戸口の席
主菜が下げられ、広間の声が、少しずつ、ほぐれていった。
壁際から見る晩餐は、不思議なほど、よく見える。
皿を運ぶ給仕の列。笑い合う卓。杯を傾ける老人たち。
第三卓では、モーリス侯爵とヴェルナー夫人が、並んで、何かを食べながら、ゆっくり話している。侯爵の外套の裾は、もう握られていない。
「ローレン書記」
マルタが、足音もなく、隣に来た。手には、水の入った杯。
「あなたの分です。立ちづめでしょう」
「ありがとうございます。……ベル書記官は、お声は」
「喉が、少し、痛みます」
マルタは、眼鏡の奥で、わずかに目を細めた。
「二十二年、記録を取る側にいて、声を出したのは、今夜が初めてです。悪い仕事では、ありませんでした」
「見事でした」
「記録には、残りません」
「ええ。ですが、広間の三百六十人が、聞いています」
「それで、足ります」
マルタは、そう言って、自分の持ち場へ戻っていった。背筋の線は、いつもと同じだった。同じに見えて、どこか、軽い。
入れ替わるように、第一卓から、ヴァイス伯爵が、ゆっくり、壁沿いに歩いてきた。
細い体を、硬い背筋で支えた、あの人だ。
「ローレン書記」
「はい、伯爵」
「乾杯の流れは、予定より、半拍、遅れた。だが、広間は、乱れなかった」
「恐れ入ります」
「記録には、『局の提案どおり、滞りなく』と書く。それ以上は、書かない」
伯爵は、それだけ言うと、返事も待たずに、背を向けた。
去り際、ほんの少し、肩の力が、抜けているように、見えた。
名前の載らない記録に、私の仕事が、確かに、残る。
それで、よいと、改めて、思った。
第十四卓にも、目をやる。
クレイン伯爵夫人が、小さく切った肉を、ゆっくり、口に運んでいる。顔色が、昼の頃よりも、よく見えた。伯爵は、その手元を、さりげなく、見守っている。
アルバートは、リリアの皿に、パンを、一切れ、取り分けていた。リリアが、「自分で、取れます」と、口の動きだけで、言う。アルバートは、少し困った顔で、手を引っ込める。
小さな、けれど、確かな、向きの変化。
それを、私は、遠くから、ただ、眺めていた。口を出す立場には、ない。出さない席に立っていることが、今夜は、ありがたい。
東の端では、バルテン伯爵が、公に、何かを話している。杖を、卓の脚に、立てかけて、身振りを交えながら。公が、声を出して、笑った。
戸口に近い席は、思っていたより、よく、人の話が弾む席らしい。
八時を回った頃、東の端で、人が、動いた。
濃い青の外套が、卓から、ゆっくりと、立ち上がる。
隣のバルテン伯爵が、杖の先で、軽く床を叩いた。行ってこい、と言うような、短い音。
公は、広間の中央を、通らなかった。
東の壁に沿って、給仕の邪魔にならないように、壁際の細い通路を、まっすぐ、こちらへ向かって歩いてくる。
三百六十人の目が、追っている。それでも、足取りは、ひどく静かだった。
「ローレン書記」
目の前で、公が止まる。手に、小さな杯が二つ。
「お時間を、いただきに参りました」
「団長殿。お席を、離れてよろしいのですか」
「一曲ほどの間なら、と、バルテン伯爵が。……長官殿も、ご一緒に」
長官が、半歩、前に出て、深く、礼をした。
「ハインリヒ公。典礼局長官、レオンハルト・グレイヴスです」
「存じています。お父君と、同じ立ち方をなさる」
長官の肩が、ほんの少し、動いた。
公は、杯の一つを、私に、もう一つを、長官に、差し出した。
「ザルツの薄い果実酒です。酔いません。戸口の席に着く者は、壁際に立つ者へ、杯を渡す。古い、習わしです」
「それは、本当の古式ですか」
「半分は」
公は、小さく、笑う。
「残りの半分は、私が、いま、作りました」
差し出された杯を、私は、両手で受け取る。
甘酸っぱい香りが、鼻の奥を通る。
「席札の裏の話を、いたします」
公が、声を落とした。
「お見せはしません。ですが、書いた一行は、お伝えしたいのです。あなたが、あの朝、扉の隅で、何も尋ねずに、立っていてくださったから」
「承知しました」
「『二十年前の私へ。この席に、座っていい』」
広間の音が、遠くなる。
「席に着いたとき、読みました。読んだら、座れました。……あの夜、座らせてもらえなかった席に、二十年かけて、歩いて、座ったのです」
公は、杯を、掌で、包んだ。
「一口、食べました。味が、しました。ずっと、味がしないままだと、思っていたのですが」
「……よかったです」
それしか、言えなかった。
けれど、それで、足りている気がした。
「私が聞いたのは、昨日、図の上に、あなたの名が、なかったことです。『局の提案』と記録されると」
「結構です、とお答えしました」
「名は、残らなくても、席は、残ります」
公は、まっすぐに、私を見た。
「あの図の上には、私の席が、ありました。席次表の作成者が、そう描いたのです。覚えておきます」
そこで、公は、長官の方へ、向き直った。
「長官殿。お父君のことを、一つだけ」
「伺います」
「二十年前の晩、末の席へ向かう私の肩に、一つの手が、置かれました。強くはなく、押すでもなく、ただ、置かれただけの手でした」
長官の指先が、杯の縁で、動かなくなる。
「あれが、ルドルフ殿の手でした。あの手がなければ、私は、あの夜、広間を出ていたでしょう」
「……父は、何も、話しませんでした」
「そうでしょう。話さない方です。ただ、置く」
公は、小さく、頷いた。
「あなたの手も、同じ形をしています。さきほど、杯を、受け取るときに」
長官は、しばらく、黙っていた。
それから、杯を、胸の高さまで、上げた。
「ありがとうございます。……父の手のことを、初めて、他人の口から、聞きました」
その声は、少しだけ、掠れている。
私は、聞こえなかった顔をして、杯を、見つめていた。
「さて」
公が、私の方を向く。
「お預かりしていた問いを、お返しします」
「はい」
「あなたの席は、どこにありますか」
あの日、待合の間の扉の前で、同じ言葉を、聞いた。
私は、「ありません。まだ」と、答えた。
いま、壁際から見える広間は、あのときよりも、ずっと、広い。
私は、杯を、持ち直した。
「今夜の席は、ここです。壁際。誰の席も、ない場所ですが、ここからは、全ての席が、見えます。それは、悪くない席でした」
「ええ」
「ですが、これからの席は、まだ、決めておりません」
声は、震えなかった。
「決めるのは、明日の朝です。誰かに、勧められたからでも、選ばれたからでもなく。私が、何をしたいかで、決めます」
公は、ゆっくり、頷いた。
「それが、聞けて、よかった」
「団長殿は、ご提案は、なさらないのですか」
私は、思わず、尋ねていた。
公の口元が、緩む。
「しません。ザルツにも、席は、あります。ですが、それを選ぶかどうかは、あなたが、決めるときに、あなたの中で、決めることです。私が口にすれば、あなたの席の話が、私の席の話になってしまう」
「……はい」
「ただ、一つだけ」
公は、杯を、掲げた。
「どこへ行かれても、戸口に近い席が、一つあるといい。背中を守る側に回った人は、自分の背中を、誰かに、見てもらえる席が、要ります」
私の隣で、長官が、息を、吸った。
私は、長官の横顔を、見なかった。
見なくても、そこに、いることが、分かっていたから。
「どの席に座る者も」
公が、短く、言う。
私と、長官は、同時に、答えた。
「互いの顔が、見えますように」
三つの杯が、小さく、鳴る。
果実酒は、薄くて、甘酸っぱく、ほんの少し、塩の味がする。
公は、杯を飲み干すと、一礼して、また、壁際の細い通路を、東へ、戻っていった。
その背中に、バルテン伯爵が、卓から、軽く、手を挙げる。
二人きりの壁際で、長官が、杯を、見下ろしている。
「ローレン書記」
「はい」
「父は、本当に、私のような、立ち方を」
「はい。肩の線が、同じです。今夜、団長殿の隣に立つ長官を、私は、そう思って、見ていました」
「……そうですか」
長官が、短く、息を吐く。
「父は、倒れました。ですが、置いた手は、残っていた。そう、聞こえました」
「はい。そう、聞こえました」
答えながら、肩の奥で、固いものが、ほどけていく。
倒れた人の、あとに残るもの。それは、仕事の山だけでは、ない。
九時前。広間に、閉会の笛が、一つ、鳴り響いた。
給仕たちが、卓を回って、客を、扉へと、送り出し始める。
「ローレン書記」
隣で、長官が、静かに、言った。
「今夜の持ち帰りは、ゼロです」
「記録に、書いておきます」
「ええ。……零時までは、まだ、三時間ある」
その口調は、少しだけ、誇らしげだった。
私は、杯の底を、見た。
甘い酒の、最後の一滴が、燈の光を、拾って、揺れる。
明日の朝、私は、答えを出す。
誰かの隣でも、誰かの望む場所でもなく。自分の足で、立つ場所を。
その席が、どんな形をしているのか、まだ、見えない。見えないままでも、決めると、決めている。
西の大扉の前に、立った。
客の流れが、少しずつ、薄くなる。
トビアスが、名簿を、閉じた。
「ローレン様。第十四卓の方々が」
顔を上げる。
人の流れの端に、紺の上着の青年が、立っていた。
「ローレン書記」
アルバートだった。
「一分だけ、よろしいでしょうか」
その後ろには、淡い灰色のドレスの少女が、半歩、離れて、立っている。
手には、何も持っていない。両手を、前で、固く、握っている。
私は、名簿を、トビアスに、預けた。
「どうぞ。ただし、ここは、局の入口です。お話は、扉の脇で、よろしいですか」
「はい」
アルバートが、深く、息を吸う音が、聞こえた。




