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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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旗を、合図に

第一卓の脇、太い石柱の陰に、長官が立っていた。


その隣に、ハイム典礼官。白い髭の上の顔が、いつもよりずっと蒼い。


「ローレン書記」


長官の声は、短く、低かった。


「典礼官の声が、戻りません。午後の試しで、無理を重ねたのだと思います。乾杯まで、あと九分」


典礼官が、小さな紙に素早く書きつける。


『申シ訳ナイ。復唱ヲ、代ワッテ頂ケル方ヲ』


字が、震えていた。


「謝らないでください」


私は、典礼官の目を、まっすぐに見た。


「昨日から、話し通しでいらしたのです。局の仕事が、典礼官の喉に頼りすぎていました。責められるべきは、頼った側です」


典礼官の目が、わずかに潤む。


「長官」


向き直る。


「判断をさせてください。結果は、後でお伝えします」


「約束でしたね。どうぞ」


長官は、一歩、下がった。


その一歩が、ひどく重く、そして有難い。


私は石柱に背を預け、目を閉じた。


九分。いや、もう八分半しかない。


復唱の条件を、頭の中に並べる。


一つ。二行を、正確に知っていること。


二つ。第一卓の傍から、三百六十人に、はっきり届く声であること。


三つ。ザルツにもヴェルデンにも、肩入れしているように見えないこと。


四つ。いま、この広間にいること。


最初に浮かんだのは、長官の顔だった。


ルドルフ殿の息子が、ザルツの長の言葉を復唱する。声は通るし、二行も知っている。


けれど、すぐに打ち消した。


長官が読めば、局がザルツの長の言葉を代弁する形になる。ましてや、二十年前に倒れた人の息子の声だ。聞く者は、あの夜と結びつけてしまう。今夜は公の夜であって、誰かの物語の夜ではない。


次に、トビアス。


声は通る。けれど、さっき、呼名の前に、手が震えていた。あの若さに、この役は重い。


私自身の名も、一瞬、頭をよぎる。


それも、すぐに退けた。席次表の作成者の声は、今夜の広間で、聞かれてはならない。


目を開ける。


「ベル書記官は」


広間の後方を、振り返る。


マルタは、石柱の少し後ろに控えていた。昼の試しのときも、同じ場所で、二行を聞いていた人だ。


私は、歩み寄った。


「ベル書記官。お願いがあります」


「聞きましょう」


「団長殿の返礼の復唱を、第一卓の傍で、お願いします」


マルタの眉が、動く。


「私が、ですか」


「はい」


「私は、声を出す仕事をしたことがありません。記録を取る側の人間です」


「存じています。それでも、全ての条件に当てはまるのは、ベル書記官しかいません」


指を折って、数える。


「二行は、昼の試しで聞いておられます。声は、広間の端まで通る。どちらの側にも属さない、局の書記官。そして、いまこの広間にいます」


「……他には」


「二十年前の晩餐の記録を、守ってこられました」


マルタは、黙った。


「今夜、団長殿は、二十年前の席に、座り直しておられます。その言葉を声にするのは、あの夜の記録を守ってきた人がふさわしいと、考えました」


「ローレン書記」


マルタの声が、低くなる。


「それは、私情です」


「いいえ」


はっきりと、私は答える。


「条件から選びました。条件に最後まで残ったのが、ベル書記官でした。私情が混じっていたとしても、条件の方が先です」


沈黙。


マルタは、しばらく私の目を見ていた。それから、典礼官の方へ視線を移す。


ハイム典礼官は、紙に一行書いて、掲げた。


『適任。喜ンデ、託ス』


マルタが、息を、ゆっくり吐く。


「……読むのは、団長殿の言葉です。私の言葉では、ありません」


「はい」


「それなら、できます」


眼鏡の位置を、指先で直す。


「二行を、見せなさい」


典礼官が、懐から公の返礼の紙を出す。


マルタは、それを三度、黙って読んだ。唇が、小さく動いている。


「覚えました。ただ、一つ、問題があります」


「合図ですね」


「ええ。団長殿の席は、東の端。声は、ここまで届きません。私は、いつ読み始めればよいのです」


そこは、私も考えていた。


「声ではなく、旗を見てください」


私は、高台の方を、指した。


「団長殿が、二行を述べ終えて杯を下ろしたら、旗の係が、白い旗を振ります。笛の音は、天井で反響して、遅れて届きます。けれど、旗は、遅れません。旗が上がったら、読み始めてください」


「旗を、合図に」


「はい。いまから、係に伝えます」


「急ぎなさい。私は、紙を、もう一度読みます」


高台の係には、トビアスを走らせた。階段を駆け上がる背中が、昼の試しのときより、ずっと確かだった。


戻ってきたトビアスが、息を切らして、頷く。


「伝わりました。杯が下りたら、旗、と」


「ありがとう」


戻る途中で、マルタが、低く問う。


「読む速さは」


「団長殿の速さで。一行目と二行目の間に、一拍。昼の試しで、典礼官が、そうされていました」


「一拍。記録の間合いと、同じですね」


マルタは、頷いて、柱の前へ歩いていった。足取りに、迷いがない。


ハイム典礼官が、その背を、見送っている。喉元に、そっと、手を当てて。


そのとき、長官が、隣で口を開いた。


「ローレン書記」


「はい」


「結果を、聞く必要は、ありませんでしたね」


「まだ、終わっていません」


「ええ。終わるのを、見ています」


七時の鐘が、鳴り始めた。


広間が、静まる。


第一卓から、ヴァイス伯爵が、立ち上がった。


「建国祭のこの夜に、ザルツ大公国使節団の皆様を、お迎えできたことを、王国は、喜びとします」


挨拶は、短い。最後に、伯爵が、杯を掲げる。


「全ての卓の、全ての席に」


笛が、鳴った。東の扉の脇で、奏者が、息を吹き込む。一拍遅れて、高台の旗が、振り上げられる。


三百六十人が、杯を掲げた。


「乾杯」


声が、広間に揺れる。


続いて、東の端で、濃い青の外套が、立ち上がった。


ハインリヒ公。


広間が、再び、静まる。


「この円卓に、私の席を、いただいたことに、感謝します」


声は、近くの卓にしか届かない。中ほどから先は、天井に吸われて、薄れていく。


「どの席に座る者も、互いの顔が、見えますように」


公が、杯を、下ろす。


高台の旗が、上がった。


ここからが、私たちの番だ。


第一卓の右手、柱の前に、一人の人影が立っている。燈の光を背に、紙も持たず、胸を張って。


マルタだった。


「この円卓に」


声が、広間に、通った。


低くて、よく響く、女の声だった。


「私の席を、いただいたことに、感謝します」


三百人の客が、息を止めている。


「どの席に座る者も」


マルタの声が、一度だけ、わずかに揺れた。


「互いの顔が、見えますように」


最後の一語が、広間の天井へ、ゆっくり昇っていく。


誰も、動かない。


次の瞬間、第三卓で、一人の老人が、立ち上がった。


モーリス侯爵だった。杖もなく、背筋を、まっすぐに伸ばして、杯を、東の端へ向けて掲げる。


隣のヴェルナー夫人が、続いた。


その動きが、波のように、卓から卓へ、広がっていく。


三百六十の杯が、東の端に向かって、掲げられた。


公は、立ったまま、その光景を見渡している。


それから、第一卓の傍の、小さな人影へ、頭を下げた。


マルタが、深く礼を返す。


遠く離れた二人の、短い礼だった。


壁際で、私は、握りしめていた手を、ほどいた。掌に、爪の跡が、残っている。


南の通路から、給仕たちが、温かい皿を運び始めた。


公の前にも、一皿。


公は、少し迷って、それから、匙を取る。


一口。私は、息を止めて、見ていた。


二口、三口。


隣のバルテン伯爵が、何か言う。公の口元が、ふっと緩んだ。


第十四卓にも、目をやる。


アルバートが、こちらを、見ていた。目が合うと、彼は、小さく、会釈をする。それだけで、すぐ、視線を卓に戻した。


その隣で、リリアが、杯を持ち上げている。両手で、慎重に。零さないように、懸命に。


誰も、私に、何も求めない。


それが、今夜は、何よりの、返事だった。


「ローレン書記」


隣に、長官が、立っていた。


「結果を、お聞きします」


「復唱は、成功しました。ベル書記官に、務めていただきました」


「選んだ理由を」


「条件が四つあり、全てを満たしたのが、ベル書記官でした。長官は、局が、ザルツの言葉を代弁する形になりますので、外しました」


「……私のことも、考えましたか」


「はい。考えて、外しました」


長官は、目を瞬いた。


「それは、正しい。私が読めば、今夜の言葉は、公のものでなく、私の物語になっていた」


「そう思いました」


「あなたの判断は、全て、正しい」


そう言って、長官は、私の隣の、壁に、そっと背を預けた。


広間の隅。誰の席も、ない場所。


「私にも、席は、ありません。局の長官の持ち場は、壁際ですから」


「同じ場所ですね」


「ええ。隣に立つ、と言いました」


私は、懐に、手を入れた。


昼間に、ブラント夫人が、持たせてくれた、丸いパン。


半分に割って、片方を、長官の手に、そっと押しつける。


「壁際でも、食べなさい、だそうです」


長官は、掌のパンを、しばらく、見下ろした。


「……あなたの、大家さんは、局の規則より、強い」


「はい。ずっと、強いです」


二人で、小さく、笑った。


長官が、パンを、一口かじる。昼食を、取り損ねた人の、慎重な、食べ方だった。


私は、何も言えなかった。


背中に、石の冷たさがある。肩の横には、確かな人の温度がある。


そのとき、東の側から、一人の若者が、人の間を縫って、近づいてきた。


青い外套。ザルツの従者、トマス・リンデだった。


「ローレン書記殿」


小声で、告げる。


「団長からの、言付けです。食事の後、少しだけ、お時間を、と」


「承知しました。どちらへ伺えばよいでしょう」


「いえ。団長が、こちらへ、参ります」


私は、思わず、長官の顔を見た。


長官は、表情を変えずに、頷いた。


「私は、ここで、立っています」


広間では、三百六十人の食事が、続いている。


どの卓も、どの席も、互いの顔が、見えていた。

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