私の名と、母の言葉
ローレン子爵邸の門は、朝の光の中で、いつもと同じ色をしていた。
門番が、慌てて帽子を取る。
「お嬢様。お帰りなさいませ」
「お帰りではなく、ご挨拶に伺いました。父と母は、おりますか」
「はい。食堂で、お茶を」
玄関の扉が、内側から開いた。
「お嬢様!」
アンナだった。エプロンの端を握りしめて、目を丸くしている。
「昨夜は、お疲れ様でございました。広間の話は、馬車の御者から、聞いております。団長殿の隣の席が、お嬢様の図だったと」
「誰が、そんなことまで」
「王都中が、もう、噂でございます」
私は、小さく、息を吐いた。
噂は、昨夜、正しい形に整った。だから、これは、悪い噂ではない。
「アンナ。食堂へ、案内を」
「はい。……お嬢様、お顔が、お変わりになりました」
「そうかしら」
「はい。背中が、まっすぐでございます」
アンナは、それだけ言って、深く頭を下げた。
食堂の円卓には、紅茶の湯気が、立っていた。
父は、いつもの席で、新聞を畳んでいる。母は、その隣で、茶器を並べていた。
私は、卓の前で、足を止めた。
「お父様、お母様。ご挨拶に、参りました」
「座りなさい」
父が、短く言った。
「お前の席は、そこだ」
示されたのは、昔から、私が座っていた、母の隣の椅子だった。
私は、静かに、腰を下ろした。
「報告が、三つあります」
「聞こう」
「一つ。昨夜の晩餐の席次表は、無事に、務めを終えました。事故は、一つありましたが、収拾しました」
「ああ」
「二つ。官房から、今朝、お話がありました。ザルツ使節団の記録に、席次表の作成者として、私の名が載ります。ヴェルデンの記録は、『局の提案』のままです。私は、その申し出を、お受けしました」
父の手が、新聞の上で、止まった。
「ザルツの、記録に」
「はい」
「ローレン家の、名が」
「いいえ、お父様」
私は、遮るつもりはなく、けれど、はっきり言った。
「ローレン家の名ではなく、私の名です。家名は、私の名の後ろに、付いているだけです」
父は、口を、閉じた。
それから、ゆっくり、息を吐いた。
「……そうだな」
低い声だった。
「お前の名が、他国の記録に載る。私が言うべきことは、そちらだった」
「恐れ入ります」
「三つ目は」
「三つ目は」
私は、膝の上で、手を、重ねた。
「今日の午後三時までに、局に残るか、辞めるかを、自分で決めます。お二人のご意見は、お聞きします。ですが、決めるのは、私です。許可をいただきに来たのではなく、報告に、参りました」
食堂が、静まった。
茶器の触れ合う音だけが、小さく、鳴る。
父が、新聞を、卓の端に、置いた。
「聞かれたことには、答える。意見を、言ってよいのだな」
「はい」
「では、一つだけ言う」
父は、私の目を、まっすぐに見た。
「官吏は、続ければ、嫁ぎ遅れる。世間は、そう言う。……私は、その世間の側には、立たない」
「お父様」
「残るなら、残りなさい。戻るなら、戻りなさい。どちらでも、私は、お前を、ローレンの娘として、誇りに思う」
その言葉は、少しだけ、硬かった。
けれど、嘘ではなかった。
「それから」
父は、湯気の立つ杯に、目を落とす。
「三年間、お前が何を書いていたのか、私は、あの審問の日まで、知らなかった。知ろうとする気も、なかった。それは、私の落ち度だ」
「いいえ。私が、言わなかったのです」
「言わせなかったのは、私だ」
父は、杯を、持ち上げて、一口、飲んだ。
「その話は、また、別の日にしよう。今日は、お前の日だ」
「はい」
隣で、母が、小さく、息を吸う音がした。
「セシリア」
「はい、お母様」
「私も、言ってよいかしら」
母の指先が、茶器の取っ手の上で、白くなっていた。
「お母様の、お考えは、聞きたいです」
「あなたの話の、前に。一つだけ、言わなければならないことが、あるの」
母は、顔を、父の方へ、向けた。
私は、息を、止めた。
これは、私が、言う話ではない。
私は、膝の上の手を、強く、握った。口は、挟まない。
「あなた」
母の声が、震えている。
「お義母様の、お手紙のことです」
「母上の?」
「お嫁に来てから、お義母様が亡くなるまでの、七年間。お義母様が、親戚や、お友達に出していた、季節のお手紙。あれを、書いていたのは、私です」
父は、動かなかった。
母は、続ける。
「お義母様は、お手が、お悪かったの。字が、書けなくなって。……お優しい方でした。でも、あの方は、手紙の上では、必ず、ご自身の字で、書いたことに、なさりたかった」
「……」
「だから、私が、お義母様の字を、真似て。七年間。誰にも、言わずに」
「ヘレナ」
「言えなかったの。言ったら、私の居場所が、なくなると、思って」
母は、まっすぐに、父を、見た。
「でも、セシリアが、同じことを、三年、していました。私は、あの子が、私と同じ道を歩いていたことを、知って。あなたに、これ以上、黙っていることは、できなくなりました」
食堂に、重い静けさが、落ちた。
父は、動かない。
窓から差す朝の光が、卓の上の紅茶の面を、揺らしていた。
やがて、父が、口を開く。
「母上の字は、美しかった」
「はい」
「少し丸く、跳ねる癖があって。……あれは、お前の字だったのか」
「はい」
「私は、母上の手紙を、読むたびに、母上のお気持ちを、知った気でいた」
父の声が、低く、掠れた。
「私が、読んでいたのは、お前の言葉でも、あったのか」
「お義母様のお考えを、私が、お預かりして、書きました。偽りは、書いておりません」
「そうか」
父は、席を、立った。
窓際へ、ゆっくり、歩いていく。
背中を、こちらへ向けたまま、動かない。
私は、母の手に、そっと、手を重ねようとして、やめた。
これは、母の、時間だ。
「ヘレナ」
「はい」
「お前は、七年間、母上のために、手を使い続けた」
「はい」
「それを、私は、七年間、知らずに、母上にだけ、礼を言っていた」
父は、振り向いた。
目が、赤かった。
「すぐには、整理できない。……今夜、時間を作ってくれ。私から、お前に、話をさせてほしい」
「はい」
母の目から、静かに、涙が落ちる。
けれど、母は、袖で、それを拭わない。
父が、そっと、卓へ戻ってきて、母の隣の、空いた椅子の背に、手を置いた。
「座ってもよいか」
「……はい」
父は、母の隣に、腰を下ろした。
何も、言わない。ただ、肩の高さを、母と、揃える。
私は、その様子を、静かに、見ていた。
昔から、この円卓には、三つの椅子が、並んでいた。父と、母と、私。
いまは、それぞれの席が、少しだけ、違う意味を持って、そこに、あった。
「セシリア」
しばらくして、母が、顔を上げた。
「あなたの話に、戻りましょう」
「はい」
「私の意見は、一つだけ。……あなたが、局に残るなら、私は、うれしい。戻るなら、それも、うれしい。どちらでも、同じ。それを、先に、言っておきたかったの」
「お母様」
「でも、この言葉に、縛られないで」
母は、涙の残る目で、はっきり、言った。
「あなたが選ぶのは、私たちを、安心させるためではないのよ。あなたの、人生なのだから」
胸の奥の、固く結んでいたものが、少しだけ、緩んだ。
けれど、涙は、出なかった。
出さずに、私は、二人を、見た。
「ありがとうございます。お二人のお言葉は、受け取りました」
「一つだけ、私からも」
私は、立ち上がる前に、言った。
「三年間、私は、『私が耐えればよい』と、考えていました。それは、お二人のせいだけではありません。私が、そう決めていたのです。いまは、違います。だから、お二人も、ご自分を、責めすぎないでください」
母が、目を、見開く。
父が、ゆっくり、頷いた。
「……努める」
その短い返事が、今朝の、父の精一杯だと、分かった。
立ち上がる。
「今夜は、お二人で、お話しください。私は、下宿に、おります」
「セシリア」
父が、呼び止めた。
「はい、お父様」
「三時の答えを、聞かせろとは、言わない。ただ、……決めたら、顔を、見せなさい。許可ではなく、報告で、構わない」
「承知しました。必ず」
玄関まで、母が、ついてきた。
「セシリア。襟が、少し、曲がっているわ」
「はい」
「直しても、いいかしら」
母は、手を伸ばす前に、そう尋ねた。
「お願いします」
母の指が、書記の礼装の襟を、そっと、整える。袖口の蔓草の刺繍に、一瞬、目を留めて、微笑んだ。
「よく、似合っているわ」
「お母様が、縫ってくださった糸です」
「ええ。……行ってらっしゃい」
その一言は、かつて、私が、毎朝、聞いていた言葉と、同じ音で、違う重さをしていた。
玄関の内側では、アンナが、待っていた。
「お嬢様。お帰りは、下宿でございますか」
「ええ。でも、その前に、少し、歩いて、考えたいの」
「かしこまりました。……お嬢様、お肩が、冷えます」
アンナが、淡い藤色の肩掛けを、両手で差し出した。
刺繍糸と、同じ色。覚えていてくれたのだ。
「ありがとう、アンナ」
扉の外に出ると、朝の風が、頬に当たった。
石畳を、少し歩く。
門を出て、角を曲がったところで、足を止めた。
懐から、小さな紙を、取り出す。ペンと、一緒に。
私は、街角の石の縁に、腰を下ろした。
紙の上に、一行目を、書く。
『私が、したいこと』
そこで、ペンが、止まった。
誰かに、望まれていることなら、すぐ、書ける。誰かを、安心させること。誰かに、喜ばれるよう、振る舞うこと。誰かを困らせないという、長年の配慮。
それらを、いったん、全て、紙の外に出す。
残った、空白に、私自身が、望むことを、書く。
風が、紙の端を、揺らす。
三時まで、あと、四時間。
私は、深く、息を吸って、もう一度、ペンを、動かした。




