名を探すのではなく、条件から
昼の鐘が鳴っても、私の白い紙の三行の下は、空白のままだった。
「ローレン書記」
呼ばれて顔を上げると、マルタが、昼食の包みを持って、机の前に立っていた。
「まだ、食べていませんね」
「はい。名が、浮かばなくて」
「浮かんだ名を、疑う仕事です。浮かばないのは、悪くない」
マルタは、向かいの椅子を、引いた。
「声に出して、消していきなさい。誰が、だめか」
「承知しました」
私は、席次表の写しを、手元に引き寄せた。
「まず、モーリス侯爵です」
「理由は」
「あの方は、団長殿と和解されました。そのうえで、隣に座れば、誰もが、償いの席、と読みます。慰めと、同じ。それに、侯爵には、ヴェルナー夫人との並びを、もう通知してあります。私の都合で動かせば、あの約束が軽くなってしまう」
「よろしい。次」
「クレイン伯爵です」
マルタが、眉を上げた。
「名を挙げた理由は」
「消すために、挙げました。ご子息の件があります。あの方を団長殿の隣に置けば、私が、クレイン家を引き上げようとしていると、見えてしまう。近づけも遠ざけもしない、という線を、越えてしまう」
「結構。次」
「ベルナール伯爵夫人。人望のある方ですが、社交の口が、広い。団長殿の隣で見聞きしたことは、翌日、王都中に回ります。団長殿の私的な理由に、触れかねません」
「ええ」
「サラン侯爵夫妻。夫妻でひと組の方を、片方だけ動かせば、不自然です」
「ええ」
「ハーゲン侯爵。令嬢の件で、官房に、茶会の延期を申し入れた直後です。席の話に、巻き込むのは、控えたい」
マルタは、ゆっくり頷いた。
「消えましたね。三十人近い、高位の方々が」
「はい。名が、残りません」
「名を探すのではなく、条件から、探しなさい」
マルタは、包みの紐を、解いた。
「慰めに見えない。自分で座りたがったと見える。ならば、あなたの口から出ない人が、いい。その方ご自身が、どこかで、すでに、言っている人」
「ご自身が、すでに」
私は、その言葉を、繰り返した。
胸の奥で、小さな引っかかりが、鳴った。
三週間前。招待状の返書の、束。
三百十六通の返書は、局で、一通ずつ、私と、トビアスが、仕分けた。出席、欠席、同伴者の変更。そして、余白に添えられた、要望。
「トビアス」
「はい」
「返書の箱を。三週間前の、出席の方の分を」
トビアスが、書庫から、木箱を抱えてきた。
私は、蓋を開け、束を、一通ずつ、繰った。
要望の欄に、私が、赤鉛筆で印を付けたものを、探す。
四通目で、手が、止まった。
『謹んで出席いたします。ただし、膝を痛めており、長く歩くことが叶いません。叶うならば、戸口に近い席を賜れれば幸いです。
ヘルマン・バルテン』
右の端に、私の字の、小さな書き込みがある。
『第五卓、戸口側に空席なし。対応不可。その旨、回答済み』
「バルテン伯爵」
私は、声に出した。
「七十一歳。元の侍従武官。奥様は、数年前に、他界されている。お一人で、いらっしゃる」
「覚えて、いたのですか」
マルタが、驚いたように、言った。
「返書を、仕分けたときに。第五卓の、八番です。お断りの返事を出したのも、私です」
胸が、どくり、と鳴った。
あのとき、第五卓は、広間の中ほどにある。戸口の側に、動かせる席は、どこにも見つからなかった。バルテン伯爵の席は、扉から遠いまま。私は、断りの返事を書くしかなかった。
けれど、いまは違う。
第二十四卓は、東の扉に、いちばん近い。
「ローレン書記」
「はい」
「これは、条件に、合っています。ご自身が、戸口に近い席を、望んでおられる。団長殿のためでなく、ご自分の膝のために」
「はい。慰めには、見えません。ただ」
私は、紙を、握りしめた。
「この方が望んだのは、戸口に近い席であって、団長殿の隣ではありません」
「そうね」
「それを、伝えずに、お願いはできません。膝を口実にしたことに、なってしまう」
「では、どうします」
「全部、お伝えします。席が、団長殿の隣であるという事実。その席は、ザルツの古式による、団長殿ご自身のご希望だという事実。そして、お断りになっても、何の傷にもならない、ということ。そのうえで、お返事を、いただきます」
マルタは、包みの中身を、ゆっくり、ほどいた。
「それを、長官に、見せなさい。なぜ、その名か、を、聞きたがっておられた」
「はい」
私は、返書と、自分の書き込みと、三行の基準を、一枚に、まとめた。
長官の部屋の扉を、叩く。
「入りなさい」
入ると、長官は、机の上の書類の、山の前にいた。昼食は、盆の上で、半分、残されている。
「名が、決まりましたか」
「はい。ヘルマン・バルテン伯爵です」
私は、紙を、机に置いた。
長官は、ゆっくり、目を通した。
「理由を、聞きましょう」
「三つあります。一つ。ご自身が、三週間前に、戸口に近い席を希望された、書面があります。官房の指名ではなく、ご本人の望みです。二つ。第二十四卓の隣は、お断りになっても、何の傷もつかない形で、お伝えできます。三つ。伯爵は、高位で、公の場の経験が長く、団長殿の隣に座って、場を、荒立てない方です」
「三つ目は、あなたの推測では」
「はい。確かめたことは、ありません。ですから、お人柄を、私が決めたとは、書きません」
長官は、小さく、頷いた。
「もう一つ。バルテン伯爵の膝を、口実にしていませんか」
その問いは、一番、聞かれたくなかった。
私は、背筋を、伸ばした。
「口実にならないように、お手紙に、全て、書きます。席が団長殿の隣だという事実。理由は、私的なものでなく、ザルツの古式だという事実。そして、お断りになってかまわない、ということ。三週間前に私がお断りした席のことも、書き添えます」
「それを、あなたの名で、書く」
「はい。ただ、局の差出人として、長官の承認をいただきたいのです」
「席の動きは、どう組みますか」
「公が、第一卓から、第二十四卓の、空いている一席へ。東の扉に、いちばん近い席。その隣の席には、いま、ヴェルデンの男爵が、お一人、着いておいでです。その方には、バルテン伯爵が空ける、第五卓の八番へ、移っていただく形です」
「男爵の方は、一つ高い卓へ、上がることになる」
「はい。ご本人の了承を得てから、にします。昇格の形になりますが、断られれば、組み直します」
「連鎖は、二件。全て、書面で、ご本人の了承を」
「はい。席次表には、承認が下りるまで、手を入れません」
長官は、頷いた。
「承認します。ただ、断られたら」
「第一卓のままです」
「それでも、出しますか」
「はい。出さなければ、何も、決まりませんから」
長官は、しばらく、私を、見ていた。
それから、ペンを取り、紙の隅に、小さく、署名を書いた。
「承認」
字は、いつもより、少し、柔らかかった。
手紙は、その夕刻、まとまった。
『バルテン伯爵閣下
三週間前、閣下は、出席の返書の余白に、戸口に近い席を、と書き添えられました。当時、第五卓には、戸口側の席がなく、お断りの返事を差し上げております。
このたび、第二十四卓に、一席、お移りいただける余地が生じました。東の扉に最も近い席の、すぐ隣です。
ただし、その東の扉に最も近い席には、ザルツ使節団の団長ハインリヒ・フォン・ザルツ殿が、お着きになります。団長殿は、ザルツの古式に則り、戸口に近い席を、ご希望になりました。
閣下のご希望は、戸口に近い席であって、団長殿のお隣ではありませんでした。それを承知のうえで、お願いするものです。
お断りになっても、閣下には、何の傷も、つきません。お返事を、明日の朝十時までに、賜れれば幸いです。
王宮典礼局 臨時書記 セシリア・ローレン
(長官 レオンハルト・グレイヴス 承認)』
私は、封をした。
「トビアス」
「はい」
「これを、バルテン伯爵の、お屋敷に。直接、手渡しで。お返事は、急がせないように」
「承知しました」
トビアスは、封書を、胸に、抱えて、走っていった。
窓の外が、夕焼けに染まっていく。
私は、白い紙の三行の下の、空白に、ペンを、置いた。
ヘルマン・バルテン。
その名を、書き入れた。
けれど、まだ、これは、私の名ではない。伯爵が、頷いてくださるまでは、ただの、空白の、一つ下の、文字にすぎない。
一時間後、トビアスが、戻ってきた。
「ローレン様。お屋敷の、執事の方が、受け取られました。伯爵は、郊外の領地へ、出かけておいでとのことです。お戻りは、今夜遅く、とか」
「お手紙は」
「必ず、お渡しすると。お返事は、明朝に、とのことです」
「ありがとう」
息を、一つ、吐いた。
明日の正午まで、あと、一日足らず。
伯爵が、今夜、手紙を、読む。
そして、明朝、答える。
その返事を、私は、ここで、待つしかない。
局の窓の外では、夜の最初の灯りが、一つ、点った。
帰り道、下宿の戸口に、ブラント夫人が立っていた。
「遅かったね。夕食は、取ってあるよ」
「ありがとうございます」
「悪い疲れ方じゃないね。いい顔をしてる」
食卓に着くと、温かい豆の煮込みが、出てきた。
匙を取って、一口、食べる。
今日、私は、自分の名で、図を出した。自分の名で、一人の人に、手紙を書いた。断られるかもしれない、手紙である。
三年間、伯爵夫人のための字を、書いていたときとは、違う。いまの字は、私の字だ。誰の筆の代わりでもない。
怖くなかった、とは言えない。けれど、書かずにいる方が、ずっと、怖かった。
そう思えるようになったのは、いつからだろう。
窓の外には、夜が、降りていた。
明日の朝十時。
その時刻に、私の名が、一つ、決まる。




