私の名で
祭の翌朝の王都は、静かだった。
石畳には、昨日の紙吹雪の名残りが、ところどころ、ひっかかっている。清掃の人足が、箒を鳴らして、通りを行き来していた。
局の灯りは、七時前に、もう点いていた。
長官の部屋の扉が、開いている。
机の前の長官は、昨日と同じ濃い灰色の上着を着て、書類ではなく、窓の外を見ていた。
「お早うございます、長官」
「お早うございます、ローレン書記」
振り向いた顔は、昨夜よりも、ずっと、血の色があった。
「お休みになれましたか」
「零時に、寝台に入りました。起きたのは、六時です」
「六時間ですね」
「六時間です。記録は、『六』と」
私は、小さく、頷いた。
「週報に、書いておきます」
机の隅に、短いメモが置かれていた。
『昨夜の持ち帰り、ゼロ。L』
その下に、細い字で、もう一行、足してある。
『今朝の分も、ゼロの予定』
「予定、ですか」
「予定は、守るためにあります」
長官は、真顔で、そう答えた。
私は、笑いを、堪えきれない。
局の廊下では、ハイム典礼官が、湯気の立つ杯を、両手で包んで立っていた。
私の顔を見ると、懐から紙を取り出して、さらさらと書く。
『声ハ、二日、休ミマス。紙デ、失礼』
「お大事になさってください」
『昨夜ノ、ベル書記官ハ、見事。貴女ノ判断モ』
「恐れ入ります」
典礼官は、髭の下で、深く笑う。声のない笑いだ。
局の奥では、トビアスが、昨夜の席札を、箱に、仕分けていた。
「ローレン様、おはようございます。回収は、三百五十九枚です」
「一枚は」
「団長殿が、持ち帰られました。裏の一行ごと。ハイム典礼官が、許可なさったそうです」
「そう」
「記録には、『一枚、団長殿が受領』と書きました。それで、よろしかったでしょうか」
「ええ。事実のとおりです」
トビアスは、嬉しそうに、頷いた。
八時四十分。
長官と並んで、局の階段を降りた。
官房の建物までは、王宮の前庭を、斜めに横切る。昨夜の広間の大扉が、遠くに見えた。朝の光の中では、ただの、大きな石の扉だった。
「長官」
「はい」
「官房の前の廊下までと、おっしゃいました」
「ええ。中には、入りません。呼ばれたのは、あなたの名です」
「承知しています。ただ」
私は、歩きながら、言葉を探した。
「中で、何を言われても、決めるのは、私です。……そう思って入ります」
「それで、よろしい」
長官は、前を向いたまま、言った。
「私は、廊下の窓際に、立っています。時間は、気にしなくて構いません」
官房の廊下は、長く、天井が高かった。
窓際に、長官が立つ。
私は、一人で、奥の応接室の扉の前に進んだ。
叩く。
「入りなさい」
一昨日と同じ、窓際の卓。
ヴァイス伯爵は、背筋を硬く伸ばして、立っていた。細い体に、薄い灰色の上着。卓の上には、書類が、二通だけ。
「お早う、ローレン書記」
「お早うございます、ヴァイス伯爵」
「掛けなさい」
私は、椅子に、腰を下ろした。
伯爵は、立ったまま、始めた。
「用件を述べる。先に言っておく。命令では、ないのだ。官房は、あなたに、何も命じない」
「はい」
「昨夜、閉会の後、ザルツのハインリヒ公が、官房を訪れた。五分ほどだった」
私は、膝の上で、手を、重ねた。
「申し出は、一つ。ザルツ側の使節団記録に、今回の席次表の作成者として、あなたの名を、載せたいと」
息を、止めた。
「ヴェルデンの記録は、『局の提案』のままで構わない。それは、官房の慣例であり、公も承知している。ただ、ザルツの記録は、ザルツの側が、書く。ザルツの書記が、事実のとおり、書きたいのだと」
「……事実のとおり」
「『ヴェルデン王宮典礼局臨時書記、セシリア・ローレン嬢、席次表の作成者』。肩書きは、そう記される予定だ」
伯爵は、書類の一枚を、卓の上で、こちらへ滑らせた。
ザルツの紙。厚手で、細い、角張った字。
あの人の字だった。
「他国の記録に、他国の官吏の名が載るには、その官吏の同意と、官房の許可が要る。許可は、すでに、出した。官房は、他国の記録の書き方を、止める権限を、持たない」
伯爵は、一拍、置いた。
「あとは、あなたの同意だ。断ってよい。断れば、ザルツの記録も、『局の提案』となる。何も、変わらない。誰も、あなたを咎めない」
私は、ザルツの紙を、見つめた。
字は、一行。
『席次表の作成者 セシリア・ローレン嬢 ヴェルデン王宮典礼局臨時書記』
名が、そこに、あった。
三年間、私が書いた手紙は、他人の名で、出て行った。誰かの礼状も、誰かの断り状も、誰かの祝いの言葉も、私の字で、他人の署名の下に。
私の名が、私の仕事の下に、書かれたことは、一度も、ない。
一昨日、この部屋で、「記録は事実のとおりに残れば結構です」と、私は答えた。それは、本心だった。
けれど、いま、ここにある一行は、違う。
誰かが、私の代わりに、事実を、選んだのでは、ない。私の仕事を、見た人が、自分の記録に、自分の言葉で、書いた。
そして、私に、選ばせてくれている。
「伯爵」
「うむ」
「一つ、確認させてください」
「聞こう」
「この記録に、名が載ることで、私に、義務や、役割や、立場が、生じますか」
「生じない」
伯爵は、即答した。
「記録は、記録だ。あなたの身分は、局の内規の範囲にある。官房は、関知しない。載っても、載らなくても、あなたの明日の仕事は、変わらない」
「分かりました」
私は、息を、整えた。
「もう一つ。ヴェルデンの記録は、『局の提案』のままで、よろしいのですね」
「それは、あなたが、一昨日、そう言った」
「はい。それで、構いません。局の提案であったことも、事実です。長官と、ベル書記官と、六人の書記が、いなければ、あの図は、形になりませんでした」
伯爵の眉が、ほんの少し、動く。
「ザルツの記録には、私の名が、載る。ヴェルデンの記録には、局の名が、載る。どちらも、事実です。どちらも、残って、構いません」
私は、顔を、上げた。
「お受けします」
声は、震えなかった。
「理由を、一つだけ申し上げます。あの図は、『私の図です』と、官房の前で、申し上げました。作成者は私で、誤りがあれば、私の責任だと。責任を、私が持つのなら、名も、私が持ちます。それが、事実の形だと、思います」
「……そうか」
伯爵は、ゆっくり、頷いた。
「では、同意の署名を、この紙に」
私は、卓の上のペンを取った。
自分の、黒い軸の、細いペン。給金の半分で、買った、あの一本。
握った手に、迷いは、なかった。
『セシリア・ローレン』
自分の名を、自分の字で、書く。
何度も、書いてきた名だった。それでも、いま書いた一筆は、いままでの、どの一筆とも、違って見えた。
「確かに」
伯爵が、紙を、受け取る。
インクが、乾くのを、待つ間、伯爵は、窓の外を、見ていた。
「ローレン書記」
「はい」
「一昨日の私は、『慣例はない』と言った。今日の私は、『許可を出した』と言った。矛盾して、聞こえるかもしれない」
「いいえ」
私は、首を、横に振った。
「ヴェルデンの記録の慣例は、守られました。他国の記録は、官房の及ぶところではない。どちらも、筋の通った、お答えです」
伯爵は、振り向いた。
細い顔に、ほんの少し、笑みに似たものが、浮かんでいた。
「あなたは、筋を、通す人だ」
「恐れ入ります」
「用件は、以上だ。退室して、構わない」
「失礼いたします」
扉の前で、一礼する。
廊下に出ると、窓際に、長官が、立っていた。
朝の光が、その肩の線を、まっすぐ、縁取っている。
私は、歩み寄った。
「終わりました」
「お聞きしても」
「はい。ザルツの使節団記録に、席次表の作成者として、私の名が載ります。公の申し出です。官房は、許可を出し、私に選ばせました」
「お選びに、なりましたか」
「お受けしました」
長官は、目を閉じて、一度、頷いた。
「それは、いい選択です」
「長官は、驚かないのですか」
「驚いています。ただ、あなたが、断る理由が、見つからなかった」
長官は、少し、笑った。
「ヴェルデンの記録には、『局の提案』と残る。そこには、私の名も、あなたの名も、ありません。それでいい。ザルツの記録に、あなたの名が、残る。それも、いい」
廊下を、並んで、歩く。
窓の外では、前庭の石畳を、人足たちが、掃き清めていた。
「長官」
「はい」
「今日中に、お答えを、出します」
足が、ひとりでに、止まった。
「局に、残るかどうかの、答えです。昨日、公にも、明朝と言いました。今日が、その、明朝です」
「はい」
「今日の午後、三時に、長官の部屋で、お話しします。それで、よろしいでしょうか」
「結構です」
長官は、少しだけ、息を、吸った。
「いま、聞かせてほしい、とは、言いません。私は、答えを、待つ側の人間です。待つことは、できます」
「待たせるつもりは、ありません。三時までには、決めます」
私は、笑って、付け加えた。
「それと、先に、一つ、寄るところがあります」
「どちらへ」
「実家です。父と母に、会います。相談ではなく、報告に」
長官は、少し、目を見開いた。
それから、ゆっくり、頷いた。
「それは、あなたの、順序ですね」
「はい」
階段を降りて、前庭へ出る。
朝の光が、肩に、当たった。
石畳の上を、紙吹雪の一片が、風に押されて、転がっていく。
私は、懐の中の、小さな丸い塊に、手を触れた。
ブラント夫人の、パン。今朝の分。昨夜の半分と、同じ形の、麦の粉の丸いパン。
歩きながら、ひとかけ、ちぎって、口に入れる。
噛むと、麦の味が、ゆっくり、広がった。
三時までに、答えを、持つ。
誰かに、選ばれたからではなく。
私の、足で。




