私の図です
朝の八時二十分、官房へ向かう階段の途中で、長官の足が、止まった。
東翼へ続く、石の階段である。段は広く、手すりは冷たい。
長官は、その手すりに、片手を置いていた。
「長官」
「大丈夫です。少し、足が、重いだけで」
「朝は、召し上がりましたか」
「紅茶を」
「それは、食事に数えません」
私が言うと、長官は、虚を衝かれたように、こちらを見た。
それから、小さく、息を漏らす。笑ったのだと思う。
「……数えない、ですか」
「はい。長官が、私に言ったのと、同じ理屈です」
私は、外套の隠しから、紙に包んだパンを、取り出した。
下宿のブラント夫人が、今朝、持たせてくれたものだ。麦の粉の、素朴な丸いパン。二つあるうちの一つを、半分に、割る。
「どうぞ。半分で、結構です」
「あなたの朝食でしょう」
「半分ずつにします。持ち帰りの、半分と、同じです」
長官は、しばらく、掌の上のパンを、見つめていた。
階段の窓から、朝の光が、斜めに差している。その光の中で、長官は、ゆっくりと、パンを口に運んだ。
「……温かい」
「夫人が、焼いたばかりですから」
「ありがとう。行きましょう」
足取りが、少しだけ、確かになる。
私は、その半歩後ろを、図の筒を抱えて、ついていった。
官房の応接室は、朝の光に満ちていた。
窓際の長い卓に、ヴァイス伯爵が着いている。髪を後ろに撫でつけた、細身の初老の人。背筋が、ひどく硬い。
向かいの席に、ハインリヒ公。その斜め後ろに、ハイム典礼官。
私と長官は、卓の端に、並んで腰を下ろした。
九時の鐘が、鳴り終わる。
「お集まりいただき、感謝します」
伯爵が、口を開いた。
「官房の立場を、先に述べておきます。私は、団長殿の席を、断ってはいない。決めかねている。決めるために、三つのことを、うかがいたい」
「どうぞ」
公が、短く、答えた。
「一つ。席を選ばれた理由。二つ。乾杯の流れ。三つ。ヴェルデンの客が、その席をどう受け取るか」
伯爵は、指を、一本ずつ、立てた。
「まず、一つ目から」
「理由は、二つあります」
公は、背筋を、伸ばした。
「一つは、私的なものです。これは、ここでは申しません」
伯爵の眉が、わずかに、動いた。
「もう一つは、公のものです。ザルツの古い宴では、一行の長は、戸口に、最も近い席に着きます。全員の背中を、見守る位置です。入場を最後尾で受け持つ習わしと、同じ理由で」
「ハイム典礼官」
「事実です、侍従長閣下」
典礼官が、落ち着いた声で、答えた。
「ザルツの古式に、適っております。ただし、王宮の晩餐で、賓客の長を末の卓に着かせた例は、私の知る限り、ございません」
「ええ。それが、問題だ」
伯爵は、卓の上で、指を組んだ。
「私的な理由の方は、聞かずにおきましょう」
「よろしいのですか」
「聞けば、官房の判断に、情が入る。公の判断に、私情を入れるわけにはいかない。私的なことは、私的なままに」
伯爵の声は、乾いている。
けれど、冷たいのとは、違う。線を、引く人の声だった。
長官が、いつも口にする、公と私の線引き。それを、思い出す。
「では、二つ目です」
伯爵が、こちらに、顔を向けた。
「乾杯の流れを、うかがいたい。式次第では、乾杯の音頭は、第一卓から。団長殿は、返礼を述べる。第二十四卓から返礼を述べられた場合、どうなる。グレイヴス長官」
「その点は、ローレン書記が、図にしています」
長官は、隣の私を、見た。
「ローレン書記。お見せしなさい」
私は、立ち上がった。
膝が、少し、震えている。けれど、筒の中から、紙を取り出す手は、震えなかった。
卓の上に、図を、広げる。
「これは、私の図です」
声が、思ったより、はっきり出た。
伯爵が、ちらりと、私を見た。
「失礼。局の図としてでなく、ローレン書記の名で出す、ということですか」
「はい。作成者は、私です。誤りがあれば、私の責任です」
隣で、長官が、何も言わずに、頷いたのが、分かった。
私は、続けた。
「広間の見取り図です。第一卓は、ここ。東の扉は、反対側の端。第二十四卓は、その扉のすぐ脇です。距離は、およそ四十歩」
指で、線を、なぞる。
「問題は、声と、合図の届き方です。模擬晩餐のとき、笛の音が、天井に反響して、東の扉へ、一拍遅れて届きました。声も、同じです。第二十四卓の声は、第一卓に、遅れて、薄く届く」
「それでは、返礼が、聞こえない」
「はい。そこで、三つの手当てを、考えました」
私は、紙の別の箇所を、指した。
「一つ。返礼の合図は、笛と、白い旗を、併せます。模擬晩餐で試した形。声が届かなくても、乾杯の瞬間は、広間全体で、一緒に分かります」
「二つ目は」
「返礼の言葉は、二行に、限ります。団長殿が、ご自分の席で、二行、述べられる。その直後、ハイム典礼官が、第一卓の近くで、同じ二行を、復唱する」
典礼官が、小さく、目を見開いた。
「私が、復唱を」
「はい。二度聞こえますから、近い卓の方も、遠い卓の方も、言葉に追いつけます」
「復唱、か」
伯爵は、顎に、手を当てた。
「典礼の形としては、悪くない。誓いの場で、復唱は、珍しくない」
「三つ目は、東の扉の周りです。退場のとき、第二十四卓は、扉に近いぶん、先に人が動きます。給仕の通り道と、重ならないように、給仕は、南側の通路から入ります」
「それは、ザルツの客を、使用人の扉近くに置く、という誤解を、招かないか」
「その点は、先日の模擬晩餐で、整理しました。東の扉は、当日、金の縁取りの布で覆います。給仕の出入りは、南の通路。東の扉は、ザルツの扉として、使います」
伯爵は、図を、長い間、眺めていた。
私の背中を、細い汗が、一筋、伝う。
やがて、顔を上げた。
「ローレン書記」
「はい」
「この図の、第二十四卓の周りに、あなたは、赤い印を、一つ、付けている。これは、何です」
「……その卓に、ヴェルデンの高位の方が、一人もいないことを、示す印です」
「そのとおり。私が、三つ目に聞きたかったのは、そこです」
伯爵は、指を、三本目に、折った。
「ヴェルデンの客は、広間の端に、団長殿を見る。そして、その卓を見回す。ヴェルデンの下位の貴族が十人、ザルツの若者が四人。そこに賓客の長が座っている。冷遇、と取る者は、必ず出る」
「はい」
「私的な理由は、公にできません。公の理由は、ザルツの古式。それは、事実だが、半分でしかない。ヴェルデンの側に、もう半分の、歩み寄りが、見えなければ」
伯爵の声が、少しだけ、和らいだ。
「条件を出します。三つ」
卓の上で、伯爵は、指を、一本ずつ、立てた。
「一つ。席を選んだ公の理由は、『ザルツの古式』の、一本に。私的な理由は、どこにも、書かず、語らない」
「承知しました」
公が、頷く。
「二つ。返礼の乾杯は、旗と笛、復唱の形で。ハイム典礼官、復唱の文は、事前に、団長殿から」
「かしこまりました」
「三つ。第二十四卓に、ヴェルデン側の高位の者を、一人。団長殿の隣に」
私は、息を、止めた。
「高位の、一人」
「ええ。団長殿が、末の卓で、孤立して見えないように。それも、官房が命じて座らせたのだと、見えない形で」
伯爵は、私の方に、視線を、向けた。
「その人選を、あなたに、任せたい。ローレン書記」
「……私に、ですか」
「官房は、中立です。私が名を挙げれば、官房の意向になる。グレイヴス長官が挙げれば、局の意向になる。席次表の作成者が挙げ、理由を述べる形が、いちばん、角が立たない」
隣で、長官の気配が、動く。
ちらりと、横を窺う。
長官は、何も言わなかった。
ただ、いつもより、少しだけ、深く、頷いた。
かばわない。けれど、隣に立つ。
あの言葉の意味が、いま、また、一つ、分かった気がした。
「ただし」
伯爵が、付け加えた。
「近づけすぎてはならない。団長殿の慰めに置かれた者、と見えてもならない。ヴェルデンの誰かが、『あの席を選んで、座りたがった』と、見える人であること。そういう名を、明日の正午までに」
「明日の、正午」
「条件が整えば、承認します。整わなければ、第一卓のままです」
「承知いたしました」
私は、深く、頭を下げた。顔を上げたままでは、足元が、定まらなかったからだ。
散会のとき、公が、私の傍で、足を止めた。
「ローレン書記」
「はい、団長殿」
「あの図は、あなたの名で、出されましたね」
「はい」
「それは、よいことです」
公は、それだけを言って、ハイム典礼官と共に、部屋を、出ていった。
廊下に出ると、長官が、私の隣を歩き出した。
「ローレン書記」
「はい」
「名を、挙げるのは、あなたです。私は、挙げません」
「分かっています」
「ただ、あなたが、挙げた名を、一緒に、見ます。誰の名が、あなたの目に浮かんでいるか、ではなく、なぜ、その名なのか。理由を、聞かせてください」
「……はい」
「あなたの仕事です」
長官の声は、静かだった。
階段を下りる足取りは、さっきよりも、しっかりしていた。パンの力かもしれない、と、思う。
局に戻ると、私は、席次表の写しを、机に広げた。
触れてはいけない。承認が下りるまでは、一文字も、動かさない。
けれど、見ることは、許されている。
ヴェルデンの高位の者。第二十四卓に、座りたがったと見える人。
円卓の中に、誰かの姿が、浮かんでは、消えた。
爵位だけで選べば、官房の指名と同じになる。身内ならば、依怙贔屓になる。
私が、動かさないと決めた線の、そのまた外側で、私が、一人の名を挙げなければならない。
窓の外は、眩しいほどの、秋の青空だった。
建国祭まで、あと、二日。
私は、ペンを取り、白い紙の隅に、書き出した。
一、近づけも、遠ざけもしない。
二、慰めに、見えない。
三、自分で、座りたがったと、見える。
その三行の下に、まだ、何も書けない、空白の行を、一つ、引いた。




