私の席に、座りたい
黒い車体の馬車が、西の大扉の前で、ゆっくりと、止まった。
御者が、扉を開ける。
最初に、クレイン伯爵が、降りてきた。濃い藍色の礼装。白髪まじりの髪は、きれいに撫でつけられている。目元が、アルバートに、よく似ていた。
次に、伯爵夫人。
葡萄色の、長い裾の礼服。顔色は、まだ少し、白い。けれど、背筋は、まっすぐに、伸びている。
その後ろから、アルバートが、降りてきた。
身にまとうのは、あの淡い水色の上着ではない。夜の色の、黒に近い、紺だった。
私は、名簿を、胸の前に抱え直した。
「クレイン伯爵ご夫妻、ご子息様ですね。お待ち申し上げておりました。第十四卓へ、ご案内いたします」
声は、思ったより、落ち着いて、出た。
伯爵が、短く、頷く。
「世話になる」
「こちらが、お席札です。お席は、中ほどの、窓寄りです」
夫人が、一歩、前に出た。
「ローレン書記」
「はい、伯爵夫人」
「今夜の晩餐を、整えてくださった典礼局の皆様に、感謝申し上げます。……私は、あなたの字を、思い出しながら、礼状を書いておりました。今夜は、整えられた席に、座れることを、光栄に思います」
胸が、小さく、鳴った。
けれど、顔には、出さなかった。
「恐れ入ります。どうぞ、ごゆっくり」
夫人は、ほんの少し、微笑んだ。
それだけで、十分だった。
その、後ろに、アルバートが、立っている。
私と、目が合った。
「……ローレン書記」
「はい、クレイン様」
「第十四卓は、官房の割り振りのまま、変更なしと、聞いています」
「そのとおりです」
「あなたは、動かさなかった」
私は、一拍、置いた。
「席次表の作成者は、官房の割り振りに、従います」
「はい。……ありがとう、ございました」
アルバートは、深く、頭を下げた。
「僕の席を、僕の足で、歩かせてくださって。誰かに、動かしてもらえる立場では、ありません」
私は、何も、返さなかった。
返してはならない、と思った。ただ、事実の、一礼だけを、返す。
「ご案内は、トビアスが、いたします」
アルバートが、顔を、上げた。
その目は、少し、赤い。けれど、まっすぐ、私を見ていた。
「失礼します」
彼は、両親の後を、追った。
次の馬車は、ハーゲン侯爵家のものだった。
降りてきた侯爵は、背の高い、物静かな人。その隣に、淡い緑の礼服の令嬢が、立つ。ミレイユ嬢だった。
「ハーゲン侯爵、ミレイユ様。第六卓へ、ご案内いたします」
令嬢は、私の前で、小さく、会釈をした。
「ローレン書記。今夜は、どの卓も、官房の割り振りだと、伺っています」
「はい」
「それが、いちばん、安心です」
それだけ言って、令嬢は、父君の腕を取り、歩いていった。
声は、穏やかだった。何も、知らないのではない。知っていて、何も、尋ねない人の声だった。
続いて、近づいてくる馬車は、ハートウェル伯爵家の、紋章を付けていた。
伯爵が、降りる。続いて、伯爵夫人。そして、最後に、一人の少女が、降りてきた。
淡い灰色の、控えめなドレス。首飾りは、ない。髪は、後ろで、一つに、まとめられていた。
リリアだった。
「ハートウェル伯爵ご夫妻、リリア様。お待ち申し上げておりました」
「ご苦労」
伯爵が、短く、答える。夫人が、笑顔で、会釈を返す。
伯爵夫人が、通り過ぎざまに、私に、小さく、頭を下げた。
リリアが、私の前で、足を、止めた。
「セシリア様」
「はい」
私は、声を、落とさずに、言った。
公の場で、名を呼ばれた以上、局の書記として、答える。
リリアは、一度、唇を、噛んだ。
それから、顔を、上げた。
「お願いは、ありません。……ただ、お伝えしたくて」
「何でしょう」
「私、宿題に、答えが、出ました」
私は、息を、呑んだ。
「どこに座りたいか。答えは」
リリアは、小さく、息を吸った。
「誰かの、隣ではなく。私の席に、座りたい。第十四卓の、私の席です。自分の足で、歩いていって」
その声は、震えていた。けれど、はっきり、聞き取れた。
「……お席は、八番です」
私は、静かに、言った。
「お足元に、お気をつけて」
リリアは、ほんの少し、目を、見開いた。
それから、小さく、頷く。
「はい」
そう答えて、彼女は、両親の後ろに、続いた。
背中は、思っていたより、まっすぐだった。
「ローレン様」
トビアスが、小声で、言った。
「今のは、ハートウェル様の、お嬢様ですね」
「ええ」
「ローレン様は、あの方と」
「トビアス。名簿を、次の頁へ」
「……はい」
私は、名簿を、繰った。
指が、少し、震えている。
そんな私に、気づいたのか、トビアスは、それ以上、何も言わなかった。
「ローレン様」
トビアスが、背後から、囁いた。
「さっきの、クレイン様の、お言葉は」
「聞こえた?」
「はい。……でも、僕には、何も、聞こえなかったことに、します」
「ありがとう。それが、いちばん、助かります」
トビアスは、神妙に、頷いた。見習いの顔つきが、一人の書記のものに、少しずつ、近づいている。三か月前の、あの、おろおろとした若者とは、もう、違う。
そのことは、本人には、まだ、言わないでおく。
六時二十分。
ヴェルデンの客の入場が、全て、終わった。
広間の中で、三百十六人が、着席している。
広間の端には、東の大扉。その扉は、金の縁取りの布で、覆われている。
「ローレン書記」
長官が、静かに、隣に立った。
「ザルツの入場です。合図を」
「はい」
私は、高台の旗の係に、目で、合図を送った。
東の扉の脇で、笛の奏者が、息を、吸い込む。
笛が、鳴った。
一拍、遅れて、白い旗が、振り上げられる。
広間が、静まり返った。
東の大扉が、ゆっくりと、開かれる。
布が、左右へ、割れた。
「第一位、リーゼロッテ・アイヒ殿。母は、第二柱」
呼名の声が、広間に、通っていく。
ザルツの一行が、一人ずつ、入ってきた。
七柱の序のとおり。柱の番号の小さい者から。同じ柱の中では、年長の者から。
トマス・リンデ、十九歳の馬丁。ヨーゼフ・ブレンナー、二十二歳の従者。最後尾の近くに、第七柱の、若い者たちが、続く。
彼らは、それぞれの卓に、案内されていった。
第三卓では、モーリス侯爵が、右隣に着いた、白髪の婦人に、深く、会釈をするのが、見えた。クララ・ヴェルナー夫人、六十一歳。夫人が、穏やかに、微笑み返す。侯爵の肩から、力が、抜けていくのが、遠目にも、分かった。
二十年前、同じ席の並びで、起きたこと。今夜は、まるで、別の夜だ。
そして。
「団長、ハインリヒ・フォン・ザルツ殿」
最後の名が、呼ばれた。
東の扉の向こうから、濃い青の外套が、現れる。
公は、扉の敷居で、一度、立ち止まった。
三百六十の視線の前で、広間に向かって、深く、礼をする。ゆっくりと、顔を上げ、一人で、広間に、入ってきた。
その足が、広間の端の、第二十四卓へ、向かう。
広間が、ざわめいた。
「あれは、団長殿では」
「どちらへ」
「まさか、あの端の卓に」
私は、壁際で、背筋を、伸ばしていた。
東の扉の斜め前。マルタが選んだ、持ち場だ。第二十四卓も、第一卓も、見える位置。背に当たる石の壁は、冷たい。私の席は、どこにも、ない。それでも、ここからは、広間の全てが、見えた。
公は、卓の前で、足を止めた。
バルテン伯爵が、杖を突いて、椅子から、わずかに、腰を浮かせる。
「団長殿。お隣を、お務めします、ヘルマン・バルテンです」
「バルテン伯爵。お会いできて、光栄です」
「お掛けください。戸口に近い席が、一行の長の、お席だと、伺っています」
伯爵の声は、思ったより、よく通った。
近くの卓の客たちが、振り向く。
「ザルツの古い宴では、一行の長は、戸口に、最も近い席に着く。全員の背中を、守る位置だ。ご存じなかったか」
近くの卓から、小さな囁きが、聞こえた。
「なるほど。古式、か」
「だから、あの席なのか」
「冷遇では、なかったのですね」
囁きは、波のように、広がった。
第四卓の、ベルナール伯爵夫人が、隣の客に、小声で、何かを、教えている。その唇の形は、「古式」と、読めた。
私が、人に、頼んだのではない。誰かが、その卓で、事実を、ひとこと、口にした。それだけで、噂は、正しい形に、整っていく。
私は、壁際で、小さく、息を、吐いた。
公が、席に、腰を下ろす。
卓の上の、席札が、目に入った。
公は、その札を、そっと、手に取った。
裏を、見る。
その、指先が、ほんの一瞬、止まった。
目を、閉じる。
ほんの、短い時間。
やがて、公は、札を、元の位置に、戻す。
その表情は、ひどく、静かだった。
「ローレン書記」
不意に、背後から、声がした。
振り向くと、マルタが、立っていた。
顔が、強張っている。
「ベル書記官」
「ハイム典礼官の、声が」
「声が」
「出ません」
私は、息を、止めた。
「午後から、喉が、悪化して。先ほど、薬湯を、飲んでいただいたのですが。……いま、第一卓の近くに、立っておられます。ですが、話そうとすると、息が、漏れるだけで」
壁の、時計を、見た。
六時五十分。
乾杯まで、あと、十分。
返礼の復唱は、ハイム典礼官の、役目だった。
二行を、第一卓の近くで、はっきりと。
「長官は」
「いま、典礼官のもとへ。ローレン書記を、呼んでくるようにと」
私は、壁から、離れた。
広間の中央を、横切る。
三百六十人の目が、一瞬、私を、掠めた。
その、全てが、背中に、刺さる。
けれど、足は、止まらなかった。
南の通路では、給仕たちが、盆を掲げて、行き交っている。流れは、予定どおり、滞りがない。それだけが、いまの、救いだった。第一卓の近くで、長官が、待っている。




