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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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これは、私の涙です

外套掛けの前の、少し引っ込んだ場所に、三人で立った。


客の流れが、背中の側を、通り過ぎていく。靴音と、衣擦れと、馬車を呼ぶ声。扉の外では、夜気が、冷たく動いていた。


「時間を、ありがとうございます」


アルバートが、先に口を開いた。


「一分で、終わらせます。お願いではありません。お返事も、いりません」


「伺います」


私は、両手を、名簿のない胸の前で、組んだ。


アルバートは、一度、深く息を吸う。


「僕は、あなたの席を、考えたことが、ありませんでした」


声は、低い。けれど、迷いがない。


「晩餐会に、あなたを連れて行くとき、あなたが会場のどこに立つのか、一度も、考えなかった。三年間、あなたは、いつも、壁際にいたのに」


「……はい」


「今夜、壁際に立つあなたを、見ました」


視線が、広間の方へ、一瞬だけ、流れる。


「誰の席も、ない場所に、背筋を伸ばして。あの場所に、あなたを、立たせていたのは、僕でした」


私は、黙って、聞いていた。


「リリアを、妹と呼んだことも、あなたに我慢をさせたことも、事実です。申し訳ありませんでした」


言葉が、途切れる。


「あなたが整えてくださった席に、座って、母上の手紙を、当たり前のように、受け取っていました。その席が、どうやって、整えられていたのかを、見ようとしませんでした」


アルバートは、頭を、下げた。


「許してほしいとは、言いません。ただ、言わないままには、できませんでした。僕の言葉で、僕が、言いたかった」


腰を折ったまま、動かない。


広間の灯りが、その背中の紺色を、深く見せていた。


私は、息を、ゆっくり、吸った。


ここで、何か、足してしまいそうになる。優しい言葉でも、慰めでも、許しでも。


けれど、足さない。足せば、また、私が、何かを、背負うことになる。


三年間、私は、「私が耐えればよい」と、考えていた。耐えて、整えて、黙って立つ。それが、私の席の形だと、思い込んでいた。


いまは、違う。誰かの謝罪を、受け取ることと、それを理由に、もう一度、荷物を持ち上げることは、別のことだ。


「受け取りました」


はっきり、そう答えた。


アルバートが、顔を、上げる。


「それだけです。私から、お返しするものは、ありません。それで、よろしいでしょうか」


少しの間があって、アルバートは、頷いた。


「はい。それが、いちばん、正しいと思います」


その目は、赤かった。けれど、泣いては、いない。


「もう一つだけ。事実の報告として」


「どうぞ」


「来週の観劇の席のことを、覚えておられますか」


「ええ。リリア様と、どうぞ、と申し上げた覚えがあります」


「あの席は、使いませんでした。劇場に、お返ししました」


アルバートが、小さく、笑う。


「先月、自分の分だけ、一席、取り直して、一人で見に行きました。席が一つしかないのは、思っていたより、静かで。……悪い静けさでは、ありませんでした」


「そうですか」


「それだけです。母上は、今夜、自分の足で、広間まで歩きました。顔色は、悪くなかったでしょう」


「はい。お元気そうに、見えました」


「ありがとうございます」


アルバートは、半歩、下がった。


そこで、後ろに立っていた少女が、前に出る。


リリアだった。


淡い灰色の、控えめなドレス。首飾りはなく、髪は後ろで一つにまとめられている。両手は、まだ、前で、固く握られていた。


「セシリア様」


「はい、リリア様」


「私、今夜、ミレイユ様に、ご挨拶しました」


声が、震えている。


「自分から、です。席に着く前に、第六卓の前まで、歩いていって。『はじめまして、リリア・ハートウェルです』と」


「そうでしたか」


「手が、震えて。それしか、言えなかったの。でも、ミレイユ様は、『はじめまして』と、返してくださいました。それから、『お手紙のお返事が遅くて、ごめんなさい』と」


リリアは、唇を、噛んだ。


「お茶会は、まだ、先になりそうです。ミレイユ様のお父様が、少し時間をと。……それで、いいのだと、思います」


「ええ。時間は、必要です」


「はい」


リリアの目に、涙が、盛り上がっていく。


私は、息を、止めた。


三か月前なら、ここで、泣き声が上がっていただろう。誰かが、すぐに、折れる。私も、折れていた。


リリアは、一歩、横を向いた。


ドレスの袖口から、小さな布を取り出す。自分の、ハンカチ。それで、目元を、強く、押さえる。


しばらく、肩が、小さく、揺れていた。


やがて、リリアは、顔を、こちらへ戻した。


目は、赤い。頬は、濡れている。


「泣いて、しまいました」


「はい」


「でも、これは、私の涙です。セシリア様に、お返事を、お願いするための涙では、ありません」


「……はい」


「ここで、一人で、拭きます。拭けました」


リリアは、ハンカチを、握りしめる。その手は、もう、震えていない。


私は、何も、足さなかった。


足さなくてよかった、と、思う。


「ハンカチを、お持ちでしたね」


「はい。母に、いつも、二枚、持たされます」


「それで、十分です」


リリアは、小さく、笑った。泣いた後の、不揃いな笑い方だった。


「宿題の、続きは、まだ、あります。明日から、先生は、『誰かに、席を、譲ることと、譲らされることの、違い』と」


「難しい宿題ですね」


「はい。……でも、考えます。自分で」


アルバートが、そっと、リリアの背に、手を伸ばしかけて、止めた。


リリアが、振り返らずに、言う。


「アルバート。私、一人で、馬車まで、歩けます」


「……ああ」


アルバートは、手を、引っ込めた。


その手が、ほんの少し、笑っていた。


「失礼します、ローレン書記」


「お足元に、お気をつけて。馬車は、西の車寄せです」


「はい」


二人は、並んで、扉の外へ、歩き出した。


並んではいても、肩は、触れていない。


距離は、半歩。その半歩が、今夜は、確かに、そこにある。


扉の内側を、ハーゲン侯爵が、ミレイユ嬢を連れて、通りかかった。


淡い緑の礼服の令嬢は、歩きながら、少し離れた場所のリリアの背を、一瞬だけ、見た。それから、私の方へ、小さく、会釈をする。


声は、かけない。かけないことが、あの人の、丁寧さなのだと思う。


私も、黙って、頭を下げた。


車寄せの灯りの下で、クレイン伯爵夫人が、伯爵の腕に、軽く手を添えて、待っていた。私に気づくと、深く、頭を下げる。私も、書記の礼で、返した。


二人の背が、夜の中へ消えるまで、私は、そこに立っていた。


胸の中は、静かだ。


悲しくも、嬉しくも、ない。ただ、重ねていた荷物の一つを、元の持ち主の手に、返せたような。


「ローレン様」


トビアスが、名簿を、胸に抱えて、駆け寄ってきた。


「お話は、終わりましたか」


「ええ」


「あの、僕、何も聞いていません。聞こえない距離に、いました。……ですが、ローレン様の背中は、ずっと、まっすぐでした」


「ありがとう」


「それと」


トビアスは、懐から、一通の封書を、取り出した。


「官房の使いの方が、いま、持ってこられました。ローレン書記ご本人に、と」


受け取る。


薄い、灰青色の封筒。官房の紋章の封蝋。


開く。


『典礼局臨時書記 セシリア・ローレン殿


明朝九時、侍従長官房へ、お越しいただきたい。


用件は、お会いしたとき、述べる。


侍従長官房 ヴァイス』


一行だけ。


私は、その紙を、二度、読んだ。


用件は、書かれていない。局長官の名も、どこにも、ない。


「長官の分は」


「はい。僕も、気になって、お尋ねしました。写しは、ない、とのことでした」


「そう」


「何か、あったのでしょうか。席次表の記録の件でしょうか」


「分からないわ」


正直に、答えた。


「でも、呼ばれたのは、私の名です。行って、聞きます」


背後に、足音が、近づいた。


「ローレン書記」


長官だった。壁際の持ち場から、戻ってきたのだろう。手には、まだ、あの杯が、あった。


私は、封筒を、そのまま、差し出した。


長官は、中の紙を、読む。


目が、ゆっくり、一行を、辿った。


「写しは、私に、ありません」


「はい。トビアスに、聞きました」


「官房が、あなた個人を、名指しで」


長官は、紙を、折り直して、私の手に戻した。


「かばいません」


「はい」


「ただし」


長官の目が、まっすぐに、こちらを向いた。


「あなたの、隣に、立ちます。明朝、官房の前の廊下までは、必ず」


「まだ、何も、言っていませんが」


「言われる前から、決めています」


その言い方が、少しだけ、拗ねた子供のようで、思わず、笑ってしまった。


長官の口の端も、ほんの少し、持ち上がる。


「零時まで、あと、二時間半です。帰りましょう。持ち帰りは、ゼロのまま」


「はい」


歩き出す前に、長官が、一つだけ、付け加えた。


「ヴァイス伯爵は、情を入れない人です。悪い話なら、まず、局の長を呼ぶ。名指しで呼ぶのは、あなたの仕事について、あなたに、直接、話したいことがある場合が多い」


「多い、のですか」


「推測です。……ですが、伯爵の字は、昨日より、柔らかかった」


「字を、見るのですね」


「あなたに、教わりました」


局へ戻る道は、昼間の人いきれが引いて、石畳が、冷たく光っていた。


歩きながら、封筒の角を、指でなぞる。


官房が、私に、何を求めるのか。席次表の記録のことなのか、別の話なのか。分からない。


分からないことを、分からないと、認めたまま、立てるようになった。それは、三か月前の私には、できなかったことだ。


リリアの宿題の問いが、もう一度、胸の中で鳴る。誰かに選ばれる席ではなく、私は、どこに座りたいのだろう。


明朝、九時。


私は、封筒を、懐へ、しまった。答えを出す朝が、官房の扉の前から、始まる。

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