私が、私に宛てて
朝の六時五十分、局の灯りは、すでに点いていた。
「お早うございます、ローレン書記」
長官が、自分の部屋の扉の前に、立っていた。
髭は、きれいに剃られている。濃い灰色の上着の襟も、整っていた。昨夜の、あの白い顔とは、違う。
「お早うございます。……お休みに、なれましたか」
「四時間」
「四時間」
「数えてください。昨夜までの、一時間よりは、増えました」
私は、思わず、小さく、笑ってしまった。
「数えます。記録は、『四』と」
「結構です」
長官も、口の端を、わずかに、動かす。
「今日の流れを、確認します」
長官は、机の上に、一枚の紙を広げた。
「午前、西の大通りの行列。正午、王宮前の式典。夕刻五時、広間の扉を開き、六時に着席、七時に乾杯。ローレン書記の持ち場は、西の大扉の入場確認。その後は、広間の壁際」
「はい」
「何かあれば、私に。ただし、まず、あなたが判断して、その結果を、私に」
「承知しました」
七時の鐘と同時に、局の入口が、開く。
ハインリヒ公が、一人で、立っていた。濃い青の外套。その後ろに、ハイム典礼官が、控えている。
「お早うございます、団長殿」
「お早うございます、ローレン書記。昨夜は、無理を申しました」
「いいえ。お席札は、こちらに、用意してあります」
私は、公を、書庫の隣の、小さな作業室へ、案内した。
机の上に、金縁の札が、一枚、置いてある。
『ハインリヒ・フォン・ザルツ殿 第二十四卓』
局の字で、書かれている。裏は、まだ、白い。
「筆と、インクを」
「ザルツのものを、お持ちですか」
「ええ。使い慣れたものが、よいので」
公は、懐から、細い筆と、小さな墨壺を、取り出した。
私は、一歩、下がった。
「私は、扉の外に、おります。お済みになりましたら」
「いえ」
公が、首を、横に振った。
「いてください。見ても、構いません。ただ、何を書いたかは、お尋ねにならないでください」
「承知しました」
私は、部屋の隅に、立った。
公は、札を、裏返した。
筆の先に、墨を含ませる。
手が、一瞬、止まった。
窓から、朝の光が、差し込んでいる。その光の筋の中で、細かい埃が、ゆっくり、舞っていた。
公は、ゆっくり、書き始めた。
一行。
筆が、紙の上を、滑る。
私は、離れた隅から、見ていた。何と書かれているのか、文字の形までは、読めない。読もうとも、しなかった。
書き終えると、公は、吸い取り紙を、そっと、当てる。
それから、札を、表に、返した。
「ありがとう。……裏の一行は、私が、私に宛てて、書きました」
「はい」
「今夜、席に着いたときに、読みます」
「承知しました」
公は、筆を、拭いて、懐に、収めた。
「ローレン書記」
「はい」
「昨夜の、お返事を、ありがとう。あなたは、私の私的な領域に、立ち入らなかった」
「それが、局の仕事です」
「そして、それが、いちばん、難しい仕事でもある」
公は、静かに、微笑んだ。
「今夜、会いましょう。席は、遠いですが」
「はい。お待ちしております」
公が、部屋を出ていく。
その後ろ姿を、見送っていると、ハイム典礼官が、ひとつ、咳をした。
「失礼」
声が、少し、かすれている。
「ハイム典礼官。お風邪では」
「いえ。昨日から、一日中、話し通しでしたので。夜までには、整います」
「蜂蜜の湯を、お持ちします」
「ありがたい」
典礼官は、髭を、撫でた。
八時半。バルテン伯爵が、局に現れた。
黒い杖。肩の線が、昨日と同じに、まっすぐだ。
「約束の、席札だ」
「こちらに」
私は、待合の間の卓に、一枚の札を、置いた。
『ヘルマン・バルテン伯爵閣下 第二十四卓』
伯爵は、杖を、椅子に、立てかけた。
札を、手に取る。
ゆっくり、目で、一字ずつ、追う。
「綴りは、合っている。爵位も」
「はい」
「卓番号は」
「二十四、です。東の扉に、最も近い卓の、公の隣の席です」
伯爵は、札を、卓に戻した。
そして、鋭い目で、私を見た。
「他に、報告することは、ないのか」
私は、一瞬、息を、止めた。
「……ございます」
「言ってみなさい」
「卓番号表の方に、閣下のお名前の綴りの、誤りが、ありました。バルテンが、バルデンと」
伯爵の眉が、動いた。
「いつ」
「昨夜、最終版の照合で、見つけました。席札は、正しかったのですが、卓番号表の書き換えで、一字、誤っていました。昨夜のうちに、直しております」
「直したのは、あなたか」
「はい」
「見つけたのは」
「私です」
沈黙が、落ちる。
やがて、伯爵が、口を開いた。
「言わなければ、私は、気づかなかった」
「はい」
「言わない方が、楽だったろう。昨夜のうちに、直っているのだから」
「閣下は、席札の確認を、条件になさいました。ご覧になる範囲の全てについて、正確でありたいと、考えたのです」
伯爵は、杖に、手を伸ばす。
「……私は、三十年、宮廷にいた」
「はい」
「間違いを、隠す役人を、何人も見てきた。隠さずに、先に言う役人は、数えるほどだ」
「恐れ入ります」
「今夜の席は、楽しみにしておこう」
伯爵は、それだけ言って、背を向けた。
扉の前で、立ち止まる。
「ローレン書記」
「はい」
「あなたの席は、どこだ」
私は、息を、呑んだ。
「……ございません。壁際に、立ちます」
「そうか」
伯爵は、振り返らなかった。
「それは、惜しいことだ」
そう言い残して、杖の音が、遠ざかった。
昼を過ぎた頃、大広間で、最後の試しが、行われた。
東の扉の脇に、笛の奏者。天井近くの高台に、白い旗の係。第一卓の近くに、ハイム典礼官。
私は、広間の中央に立って、全体を、見渡していた。天井の高い、石の広間。二十四の円卓が、白い布を掛けられて、整然と、並んでいる。
「では、合図を」
長官の声が、広間に響く。
笛が、鳴った。
一拍、遅れて、白い旗が、振り上げられる。
広間の端から端へ、笛の音が、反響して、揺れた。
「次、復唱」
ハイム典礼官が、第一卓の近くで、二行を、読み上げた。
『この円卓に、私の席を、いただいたことに、感謝します。
どの席に座る者も、互いの顔が、見えますように。』
声は、よく、通った。
けれど、最後の一語で、典礼官の声が、かすれた。
「失礼」
「ハイム典礼官」
「大丈夫です。夜までには」
長官が、静かに、典礼官の傍へ、歩み寄った。
「夜まで、声を、使わないでください。聞き取りも、お休みを」
「ですが、長官」
「命令では、ありません。お願いです」
典礼官は、少し、驚いたように、長官を見た。
それから、小さく、頷く。
「……承知しました」
私は、その横顔を、見ていた。
昨夜、私が言った言葉が、長官の口から、出ている。
正午の式典は、窓越しに、遠く、鐘と喇叭の音だけを、聞いた。西の大通りの行列も、その最後尾に加わる、ザルツの団長の姿も、私は、見られなかった。
見られなくても、よい。見えない場所で、準備を整えるのが、私たちの仕事だ。
四時を回ると、広間の準備は、全て、終わった。
控え室で、書記の礼装に、着替える。濃い灰色の、飾りのない上着だった。
アンナが、前日に、下宿へ、届けてくれたものだ。袖口の刺繍は、母が、昔、私のために縫ってくれた、小さな蔓草の模様。
鏡の中の私は、思ったより、落ち着いて見えた。
「お嬢様」
扉の向こうから、アンナの声がした。
「お届け物が、ございます。ブラント夫人から」
扉を、少し、開ける。
小さな紙包みが、手渡された。中には、丸いパンが、一つ。
『お腹が空いたら、壁際でも、食べなさい。 ブラント』
私は、思わず、笑った。
パンを、懐に、そっと、しまう。
そこへ、マルタが、通りかかった。
「壁際の持ち場は、東の扉の斜め前です」
「東の扉の、斜め前」
「第二十四卓も、第一卓も、見える位置です。あなたが、いちばんよく見える場所を、私が選びました」
「ベル書記官」
「壁際は、広間の中で、誰からも見えず、誰の動きも、見える席です。末席より、さらに、端。記録係の、特等席です」
マルタは、真顔のまま、言った。
冗談なのか、本気なのか、分からない。けれど、胸の奥の、重たいものが、少し、軽くなった。
五時。
広間の、西の大扉の前に、立った。
隣に、トビアス。反対の隣に、六人の書記の、一人が、呼名の控えを、抱えている。
扉が、開かれる前に、トビアスの手が、小刻みに、震えているのに、気づいた。
「トビアス」
「はい。……すみません」
「震えても、書けます。呼名は、遅くて構いません。正確であることだけ、守ってください」
「はい」
「それと、私も、震えています」
トビアスは、目を丸くして、私を見た。それから、少しだけ、肩の力を、抜く。
私も、冷たい手を、袖の中で、握りしめて、深く、息を吸う。
扉が、開かれた。
最初に、馬車の音が、石畳に、響き始めた。
「第一組、ご到着」
呼名の声が、広間に、通っていく。
ヴェルデンの客たちが、次々と、入場してくる。
私は、名簿の頁を、繰りながら、一人ずつ、席を、確認していった。
六時を、少し、回った頃。
「ローレン様」
トビアスが、小声で、私の袖を、引いた。
「第十四卓の、方々が」
私は、顔を、上げた。
西の扉の向こうから、一台の馬車が、ゆっくりと、近づいてくる。
黒い車体に、金の縁。クレイン伯爵家の、紋章が、夕陽を受けて、光った。
私は、名簿を、持ち直した。
第十四卓。クレイン伯爵夫妻、嫡男アルバート。ハートウェル伯爵夫妻、令嬢リリア。
席次表に、手は入れなかった。近づけも、遠ざけもしなかった。
だから、あの人たちは、これから、同じ卓で、向かい合う。
私は、背筋を、伸ばした。
今夜の私は、典礼局の書記。それ以外の、何者でもない。




