↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/50

私が、私に宛てて

朝の六時五十分、局の灯りは、すでに点いていた。


「お早うございます、ローレン書記」


長官が、自分の部屋の扉の前に、立っていた。


髭は、きれいに剃られている。濃い灰色の上着の襟も、整っていた。昨夜の、あの白い顔とは、違う。


「お早うございます。……お休みに、なれましたか」


「四時間」


「四時間」


「数えてください。昨夜までの、一時間よりは、増えました」


私は、思わず、小さく、笑ってしまった。


「数えます。記録は、『四』と」


「結構です」


長官も、口の端を、わずかに、動かす。


「今日の流れを、確認します」


長官は、机の上に、一枚の紙を広げた。


「午前、西の大通りの行列。正午、王宮前の式典。夕刻五時、広間の扉を開き、六時に着席、七時に乾杯。ローレン書記の持ち場は、西の大扉の入場確認。その後は、広間の壁際」


「はい」


「何かあれば、私に。ただし、まず、あなたが判断して、その結果を、私に」


「承知しました」


七時の鐘と同時に、局の入口が、開く。


ハインリヒ公が、一人で、立っていた。濃い青の外套。その後ろに、ハイム典礼官が、控えている。


「お早うございます、団長殿」


「お早うございます、ローレン書記。昨夜は、無理を申しました」


「いいえ。お席札は、こちらに、用意してあります」


私は、公を、書庫の隣の、小さな作業室へ、案内した。


机の上に、金縁の札が、一枚、置いてある。


『ハインリヒ・フォン・ザルツ殿 第二十四卓』


局の字で、書かれている。裏は、まだ、白い。


「筆と、インクを」


「ザルツのものを、お持ちですか」


「ええ。使い慣れたものが、よいので」


公は、懐から、細い筆と、小さな墨壺を、取り出した。


私は、一歩、下がった。


「私は、扉の外に、おります。お済みになりましたら」


「いえ」


公が、首を、横に振った。


「いてください。見ても、構いません。ただ、何を書いたかは、お尋ねにならないでください」


「承知しました」


私は、部屋の隅に、立った。


公は、札を、裏返した。


筆の先に、墨を含ませる。


手が、一瞬、止まった。


窓から、朝の光が、差し込んでいる。その光の筋の中で、細かい埃が、ゆっくり、舞っていた。


公は、ゆっくり、書き始めた。


一行。


筆が、紙の上を、滑る。


私は、離れた隅から、見ていた。何と書かれているのか、文字の形までは、読めない。読もうとも、しなかった。


書き終えると、公は、吸い取り紙を、そっと、当てる。


それから、札を、表に、返した。


「ありがとう。……裏の一行は、私が、私に宛てて、書きました」


「はい」


「今夜、席に着いたときに、読みます」


「承知しました」


公は、筆を、拭いて、懐に、収めた。


「ローレン書記」


「はい」


「昨夜の、お返事を、ありがとう。あなたは、私の私的な領域に、立ち入らなかった」


「それが、局の仕事です」


「そして、それが、いちばん、難しい仕事でもある」


公は、静かに、微笑んだ。


「今夜、会いましょう。席は、遠いですが」


「はい。お待ちしております」


公が、部屋を出ていく。


その後ろ姿を、見送っていると、ハイム典礼官が、ひとつ、咳をした。


「失礼」


声が、少し、かすれている。


「ハイム典礼官。お風邪では」


「いえ。昨日から、一日中、話し通しでしたので。夜までには、整います」


「蜂蜜の湯を、お持ちします」


「ありがたい」


典礼官は、髭を、撫でた。


八時半。バルテン伯爵が、局に現れた。


黒い杖。肩の線が、昨日と同じに、まっすぐだ。


「約束の、席札だ」


「こちらに」


私は、待合の間の卓に、一枚の札を、置いた。


『ヘルマン・バルテン伯爵閣下 第二十四卓』


伯爵は、杖を、椅子に、立てかけた。


札を、手に取る。


ゆっくり、目で、一字ずつ、追う。


「綴りは、合っている。爵位も」


「はい」


「卓番号は」


「二十四、です。東の扉に、最も近い卓の、公の隣の席です」


伯爵は、札を、卓に戻した。


そして、鋭い目で、私を見た。


「他に、報告することは、ないのか」


私は、一瞬、息を、止めた。


「……ございます」


「言ってみなさい」


「卓番号表の方に、閣下のお名前の綴りの、誤りが、ありました。バルテンが、バルデンと」


伯爵の眉が、動いた。


「いつ」


「昨夜、最終版の照合で、見つけました。席札は、正しかったのですが、卓番号表の書き換えで、一字、誤っていました。昨夜のうちに、直しております」


「直したのは、あなたか」


「はい」


「見つけたのは」


「私です」


沈黙が、落ちる。


やがて、伯爵が、口を開いた。


「言わなければ、私は、気づかなかった」


「はい」


「言わない方が、楽だったろう。昨夜のうちに、直っているのだから」


「閣下は、席札の確認を、条件になさいました。ご覧になる範囲の全てについて、正確でありたいと、考えたのです」


伯爵は、杖に、手を伸ばす。


「……私は、三十年、宮廷にいた」


「はい」


「間違いを、隠す役人を、何人も見てきた。隠さずに、先に言う役人は、数えるほどだ」


「恐れ入ります」


「今夜の席は、楽しみにしておこう」


伯爵は、それだけ言って、背を向けた。


扉の前で、立ち止まる。


「ローレン書記」


「はい」


「あなたの席は、どこだ」


私は、息を、呑んだ。


「……ございません。壁際に、立ちます」


「そうか」


伯爵は、振り返らなかった。


「それは、惜しいことだ」


そう言い残して、杖の音が、遠ざかった。


昼を過ぎた頃、大広間で、最後の試しが、行われた。


東の扉の脇に、笛の奏者。天井近くの高台に、白い旗の係。第一卓の近くに、ハイム典礼官。


私は、広間の中央に立って、全体を、見渡していた。天井の高い、石の広間。二十四の円卓が、白い布を掛けられて、整然と、並んでいる。


「では、合図を」


長官の声が、広間に響く。


笛が、鳴った。


一拍、遅れて、白い旗が、振り上げられる。


広間の端から端へ、笛の音が、反響して、揺れた。


「次、復唱」


ハイム典礼官が、第一卓の近くで、二行を、読み上げた。


『この円卓に、私の席を、いただいたことに、感謝します。


どの席に座る者も、互いの顔が、見えますように。』


声は、よく、通った。


けれど、最後の一語で、典礼官の声が、かすれた。


「失礼」


「ハイム典礼官」


「大丈夫です。夜までには」


長官が、静かに、典礼官の傍へ、歩み寄った。


「夜まで、声を、使わないでください。聞き取りも、お休みを」


「ですが、長官」


「命令では、ありません。お願いです」


典礼官は、少し、驚いたように、長官を見た。


それから、小さく、頷く。


「……承知しました」


私は、その横顔を、見ていた。


昨夜、私が言った言葉が、長官の口から、出ている。


正午の式典は、窓越しに、遠く、鐘と喇叭の音だけを、聞いた。西の大通りの行列も、その最後尾に加わる、ザルツの団長の姿も、私は、見られなかった。


見られなくても、よい。見えない場所で、準備を整えるのが、私たちの仕事だ。


四時を回ると、広間の準備は、全て、終わった。


控え室で、書記の礼装に、着替える。濃い灰色の、飾りのない上着だった。


アンナが、前日に、下宿へ、届けてくれたものだ。袖口の刺繍は、母が、昔、私のために縫ってくれた、小さな蔓草の模様。


鏡の中の私は、思ったより、落ち着いて見えた。


「お嬢様」


扉の向こうから、アンナの声がした。


「お届け物が、ございます。ブラント夫人から」


扉を、少し、開ける。


小さな紙包みが、手渡された。中には、丸いパンが、一つ。


『お腹が空いたら、壁際でも、食べなさい。 ブラント』


私は、思わず、笑った。


パンを、懐に、そっと、しまう。


そこへ、マルタが、通りかかった。


「壁際の持ち場は、東の扉の斜め前です」


「東の扉の、斜め前」


「第二十四卓も、第一卓も、見える位置です。あなたが、いちばんよく見える場所を、私が選びました」


「ベル書記官」


「壁際は、広間の中で、誰からも見えず、誰の動きも、見える席です。末席より、さらに、端。記録係の、特等席です」


マルタは、真顔のまま、言った。


冗談なのか、本気なのか、分からない。けれど、胸の奥の、重たいものが、少し、軽くなった。


五時。


広間の、西の大扉の前に、立った。


隣に、トビアス。反対の隣に、六人の書記の、一人が、呼名の控えを、抱えている。


扉が、開かれる前に、トビアスの手が、小刻みに、震えているのに、気づいた。


「トビアス」


「はい。……すみません」


「震えても、書けます。呼名は、遅くて構いません。正確であることだけ、守ってください」


「はい」


「それと、私も、震えています」


トビアスは、目を丸くして、私を見た。それから、少しだけ、肩の力を、抜く。


私も、冷たい手を、袖の中で、握りしめて、深く、息を吸う。


扉が、開かれた。


最初に、馬車の音が、石畳に、響き始めた。


「第一組、ご到着」


呼名の声が、広間に、通っていく。


ヴェルデンの客たちが、次々と、入場してくる。


私は、名簿の頁を、繰りながら、一人ずつ、席を、確認していった。


六時を、少し、回った頃。


「ローレン様」


トビアスが、小声で、私の袖を、引いた。


「第十四卓の、方々が」


私は、顔を、上げた。


西の扉の向こうから、一台の馬車が、ゆっくりと、近づいてくる。


黒い車体に、金の縁。クレイン伯爵家の、紋章が、夕陽を受けて、光った。


私は、名簿を、持ち直した。


第十四卓。クレイン伯爵夫妻、嫡男アルバート。ハートウェル伯爵夫妻、令嬢リリア。


席次表に、手は入れなかった。近づけも、遠ざけもしなかった。


だから、あの人たちは、これから、同じ卓で、向かい合う。


私は、背筋を、伸ばした。


今夜の私は、典礼局の書記。それ以外の、何者でもない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。