終わりを、決めましょう
夜の八時、マルタが、六人の書記を、局から追い出した。
「今日は、ここまで。残りの二割は、明朝。全員、家へ帰りなさい」
「ですが、ベル書記官。席札が」
「札は、逃げません。疲れた手で書いた字は、間違います。間違った席札は、明日の晩餐で、取り返しがつきません」
トビアスが、何か言いかけて、飲み込んだ。それから、深く頭を下げて、帰り支度を始める。
私は、机に残って、最終版の席次表を、広げていた。
「ローレン書記」
マルタが、私の机の前に立った。
「あなたは、帰らないのですね」
「はい。長官の分を、半分、見ると決めました」
「そう」
マルタは、少しだけ、私を見つめた。
「内規第十二条は、泊まりの規則です。夜更かしは、別の話。だから、これは、規則の外の、助言です」
「はい」
「三十分ごとに、時計を見なさい。そして、あの人の顔色も」
「顔色、ですか」
「あの人は、自分では、見ませんから」
マルタは、外套を羽織り、扉の方へ、歩き出した。
扉の手前で、一度、振り返る。
「倒れる前に、止めなさい。倒れてから、では、遅い」
「はい」
足音が、遠ざかって、局が、静かになった。
長官の部屋の扉を、叩いた。
「入りなさい」
長官は、机の前で、式次第の清書を、している最中だった。
「長官。分け方を、決めさせてください」
私は、机の前に、立った。
「式次第の清書と、署名は、長官の仕事です。席次表の最終版の、全三百六十名の照合と、呼名札の確認は、私が引き受けます」
「分かりました。……あなたの方が、量が多い」
「いいえ。長官には、署名と、官房への提出が、あります。責任の重さは、同じです」
長官は、小さく、笑った。
「責任の重さ、ですか。……そのとおりかもしれない」
「では、始めます」
私は、自分の机に、戻った。
三百六十名。二十四の卓。一人ずつ、名と、爵位と、席の番号を、旧版と、新版で、突き合わせる。
静かな部屋に、ペン先が、紙を撫でる音だけが、響いた。
三卓、四卓、五卓。
五卓の、八番で、手が止まった。
新版の欄に、『ヘルマン・バルデン伯爵』と、ある。
「……バルデン」
字を、見直す。
『ヘルマン・バルテン』ではない。濁点が、一つ、違う。
席札の方は、トビアスが書いた、正しい綴りだった。けれど、卓番号表の書き換えのとき、誰かの手が、一文字、滑ったのだろう。
私は、赤鉛筆を、取った。
その一字を、直す。余白に、小さく、書き添える。
『卓番号表、第五卓八番、綴り訂正。バルデン→バルテン。席札は、正』
もし、これを見落としていたら、明日の朝、バルテン伯爵は、自分の名の違う卓番号表を、目にしたかもしれない。
あの方は、席札を、見せろと言った人だ。
背中が、少し、冷える。
時計を見る。九時半を、回っていた。
マルタの言葉を、思い出した。三十分ごとに、時計を。そして、あの人の顔色も。
私は、紅茶を淹れ直して、長官の部屋へ、運んだ。
「失礼します。お茶です」
「ありがとう。そこに」
長官は、顔を上げずに、清書を続けている。机の紙の山は、少しも、低くならない。
私は、カップを置いた。
手を、離す前に、長官の横顔を、そっと、見た。
いつもより、頬が、こけて見える。目の下の影は、昨日より、濃い。
けれど、そのときの私は、まだ、それを、口に出せずにいる。
十時を、少し過ぎた頃、扉が、遠慮がちに、叩かれた。
夜番の守衛だった。
「ローレン書記。ザルツの宿舎から、使いの方が。団長殿のお言付けだと」
「お通しして」
現れたのは、青い外套の若者。先触れに来た、あの人だった。
「夜分に、失礼いたします。ローレン書記殿に、団長からの、お願いが」
「伺います」
若者は、折り畳んだ紙を、差し出した。
開く。
細い、角張った字だった。
『ローレン書記殿
私の席札は、私の手で、書かせていただけないでしょうか。
名も、席の番号も、局の字で、結構です。ただ、札の裏に、私が、一行だけ、書きたい。
明朝、局に伺います。
ハインリヒ』
私は、紙を、じっと見た。
札の裏に、一行。
何を書くのか。聞いてはいけない。それは、私的な、領域だった。
けれど、これは、公の席札だ。裏の字も、局の管理の内に、入る。
「少し、お待ちください」
私は、紙を持って、長官の部屋の扉を、叩いた。
「入りなさい」
「失礼します。団長殿から、お願いが」
紙を、差し出す。
長官は、目を通した。
「……札の裏に、一行」
「はい。内容は、お尋ねしません。ただ、官房の承認を、改めて、取る必要があるでしょうか」
「いいえ」
長官は、ペンを、置いた。
「席札は、局の管理です。裏の一行は、本人が、本人の席に残すもの。局が、裏を、検める理由は、ありません」
「では、明朝、七時に、局へ」
「承知しました。そう、お返事を」
「はい」
私は、扉の前で、一度、足を止めた。
長官の顔が、蝋燭の光の下で、ひどく、白く見えた。
「長官。夕食は」
「……取りました」
「何を」
「パンを、少し」
「いつ」
答えが、一拍、遅れた。
「昼です」
私は、紙を、握りしめた。
「分かりました。私は、青い外套の方に、返事を渡して、戻ってきます」
「はい」
使いの若者に、返事を託して、戻ってくると、長官は、書棚の前に、立っていた。
「長官」
「官房への提出書類の、控えを、取りに」
「私が、取ります」
「大丈夫です。すぐ、そこに」
長官が、手を、伸ばした。
その、指が、棚の縁に、触れる。
そのとき、長官の体が、ぐらり、と、傾いた。
「長官!」
私は、駆け寄って、長官の腕を、掴んだ。
倒れる、寸前だった。長官の手が、書棚の脇の、インク壺を、薙ぐ。
黒い液が、床に、広がった。
「……失礼。目が、少し」
長官の声が、かすれていた。腕は、驚くほど、軽い。
「座ってください」
「大丈夫です」
「座ってください」
声が、思ったより、強く、出た。
長官は、一拍、置いて、私の言うとおり、椅子に、腰を下ろした。
額に、薄い汗が、浮かんでいる。
私は、杯に、水を、注いだ。
「飲んでください」
長官は、水を、一息に、飲み干した。
「食べるものを、持ってきます。そこに、動かずに」
「ローレン書記」
「はい」
「あなたは、帰って、休みなさい」
「いいえ」
私は、扉の前で、振り返った。
「長官は、先ほど、私に、お願いするとおっしゃいました。ですから、私は、ここにいます。その代わり、長官にも、お願いがあります。座っていてください。私が、戻るまで」
長官は、目を、閉じる。
それから、小さく、頷く。
「……分かりました」
局の奥にある、小さな給湯室へ、私は、走った。
戸棚の中に、堅いパンが、半分と、乾酪が、一切れ。湯を沸かして、紅茶を、淹れる。
盆に、載せて、戻った。
長官は、椅子に、座ったまま、目を閉じていた。
「長官」
「……起きています」
「召し上がってください」
私は、机の端を、片付けて、盆を、置いた。
長官は、パンを、手に取った。
ゆっくり、一口、かじる。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
蝋燭の火が、小さく、揺れていた。
「ローレン書記」
「はい」
「父は、仕事を、終えられずに、倒れました」
私は、息を、止めた。
「局の古い方々から、そう聞いています。二十年前の、あの晩餐会の後。残った仕事を、全て、一人で、片付けようとして」
「……はい」
「だから、私は、終わらせられるものは、今夜のうちに、終わらせたかった。終わらせないまま、倒れるのが、怖かった。……そう思ううちに」
長官は、パンを、置いた。
「終わりが、見えなくなりました。終わらない仕事を、終わらせようとして、気づくと、倒れる寸前まで、来ている。父と、同じ道を、歩いているのだと、今、分かりました」
私は、盆の向かいの、椅子に、腰を下ろした。
「長官」
「はい」
「終わりを、決めましょう」
「終わり、ですか」
「今夜の、終わりの時刻です。零時。零時を回ったら、どんな仕事も、止めます。残りは、明朝、私と、トビアスが、見ます」
「零時」
「はい。それまでに、署名と、提出を、終えます。終わらなければ、署名だけは、して、提出は、朝にします。官房は、朝七時から、開く決まりですから」
長官は、少し、考えていた。
それから、紅茶を、一口、飲んだ。
「あなたは、私に、命じている」
「いいえ。お願いをしているのです」
「同じことです」
「違いますよ」
私は、はっきり、言った。
「命令なら、長官は、従うか、断るかしか、できません。お願いであれば、答えを、選べるのです」
長官は、驚いたように、私を見た。
それから、長い息を、吐いた。
「……選べる、ですか」
「はい」
「分かりました。零時で」
その返事が、ひどく、近くに聞こえた。
残りの一時間は、二人で、黙々と、仕事に向かう。
私の照合は、そこで終わった。見つかった誤りは、バルデンの一字だけ。
長官は、式次第の清書を、仕上げた。
十一時五十分。長官が、最終版の席次表に、署名をした。
「提出は」
「夜番の箱に、入れます。官房の、朝一番の使いが、受け取る手筈です」
「では、私が、運びます」
「いえ。私が」
長官が、書類を持って、立ち上がった。
足元は、先ほどより、ずっと、確かだった。
局の入口の、夜番の箱に、書類を、納める。
十一時五十八分。
「ローレン書記」
「はい」
「ありがとう」
昨日より、さらに、近い声だった。
私は、ただ、頭を、下げた。
零時の鐘が、鳴り始める。
局の灯りを、一つずつ、消して、二人で、外へ出た。
夜気が、冷たい。
見上げると、星が、澄んでいた。王宮の塔の屋根の上に、今日の旗を掲げる竿が、黒く、細く、立っている。
建国祭は、もう、今日だった。




