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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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38/50

私の席に、座りたい

黒い車体の馬車が、西の大扉の前で、ゆっくりと、止まった。


御者が、扉を開ける。


最初に、クレイン伯爵が、降りてきた。濃い藍色の礼装。白髪まじりの髪は、きれいに撫でつけられている。目元が、アルバートに、よく似ていた。


次に、伯爵夫人。


葡萄色の、長い裾の礼服。顔色は、まだ少し、白い。けれど、背筋は、まっすぐに、伸びている。


その後ろから、アルバートが、降りてきた。


身にまとうのは、あの淡い水色の上着ではない。夜の色の、黒に近い、紺だった。


私は、名簿を、胸の前に抱え直した。


「クレイン伯爵ご夫妻、ご子息様ですね。お待ち申し上げておりました。第十四卓へ、ご案内いたします」


声は、思ったより、落ち着いて、出た。


伯爵が、短く、頷く。


「世話になる」


「こちらが、お席札です。お席は、中ほどの、窓寄りです」


夫人が、一歩、前に出た。


「ローレン書記」


「はい、伯爵夫人」


「今夜の晩餐を、整えてくださった典礼局の皆様に、感謝申し上げます。……私は、あなたの字を、思い出しながら、礼状を書いておりました。今夜は、整えられた席に、座れることを、光栄に思います」


胸が、小さく、鳴った。


けれど、顔には、出さなかった。


「恐れ入ります。どうぞ、ごゆっくり」


夫人は、ほんの少し、微笑んだ。


それだけで、十分だった。


その、後ろに、アルバートが、立っている。


私と、目が合った。


「……ローレン書記」


「はい、クレイン様」


「第十四卓は、官房の割り振りのまま、変更なしと、聞いています」


「そのとおりです」


「あなたは、動かさなかった」


私は、一拍、置いた。


「席次表の作成者は、官房の割り振りに、従います」


「はい。……ありがとう、ございました」


アルバートは、深く、頭を下げた。


「僕の席を、僕の足で、歩かせてくださって。誰かに、動かしてもらえる立場では、ありません」


私は、何も、返さなかった。


返してはならない、と思った。ただ、事実の、一礼だけを、返す。


「ご案内は、トビアスが、いたします」


アルバートが、顔を、上げた。


その目は、少し、赤い。けれど、まっすぐ、私を見ていた。


「失礼します」


彼は、両親の後を、追った。


次の馬車は、ハーゲン侯爵家のものだった。


降りてきた侯爵は、背の高い、物静かな人。その隣に、淡い緑の礼服の令嬢が、立つ。ミレイユ嬢だった。


「ハーゲン侯爵、ミレイユ様。第六卓へ、ご案内いたします」


令嬢は、私の前で、小さく、会釈をした。


「ローレン書記。今夜は、どの卓も、官房の割り振りだと、伺っています」


「はい」


「それが、いちばん、安心です」


それだけ言って、令嬢は、父君の腕を取り、歩いていった。


声は、穏やかだった。何も、知らないのではない。知っていて、何も、尋ねない人の声だった。


続いて、近づいてくる馬車は、ハートウェル伯爵家の、紋章を付けていた。


伯爵が、降りる。続いて、伯爵夫人。そして、最後に、一人の少女が、降りてきた。


淡い灰色の、控えめなドレス。首飾りは、ない。髪は、後ろで、一つに、まとめられていた。


リリアだった。


「ハートウェル伯爵ご夫妻、リリア様。お待ち申し上げておりました」


「ご苦労」


伯爵が、短く、答える。夫人が、笑顔で、会釈を返す。


伯爵夫人が、通り過ぎざまに、私に、小さく、頭を下げた。


リリアが、私の前で、足を、止めた。


「セシリア様」


「はい」


私は、声を、落とさずに、言った。


公の場で、名を呼ばれた以上、局の書記として、答える。


リリアは、一度、唇を、噛んだ。


それから、顔を、上げた。


「お願いは、ありません。……ただ、お伝えしたくて」


「何でしょう」


「私、宿題に、答えが、出ました」


私は、息を、呑んだ。


「どこに座りたいか。答えは」


リリアは、小さく、息を吸った。


「誰かの、隣ではなく。私の席に、座りたい。第十四卓の、私の席です。自分の足で、歩いていって」


その声は、震えていた。けれど、はっきり、聞き取れた。


「……お席は、八番です」


私は、静かに、言った。


「お足元に、お気をつけて」


リリアは、ほんの少し、目を、見開いた。


それから、小さく、頷く。


「はい」


そう答えて、彼女は、両親の後ろに、続いた。


背中は、思っていたより、まっすぐだった。


「ローレン様」


トビアスが、小声で、言った。


「今のは、ハートウェル様の、お嬢様ですね」


「ええ」


「ローレン様は、あの方と」


「トビアス。名簿を、次の頁へ」


「……はい」


私は、名簿を、繰った。


指が、少し、震えている。


そんな私に、気づいたのか、トビアスは、それ以上、何も言わなかった。


「ローレン様」


トビアスが、背後から、囁いた。


「さっきの、クレイン様の、お言葉は」


「聞こえた?」


「はい。……でも、僕には、何も、聞こえなかったことに、します」


「ありがとう。それが、いちばん、助かります」


トビアスは、神妙に、頷いた。見習いの顔つきが、一人の書記のものに、少しずつ、近づいている。三か月前の、あの、おろおろとした若者とは、もう、違う。


そのことは、本人には、まだ、言わないでおく。


六時二十分。


ヴェルデンの客の入場が、全て、終わった。


広間の中で、三百十六人が、着席している。


広間の端には、東の大扉。その扉は、金の縁取りの布で、覆われている。


「ローレン書記」


長官が、静かに、隣に立った。


「ザルツの入場です。合図を」


「はい」


私は、高台の旗の係に、目で、合図を送った。


東の扉の脇で、笛の奏者が、息を、吸い込む。


笛が、鳴った。


一拍、遅れて、白い旗が、振り上げられる。


広間が、静まり返った。


東の大扉が、ゆっくりと、開かれる。


布が、左右へ、割れた。


「第一位、リーゼロッテ・アイヒ殿。母は、第二柱」


呼名の声が、広間に、通っていく。


ザルツの一行が、一人ずつ、入ってきた。


七柱の序のとおり。柱の番号の小さい者から。同じ柱の中では、年長の者から。


トマス・リンデ、十九歳の馬丁。ヨーゼフ・ブレンナー、二十二歳の従者。最後尾の近くに、第七柱の、若い者たちが、続く。


彼らは、それぞれの卓に、案内されていった。


第三卓では、モーリス侯爵が、右隣に着いた、白髪の婦人に、深く、会釈をするのが、見えた。クララ・ヴェルナー夫人、六十一歳。夫人が、穏やかに、微笑み返す。侯爵の肩から、力が、抜けていくのが、遠目にも、分かった。


二十年前、同じ席の並びで、起きたこと。今夜は、まるで、別の夜だ。


そして。


「団長、ハインリヒ・フォン・ザルツ殿」


最後の名が、呼ばれた。


東の扉の向こうから、濃い青の外套が、現れる。


公は、扉の敷居で、一度、立ち止まった。


三百六十の視線の前で、広間に向かって、深く、礼をする。ゆっくりと、顔を上げ、一人で、広間に、入ってきた。


その足が、広間の端の、第二十四卓へ、向かう。


広間が、ざわめいた。


「あれは、団長殿では」


「どちらへ」


「まさか、あの端の卓に」


私は、壁際で、背筋を、伸ばしていた。


東の扉の斜め前。マルタが選んだ、持ち場だ。第二十四卓も、第一卓も、見える位置。背に当たる石の壁は、冷たい。私の席は、どこにも、ない。それでも、ここからは、広間の全てが、見えた。


公は、卓の前で、足を止めた。


バルテン伯爵が、杖を突いて、椅子から、わずかに、腰を浮かせる。


「団長殿。お隣を、お務めします、ヘルマン・バルテンです」


「バルテン伯爵。お会いできて、光栄です」


「お掛けください。戸口に近い席が、一行の長の、お席だと、伺っています」


伯爵の声は、思ったより、よく通った。


近くの卓の客たちが、振り向く。


「ザルツの古い宴では、一行の長は、戸口に、最も近い席に着く。全員の背中を、守る位置だ。ご存じなかったか」


近くの卓から、小さな囁きが、聞こえた。


「なるほど。古式、か」


「だから、あの席なのか」


「冷遇では、なかったのですね」


囁きは、波のように、広がった。


第四卓の、ベルナール伯爵夫人が、隣の客に、小声で、何かを、教えている。その唇の形は、「古式」と、読めた。


私が、人に、頼んだのではない。誰かが、その卓で、事実を、ひとこと、口にした。それだけで、噂は、正しい形に、整っていく。


私は、壁際で、小さく、息を、吐いた。


公が、席に、腰を下ろす。


卓の上の、席札が、目に入った。


公は、その札を、そっと、手に取った。


裏を、見る。


その、指先が、ほんの一瞬、止まった。


目を、閉じる。


ほんの、短い時間。


やがて、公は、札を、元の位置に、戻す。


その表情は、ひどく、静かだった。


「ローレン書記」


不意に、背後から、声がした。


振り向くと、マルタが、立っていた。


顔が、強張っている。


「ベル書記官」


「ハイム典礼官の、声が」


「声が」


「出ません」


私は、息を、止めた。


「午後から、喉が、悪化して。先ほど、薬湯を、飲んでいただいたのですが。……いま、第一卓の近くに、立っておられます。ですが、話そうとすると、息が、漏れるだけで」


壁の、時計を、見た。


六時五十分。


乾杯まで、あと、十分。


返礼の復唱は、ハイム典礼官の、役目だった。


二行を、第一卓の近くで、はっきりと。


「長官は」


「いま、典礼官のもとへ。ローレン書記を、呼んでくるようにと」


私は、壁から、離れた。


広間の中央を、横切る。


三百六十人の目が、一瞬、私を、掠めた。


その、全てが、背中に、刺さる。


けれど、足は、止まらなかった。


南の通路では、給仕たちが、盆を掲げて、行き交っている。流れは、予定どおり、滞りがない。それだけが、いまの、救いだった。第一卓の近くで、長官が、待っている。

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