事実だけを、言えばよいのか
翌朝の九時二十分、局の入口が、にわかに、騒がしくなった。
「ローレン様!」
トビアスが、息を切らして、駆け込んできた。
「バルテン伯爵が、お見えです。お返事を、ご自身で、お持ちになったと」
「お一人で?」
「はい。杖をついて、お一人で。階段を、ゆっくり、上がってこられます」
私は、椅子から、立ち上がった。
十時の期限には、まだ、四十分ある。手紙の返事は、使いの者が、持ってくるものだと、考えていた。
「お通しして。待合の間に。いえ」
少し、考えてから、言い直した。
「階段の下まで、お迎えに行きます。膝の悪い方に、二階まで歩かせるのは、本末転倒ですから」
階段の下に、その人は、立っていた。
七十一歳。背は高く、肩の線が、まっすぐだった。頭は、すっかり禿げ上がり、灰色の太い眉の下に、鋭い目がある。右手に、黒い杖。軍人の、立ち方だった。
「ヘルマン・バルテンだ」
「典礼局臨時書記、セシリア・ローレンです。お越しいただき、恐縮です」
「手紙の差出人は、あなたか」
「はい」
「三週間前、私に、断りの返事を書いたのも」
「私です」
伯爵は、私を、頭の先から、足の先まで、ゆっくり、眺めた。
「若いな」
「十九です」
「十九で、三百を超える返書の余白を、覚えているのか」
「全てではありません。ただ、戸口に近い席、と書かれた方は、少なかったので」
伯爵は、鼻を、鳴らした。
「二階に、椅子はあるか」
「待合の間に、お掛けいただけます」
「掛ける前に、一つ、聞く」
伯爵は、階段の手すりを、杖の先で、軽く、叩いた。
「この手紙には、隣が誰か、断ってもよい、と書いてある。そのような手紙を、書く役所は、初めてだ。なぜ、全て、書いた」
「書かずにお願いすれば、膝を、口実にしたことになるからです」
即答だった。
伯爵の眉が、わずかに、動いた。
「口実」
「閣下は、戸口に近い席を、ご希望になりました。団長殿の隣を、ご希望になったわけではありません。ご自身の希望と、局の都合を、混ぜたくなかったのです」
「……ふむ」
伯爵は、杖を、持ち直した。
「待合の間へ、案内しなさい。話は、座ってから聞く」
待合の間の椅子に、伯爵は、膝をかばいながら、ゆっくりと、腰を下ろした。
二日前の夕刻、侯爵と公が、立ったままで、向かい合った場所である。二脚の椅子は、あの夜、私が壁際に戻した。今朝は、一脚だけ、卓の前に出してある。
「質問を、続ける」
「どうぞ」
「ハインリヒ公の席が、末の卓だという話は、既に耳に入っている。昨夜、侍従長官房の知り合いから、聞いた」
「はい」
「私が、その隣に座れば、ヴェルデンの客は、私を、何だと見る。目付け役か。それとも、慰め役か」
「どちらにも、見えないようにします。閣下は、ご自分の膝のために、戸口に近い席を、望まれました。それは、書面に、残っています。この事実だけを、お話しください」
「人に、公の席の理由を、聞かれたら」
「ザルツの古式、とお答えください。それが、公の、公の理由です」
「私的な理由は」
「ございますが、お伝えできません。閣下にも、お聞かせしないことに、しています」
伯爵は、しばらく、黙っていた。
窓の外で、鐘が、一つ、鳴った。
「事実だけを、言えばよいのか」
「はい」
「軍人向きだ」
伯爵は、ようやく、口の端を、わずかに、持ち上げた。
「受けよう」
私は、息を、止めたまま、頭を、下げた。
「ありがとうございます。ただ、閣下、お断りいただいても」
「くどい。受けると言った」
「失礼しました」
「条件が、二つある」
伯爵が、指を、二本、立てた。
「一つ。私は、付き添い役ではない。公に話しかけられれば、答える。こちらから、慰めは、しない」
「承知しました」
「もう一つ。席札を、一度、私に見せろ。私の名と、爵位と、席の番号。書き間違いがあれば、その場で、直す」
「はい。必ず、お見せします」
「それだけだ」
伯爵は、杖に、両手を重ねた。
「あなたは、三週間前に、私の願いを、断った」
「はい」
「そして今日、その同じ願いを、叶える形で、私を呼んだ。断ったことを、隠さずに」
「隠せば、今日の手紙は、嘘になります」
「そうだな」
伯爵は、少し、笑った。
「悪い仕事ぶりでは、ない。……三十年、宮廷にいたが、断った席を、自分で、思い出す役人は、初めて見た」
返す言葉が、見つからない。
頬の内側を、そっと噛んで、顔には、出さずにおいた。
伯爵が帰って、一時間も経たないうちに、もう一通、返事が届く。
フェルト男爵、四十六歳。第二十四卓の、東の扉のすぐ隣に、着く予定だった人である。
『拝承。第五卓八番、光栄に存じます。 フェルト』
短い一行だった。
ほっと、息を、吐く。
席の連鎖は、二件。どちらも、本人の了承が、書面で、揃った。
「ローレン書記」
十一時を回った頃、ハイム典礼官が、静かに、局を訪れた。
手には、一枚の紙。
「団長殿から、返礼の二行を、お預かりしました。官房へ出す前に、局で、目を通してほしいと」
「拝見します」
細い、角張った字だった。
『この円卓に、私の席を、いただいたことに、感謝します。
どの席に座る者も、互いの顔が、見えますように。』
私は、紙を、二度、読んだ。
私的な理由は、一言も、書かれていない。ザルツの古式、とも、書かれていない。ただ、円卓という形と、そこに座る者たちへの、短い祈りだけ。
「ハイム典礼官」
「はい」
「これを、復唱なさるのですね」
「ええ。第一卓の近くで、はっきりと」
典礼官は、髭を、撫でた。
「ルドルフ殿が、若い私に、よく言いました。短い言葉ほど、長く、残ると」
「……はい」
私は、その紙を、長官の部屋へ、運んだ。
長官は、読み終えて、顔を、上げた。
「これで、官房の条件は、三つとも、揃いました」
「はい。一つ、公の理由は、古式の一本。二つ、返礼は、旗と笛と復唱。三つ、隣席の方の、了承」
「行きましょう。正午まで、あと四十分です」
官房の応接室は、昨日より、明るく感じられる。
ヴァイス伯爵は、窓際で、待っていた。
私は、卓の上に、書類を、一枚ずつ、並べていく。
バルテン伯爵の了承書。伯爵は、局を出る前に、待合の間で、自筆で、署名してくださった。フェルト男爵の了承書。ハインリヒ公の返礼の二行。そして、席の連鎖を示した、図。
伯爵は、一枚ずつ、ゆっくり、読んだ。
読み終えるまでの、数分が、ひどく、長く思えた。
「ローレン書記」
「はい」
「第二十四卓の、隣席の件。バルテン伯爵は、あなたが、自分で、お選びに?」
「はい。三週間前の、出席の返書の、余白に、ご本人の希望が、ありました」
「官房が、あなたに命じた形では、ないのだね」
「はい。ご本人が、手紙を読んで、ご自身で、お受けになりました」
伯爵は、書類を、揃えた。
「承認する」
胸が、どっと、鳴った。
「第二十四卓の件、官房として、承認する。席次表の最終版を、今夜中に。席札、呼名札、卓番号表の差し替えは、許す」
「ありがとうございます」
「ただし」
伯爵は、私の方を、見た。
「記録には、この件は、『局の提案』として残す。あなたの名は、載せない。席次表の作成者として、官房が、特定の人物の功績を、残す慣例は、ない」
「それで、結構です」
私は、即座に、答えた。
「記録は、事実のとおりに、残れば、それでよいのです」
伯爵が、眉を上げた。
それから、小さく、頷く。
「……そうか」
その声は、ほんの少し、柔らかかった。
局に戻ると、すぐに、作業が、始まった。
第二十四卓の席札。第五卓の八番の席札。第一卓の、公の席札を、外す。呼名札の差し替え。卓番号表の、書き換え。
六人の書記が、机を寄せ合って、金縁の札に、一枚ずつ、字を入れていく。
トビアスが、バルテン伯爵の席札を、書いた。
「ローレン様、見ていただけますか」
「ええ」
私は、札を、受け取った。
『ヘルマン・バルテン伯爵閣下 第二十四卓』
字は、小さく、丁寧だった。
「綴りも、爵位も、合っています。……この札は、閣下に、ご覧に入れる前に、もう一度、私が、確認します」
「はい」
夕刻になっても、作業は、終わらなかった。
私は、長官の部屋の前を、通りかかった。
扉が、少し、開いている。
長官は、机に向かっていた。書類の山は、昨日より、高い。
足音に、顔を上げる。
「ローレン書記。席札の進み具合は」
「六割です。夜までに、八割。残りは、明朝」
「承知しました。最終版の席次表は、今夜中に、官房へ出さなければなりません」
「はい」
「今夜は、持ち帰ります」
私は、立ち止まった。
「長官」
「分かっています。数えてください。ただ、これは、仕事の、最後の、山です」
「数えます」
私は、言った。
「ですが、今夜は、持ち帰らせません」
「ローレン書記」
「私も、残ります。局で。長官の分は、半分、私が、見ます」
長官は、驚いたように、私を見た。
「あなたは、帰って、休みなさい」
「いいえ」
声が、思ったより、強く、出た。
「それは、命令では、ありません。私が、決めたことです。長官の仕事の半分を、私の手で、確かめたい。最終版の席次表の、最終確認は、私の仕事でもあります」
沈黙が、一つ、落ちる。
長官は、ゆっくり、ペンを、置いた。
「……分かりました。では、お願いします」
「はい」
「ありがとう」
その、一言が、昨日までより、近くで、聞こえた気がした。
私は、自分の机に、戻る。
窓の外では、暮れていく空の端に、ザルツの一行の宿舎の、窓の灯りが、一つ、二つと、点り始めていた。
明日は、建国祭。
その夜、私は、広間の、壁際に、立つことになる。
席のない場所に。




