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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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いい顔だよ

下宿の台所からは、玉葱を炒める匂いが、していた。


「ただいま戻りました」


「お帰り。顔を洗って、手を拭いて、座んな」


エルゼ・ブラント夫人は、丸眼鏡を鼻の先に載せたまま、振り向きもせずに言った。


小さな背中が、大きな鍋の前で、木のしゃもじを動かしている。


私は、言われたとおりにした。


食卓には、スープと、黒パンと、茹でた根菜。簡素で、湯気が、ちゃんと立っている。


「いただきます」


「あんたの顔、実家に行ってきた顔だね」


「分かりますか」


「分かるさ。ここんとこが、少し、緩んでる」


夫人は、自分の眉間を、指でとんとんと叩いた。


私は、匙を、口に運んだ。


玉葱の甘みが、舌に広がる。


「聞かないんですね」


「聞かないよ。聞いたら、あんたは、答えを私に合わせるだろう。あんたは、そういう子だった」


「……今は、少し、違います」


「知ってる。だから、聞かないんだ」


夫人は、パンを、ちぎった。


「ただね。一つだけ、年寄りの知恵を、置いてく」


「はい」


「大事なことを決めるときは、紙に書いて、半分に折って、一度、腹に入れてから、読みな」


「腹に、入れる」


「食べてから、読むってことさ。空き腹で読んだ字は、悲観が混じる。満腹で読んだ字は、楽観が混じる。ちょうどいい頃合いに、読むんだ。そのとき、顔が、どうなるか」


夫人は、私の目を、見た。


「それが、本音だよ」


私は、懐の紙を、思い出した。


「ありがとうございます。……部屋で、書き上げてきます」


「ああ。そうしな。どっちに決めても、部屋は、月末まで、あんたのものだから。それは、決めるのに、関係ないからね」


その言い方が、可笑しくて、私は、笑った。


関係ない。そう言ってもらえることが、ありがたかった。


二階の、小さな部屋。


寝台と、机と、本棚と、窓。


窓の外には、典礼局の奥の、長官の部屋の窓が、見える。


私は、机に座った。


朝、街角の石の縁で書き始めた紙を、広げる。


『私が、したいこと』


その下に、まだ、一行しか、書けていない。


『席次を、作りたい』


私は、ペンを持ち直した。


誰かに、望まれたからではない。書けるから、でもない。作りたいから、作る。


二行目。


『自分の名で、記録に、残りたい』


三行目で、少し、迷った。


『嘘を、書かない仕事を、したい』


これは、三年間、書き続けた手紙の、裏返しだった。


四行目。


『長官の週報に、私の睡眠も、書く』


思わず、ペンが、止まる。


可笑しい。けれど、これも、したいことだった。


誰かの、倒れる寸前を、見張る。同時に、自分も、見張られる。そういう、お互いの仕事。


五行目。


『母と、お茶を飲む。父と、散歩をする』


六行目。


『藤の花の刺繍を、完成させる』


書き終えて、私は、紙を、見つめた。


小さな字で、六つ。


どれも、誰かに頼まれたものではない。


そして、一つも、「選ばれたい」とは、書いていない。


反対側に、もう一枚の紙を、置く。


『怖いこと』


一行だけ、書く。


『局に残れば、逃げ道が、減る』


そのまま、しばらく、見ていた。


怖い。確かに、怖い。


「正式な書記」になれば、「臨時」という、いつでも退ける立場は、なくなる。


けれど、逃げ道があるから、安心できる、というのは、昔の私の考え方だった。


耐えて、整えて、いざとなれば、黙って退く。そのための道だった。


いま、私が欲しいのは、退く道ではない。


立つ場所だ。


二枚の紙を、半分に折る。


階下に降りると、ブラント夫人が、皿を洗っていた。


「もう、食べたね。腹は」


「満ちています」


「じゃあ、読みな」


私は、台所の隅で、二枚の紙を、開いた。


一枚目の六行を、ゆっくり、読む。


二枚目の一行を、読む。


顔が、どうなっているのか、自分では、分からない。


夫人は、洗い物の手を止めて、私を、じっと見た。


「いい顔だよ」


「どんな顔ですか」


「飯を食ってから、仕事の顔になる前の、顔」


夫人は、にやりと笑った。


「行っといで」


出かける前に、もう一度、二階の机に戻った。


白い紙を一枚、広げる。表書きは、『任官願』。


六行の中から、局に残る理由と、守りたい約束を、三つ、選んだ。選んだ、というより、紙の上で、残ったのだ。


名を書く。『セシリア・ローレン』。


インクが乾くのを、向かいの、長官の部屋の窓を見ながら、待つ。


局の廊下は、昼下がりの光で、白っぽく、静まりかえっている。


マルタが、書庫の前で、書類の山を、仕分けていた。


私に気づくと、手を止めずに、言う。


「決めたのですか」


「はい。三時に、長官に、お話しします」


「私は、聞きません。長官が、先です」


「はい」


「ただし」


マルタは、眼鏡の奥から、私を、一度だけ、見た。


「私は、二十二年、自分で決めてきました。あなたの二十二年後を、見たいとは、思います。けれど、それは、私の希望です。あなたの条件では、ありません」


「ありがとうございます、ベル書記官」


「礼は、不要です。事実を、述べただけです」


マルタは、書類に、目を戻す。


その手が、ほんの少し、速くなっていた。


トビアスは、回廊の端で、昨夜の呼名札を、箱に仕分けている。


「ローレン様。おかえりなさい」


「ただいま、トビアス」


「僕、何も、お尋ねしません」


「ありがとう」


「でも、一つだけ、お伝えしても、いいでしょうか」


「どうぞ」


トビアスは、呼名札の束を、胸に抱えて、背筋を伸ばした。


「僕は、ローレン様が、局に、いらっしゃってくださって、よかったと、思っています。どちらに、お決めになっても、その気持ちは、変わりません。それだけです」


「……そう。ありがとう」


それ以上、言葉は、要らない。


トビアスは、嬉しそうに、頭を下げて、持ち場に戻る。


三時の鐘が、鳴り始めた。


長官の部屋の扉を、叩く。


「入りなさい」


部屋には、いつもの、紙と、インクと、紅茶の匂いがする。


机の上に、書類は、ほとんど、ない。


長官は、椅子から立ち上がって、窓際で、待っていた。


「お時間に、なりました」


「はい。……かけてください」


私は、卓の前の椅子に、腰を下ろした。


長官も、向かいに、座る。


懐から、一通の書状を、取り出す。


下宿の机で、自分で、清書したものだ。ブラント夫人の台所で、紙を読み直した、そのあとに。


「お答えの前に、これを、お渡しします」


長官は、受け取って、表書きを、読んだ。


「典礼局正式書記 任官願」


その声が、わずかに、低くなる。


「開いても」


「はい」


長官は、書状を、開いた。


私の字で、書かれている。


『私、セシリア・ローレンは、王宮典礼局の正式な書記として任官することを、自分の意思で、願い出ます。


条件は、三つ。


一、局の内規と週報を守ること。ただし、週報には、局員全員の睡眠と持ち帰りを記すこと。長官のものも、私のものも、同じ欄に。


二、他者の名での代筆はしないこと。私の字は、私の名で、局の記録に残すこと。


三、残る理由は、私が選ぶ仕事が、ここにあるから。誰かに選ばれたからではない。


セシリア・ローレン』


長官は、三度、読んだ。


三度目の途中で、目を上げて、私を見た。


「第一条は」


「長官にも、守っていただきたい条件です。持ち帰りゼロの予定を、予定のままにしないために」


「……ええ」


長官の口の端が、動いた。


「私の分は、了解しました。ローレン書記の分も、書かれるのですね」


「はい。私も、無理をしますので」


「それは、お互いに」


長官は、書状を、卓の上に置く。


しばらく、何も、言わない。


窓の外で、風が、木の葉を、揺らす音がした。


「正式な任官は、局長官の推薦と、官房の承認が、要ります」


事実を述べる声で、長官は言った。


「推薦は、いま、この場で、署名します。承認の可否は、官房の日程で決まります。数日は、かかるでしょう」


「承知しています」


「ですので、今日、私にできるのは、受理と、推薦までです。任官そのものは、お約束できません」


「それで、構いません」


私は、頷いた。


「約束されて、任官されるのは、違います。官房の承認が、下りるかどうかは、私の仕事を、見てもらうことです」


「そのとおりです」


長官は、ペンを取った。


書状の末尾に、推薦の署名を、書き入れる。


『典礼局長官 レオンハルト・グレイヴス』


署名の字は、細く、迷いがなかった。


「受理しました」


ペンを置いて、長官は、告げる。


「ありがとう、とは、言いません」


私は、少し、目を見開いた。


「あなたは、私のために、選んだのではない。あなた自身のために、選んだ。だから、礼は、あなたの仕事の側に、返します」


「……はい」


「ですが、一つだけ、私の言葉で、言わせてください」


長官は、まっすぐに、こちらを見た。


「あなたが、この局に、残ってくれることを、私は、心強く、思います。それは、私の、事実です」


私は、胸の前で、そっと、手を握る。


「受け取りました」


そう答えると、長官は、小さく、頷いた。


「官房への提出は、私が行います。結果が出るまでは、これまでどおり、臨時書記として、働いてください」


「はい」


「それと」


長官は、少し、視線を逸らして、咳払いをした。


「お父上が、先ほど、局の門の前に、いらしています」


「……え」


「時間を、お尋ねしたら、三時、と。答えをお聞きになりたいのか、顔だけでも、ご覧になりたいのか、私には、分かりませんでした」


私は、窓の外を、見た。


門のあたりに、背の高い、帽子を手に持つ人影が、立っている。


行ったり来たり、していた。


「かばいません」


長官は、淡々と、言った。


「ただし、行っておいで。扉の、前までは、お送りします」


私は、思わず、笑ってしまった。


笑いながら、少しだけ、目の縁が、熱かった。

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