檎を、半値で呼びかけていた。
父が、ふと、足を止めて、林檎を二つ、買った。
「半値だそうだ」
言い訳のように言って、一つを、私の手に、載せる。父が、露店で何かを買うのを、見たのは、初めてだった。
かじると、少し、酸っぱい。父も、隣で、同じ顔をした。
「酸っぱいな」
「はい。でも、悪くありません」
「そうだな。悪くない」
同じ言葉を、並んで、繰り返す。それだけのことが、くすぐったかった。
父は、私の歩調に、合わせようと、していた。
合わせようとして、合わせすぎて、時々、足がもつれる。
「お父様、いつもの速さで、構いません」
「いつもの速さだと、お前を置いていく」
「置いていかれません。私も、速く、歩けますから」
「そう、だったか」
「はい。毎朝、局まで、歩いています。マルタ書記官に、鍛えられました」
父は、歩調を、少し、上げた。
私も、同じに、上げる。
二人の足音が、ほとんど、揃った。
「セシリア」
「はい」
「お前が出ていってから、書斎の箱を、出した」
「箱、ですか」
「母上の手紙の、控えが入った箱だ。母上が、取っておかれた。書いた手紙の、写しだ。母上の字だと、信じて、私は、時々、読み返していた」
父は、前を、見たまま、言う。
「あれを、ヘレナと、二人で、読み返そうと思う。今夜」
「はい」
「一通ずつ、読んで、どれが、ヘレナが、母上の気持ちを、預かって書いたものなのか。どの一行が、ヘレナ自身の、言葉だったのか。……そんなことが、分かるのかどうか、知らないが」
「分かると、思います」
「そうか」
「お母様の字は、少しだけ、右肩が上がります。お義母様の字を、真似て書いても、最後の一画が、お母様の癖に、戻ります」
父は、目を、見開いた。
「お前は、そこまで、見ていたのか」
「三年、字を書いていると、他の方の字も、見えてきます」
「……そうか」
父は、通りの先を、見た。
「それなら、今夜は、お前が、いなくても、よいな」
「はい。お二人で、お読みください」
通りの角で、一人の紳士が、会釈した。
「ローレン子爵。ご無沙汰しております」
「ああ。これは、モーリス侯爵家の、執事殿」
父は、帽子に、手を添えた。
執事は、ちらりと、私を見た。
「こちらは、ご令嬢で。昨夜の、席次表の」
「ええ」
父は、一拍、置く。
私は、息を、止めた。
世間に向かって、「娘」と紹介するとき、父は、いつも、「ローレン家の」と、前置きをした。
「私の、娘です」
父は、静かに、言った。
「セシリア・ローレン。典礼局の書記です。席次表は、娘自身の、仕事です」
執事は、深く、頭を下げた。
「存じております。侯爵が、昨夜から、何度も、お名前を」
「そうでしたか」
「どうぞ、ご壮健で。お嬢様も」
執事が、去っていく。
父は、背筋を、まっすぐに伸ばしたまま、しばらく、歩いた。
けれど、耳の端が、赤い。
「……変なことを、言ったか」
「いいえ」
私は、笑いを、堪えながら、言った。
「お父様の言葉は、事実でした」
「そうか。ならば、よい」
父は、咳払いを、一つ、した。
通りの先に、ブラント夫人の下宿の、赤い屋根が、見えてきた。
「あそこです」
「あれが、お前の、部屋か」
「二階の、右の窓です。向かいに、局の、長官の部屋の窓が、見えます」
「長官の」
父の足が、一瞬、止まる。
「長官殿には、先ほど、門の前で、お目にかかった」
「え」
「お前が、局に入って、しばらくしてから。……あの方が、門まで、出てこられた」
私は、目を丸くする。
長官は、私を、扉まで送ると、言った。けれど、その前に、父に、会っていたのか。
「何を、お話しに」
「たいした話は、していない。ただ、私が、……」
父は、少し、言いよどんだ。
「頼みごとを、しようとした。娘を、頼む、と。そう言いかけて、やめた」
「やめたのですか」
「お前は、頼まれる側の、人間では、ないと、思ったのでな」
父は、前を向いたまま、続けた。
「だから、こう言った。『娘の、仕事を、見ていてください』と」
私は、足を、止めそうになった。
「長官は、何と」
「『毎日、見ております。仕事を、です』と。それから、少し、考えて、付け加えられた」
父の口元が、わずかに、動いた。
「『かばいません。ただし、隣に、立ちます』と。……意味は、よく分からなかったが、悪くない言葉だと、思った」
私は、前を向いた。
視界が、少し、滲んだ。
長官は、局の中だけでなく、外でも、同じことを、言う人だった。
下宿の門の前で、足を、止める。
「お父様。ここまで、ありがとうございました」
「うむ。……散歩に、なったか」
「はい。五行目に、印をつけます」
「印を」
「済んだ、という印です」
父は、嬉しそうに、頷いた。
そのとき、下宿の戸が、内側から、開いた。
丸眼鏡の小柄な老婦人が、エプロンで手を拭きながら、出てくる。
「おや。お父上かい」
「ブラント夫人。父の、ジョナス・ローレンです」
父は、帽子を取って、深く、頭を下げた。
「娘が、いつも、お世話に」
「世話なんて、してないよ。パンを焼いてるだけさ」
夫人は、父を、頭の先から靴まで、ひとしきり眺めた。
「あんたの娘は、よく食べる。よく食べる子は、大丈夫だ」
「……それは、安心して、よいのでしょうか」
「ああ。安心しな」
父の口が、少し、緩んだ。
そこへ、通りの向こうから、トビアスが、息を切らして、走ってきた。
「ローレン様!」
「トビアス。どうしたの」
「官房から、お知らせです。ザルツの使節団は、明朝、出立なさるそうです。団長殿が、その前に、局へ、お立ち寄りになると」
「局へ」
「はい。ローレン様に、一言、お話しになりたいと」
私は、父の顔を、見た。
父は、静かに、頷いた。
「行きなさい」
「はい」
「私は、帰って、母上の、箱を、開ける」
その背中が、ゆっくりと、遠ざかっていく。
少し、小さくなった背中だった。
けれど、足取りは、昼の、どの時よりも、まっすぐだった。




