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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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立ったまま、失礼する

「立ったまま、失礼する」


それが、侯爵の、最初の言葉だった。


低く、少し掠れた声である。


「座れば、私は、言い訳から始めてしまう。それは、したくない」


「構いません。私も、立ちましょう」


公の声は、穏やかだった。


二人は、待合の間の中央で、向かい合って立っている。私が斜めに置いた二脚の椅子は、どちらにも使われないまま、壁際の影に、収まっていた。


扉の脇から、二人の横顔が、見える。


廊下の端では、マルタが、小さな帳面を膝に広げていた。ペンの先は、紙の上で、止まったままだ。


私的な面会の規程では、記録するのは、入室と退室の時刻だけ。内容は、残さない。マルタは、時計を見ていた。


私も、同じだった。聞こえる言葉は、書かない。覚えもしない。ただ、扉の番として、そこに立つ。


「ハインリヒ殿」


侯爵が、口を開いた。


「二十年前、私は、あなたを、広間の端へ追いやった」


公は、何も言わない。


「父の命令だった。病の床から、そう言われた。だが、命じたのは父で、立ち上がって声を上げたのは、私だ。あの夜、あの広間で、私が、言った」


侯爵の声が、わずかに、震える。


「だから、これは、父の話ではない。私の話だ。……申し訳なかった」


言い終えて、侯爵は、深く、頭を下げた。


白髪まじりの頭が、低く、低く、下がっていく。


長い時間だった。


少なくとも、私には、そう思えた。


「顔を、上げてください」


公が、静かに、言った。


侯爵が、ゆっくり、体を起こす。


「あなたが抗議したことは、存じています。あの夜、私は、あの席で、聞いていました」


「……そうか」


「ええ。聞こえていたのです。あなたの声も、ルドルフ殿が、私の肩に、そっと手を置いた、その重さも」


公は、一度、息を、継いだ。


「謝罪は、受け取ります」


侯爵の肩が、わずかに、動く。


「ですが、受け取ることと、あの夜が、なかったことになるのは、別の話です。それは、お互いに、分かっているはずだ」


「分かっている。許してくれ、とは、言わぬ」


「許す、許さないは、二十年の間に、置いてきました」


公は、微かに、笑った。


「一つ、告白させてください。あなたが抗議したと聞いたとき、私は、怒るより先に、羨ましかった」


「羨ましい?」


「ええ。声を上げられる立場が。私の柱では、末の者は、声を上げません。上げる場所が、ない。母は第七柱。私は、そこで育ちました。黙って、歩きました。皿に、手もつけず」


侯爵は、息を、呑んだ。


「あなたは、怒りを、声にできた。私は、できなかった。あの夜、私が抱えて帰ったのは、あなたへの恨みだけではない。声を上げなかった、自分への、苦さです」


私は、扉の脇で、拳を、握りしめた。


爪が、掌に、食い込む。


我慢していた頃の、私のことのようだった。


声を上げなかった、苦さ。


言えば居場所がなくなると思った、あの頃の、母の、顔。


「だから、今度は」


公の声が、少し、強くなる。


「今度は、私が、声を上げて、選んだ席に、座ります。第二十四卓、東の扉に、いちばん近い席です」


「あの端の卓を、あなたが……」


「ええ。二十年前、私は、あそこへ、歩かされました。皿に、手をつけなかった。今度は、自分の足で行って、自分の手で、食べたい」


侯爵が、言葉を失った。


「あの夜の席を、私の席に、したいのです。あなたへの、当てつけでも、ヴェルデンへの、抗議でもない。ただ、あの夜を、食べて終わりたい。そういう、わがままです」


侯爵は、しばらく、動かなかった。


やがて、低い声が、漏れた。


「……それは、わがままとは、呼ばない」


「そうですか」


「私が、望んだのは、上座だった。あなたが、望んだのは、端の席。同じ『席』という言葉で、まるで、逆だ」


「ええ。可笑しな、ことです」


公は、小さく、息を、吐いた。


「ところで、あなたの席の、右隣は、ご存じでしょう。ヴェルナー夫人です」


「通知は、受け取った」


「あの方は、よい方です。私の祖母より、物知りで。きっと、あなたの話し相手に、なります」


「……あなたは、そこまで、見ておられたのか」


「席次表は、署名が、美しかったので」


公の目が、扉の方へ、ちらりと動いた。


私は、慌てて、目を伏せた。


頬が、熱い。


私の、書いた席次表だ。名簿の仮名を、一人ずつ、迷いながら、書いたものだ。


けれど、あの紙が、二人の間の、小さな橋の、一本になったのなら。


そのとき、廊下の奥で、小さく、鐘が鳴った。


十五分の、合図だった。


マルタが、帳面に、時刻を、書き入れる。ペン先が、さらりと、動く。


「もう、時間か」


侯爵が、呟いた。


「短いものですな。二十年に、十五分とは」


「十分な、長さです。二十年分の、言葉を、全部は、いりません」


「また、会えるだろうか」


「建国祭の晩餐で。……ただし、あなたの席は、第三卓です。私の席は、第二十四卓。離れています。それも、悪くない」


「遠い」


「ええ。遠くからでも、見えます。円卓は、互いを、見渡せる形ですから」


侯爵が、わずかに、口元を、緩めた。


こわばっていた顔の線が、初めて、ほどける。


「あの形を、考えたのは、誰だ」


「……席次表を書いた、あの方と、典礼局の者たちでしょう」


公は、また、扉の方に、視線を向けた。


侯爵も、振り返る。


私は、背筋を、伸ばした。


「ローレン書記」


侯爵が、呼んだ。


「はい」


「あなたの席次表を、よく、守ってくれた」


「恐れ入ります」


「約束は、守られた。私が、礼を、言う番だ」


侯爵は、杖のない手を、胸の前に、軽く、置いた。


「それだけだ。……ハインリヒ殿、失礼する」


侯爵は、一礼して、扉の方へ、歩き出した。


私の前を、通り過ぎる。


そのとき、侯爵の目が、少し、赤いのに、気づいた。


私は、見なかったことに、した。


侯爵の足音が、廊下を、遠ざかっていく。


マルタが、帳面を、閉じた。


「十七時二分、入室。十七時十七分、退室」


「……はい」


「内容は、ありません」


マルタは、そう言って、小さく、眼鏡を、押し上げた。


公は、待合の間に、ひとり、残っていた。


椅子の一脚に、ようやく、手を置く。


「ローレン書記」


「はい、団長殿」


「水を、一杯、いただけますか」


私は、杯に、水を注いだ。


差し出した杯を、公は、両手で受け取った。一口、飲む。喉が、ゆっくりと、動いた。


「ありがとう。……聞こえていましたか」


「聞こえました。ですが、記録には、取りません。覚えようとも、しておりません」


「それで、結構です」


公は、杯を、卓に、戻した。


「あなたの問いは、まだ、お預かりしている。後で、聞かせてください」


「はい」


「焦る必要は、ありません。席は、見つけるものでも、与えられるものでも、ない。座ると、決めるものです」


公は、そう言って、廊下へ、歩き出した。


その背中が、ほんの少し、軽く見えた。


ハイム典礼官が、数歩、遅れて、続く。


廊下の暗がりに、二人の足音が、消えた。


「ローレン書記」


呼ばれて、振り向くと、長官が、すぐ傍に立っている。


声が聞こえない距離にいたはずの人が、扉の傍にいる。


足音は、聞こえなかった。


「……お疲れさまでした」


「聞こえていましたか」


「いいえ。扉の見える位置にいました。侯爵が、頭を下げるところと、お帰りになるところを」


「そうですか」


「記録は」


「入室と退室の時刻のみです」


「正しい」


長官は、短く、答えた。


けれど、その目は、少し、笑っていた。


「ローレン書記。今夜、もう一つ、報告があります」


長官が、懐から、封筒を、取り出す。


官房の紋章の、押された封筒。


「ヴァイス伯爵からです。団長殿の席の件の、返事が来ました」


「……拝見します」


開くと、一枚の便箋に、整った字で、短く、書かれていた。


『第二十四卓の件、現時点では、承認しない。


ただし、ハインリヒ公ご自身が官房へ出向き、理由を直接述べるならば、聞く。


明朝、九時。


侍従長官房 ヴァイス』


私は、便箋を、二度、読んだ。


「承認はしない。けれど、聞く、と」


「そうです。官房は、断ってはいません。ただ、決めるのは、団長殿ご自身の言葉を聞いてから、と」


長官は、封筒を、静かに、畳んだ。


「あなたの図が、明朝、役に立つかもしれません。団長殿が、官房で、どう話すか。官房の側に、何を示せるか」


「……はい」


「長官」


「はい」


「さっきの団長殿のお話を、聞きながら、思っていました。声を上げなかった苦さ、というのを」


「ええ」


「私は、三年間、黙って、書き続けました。あれは、苦さを、ためていく作業でもありました。言えば居場所がなくなる、と思って」


長官は、すぐには、答えなかった。


廊下の窓に、横顔が、映っている。


「声を上げる、というのは、大声を出すことではありません」


「はい」


「今日の侯爵は、立ったまま、頭を下げました。あれも、声です。団長殿が、水を一杯、頼んだのも」


「水、ですか」


「ええ。自分が、いま、何を必要としているかを、口に出して、頼める。簡単なようで、難しいことです」


長官は、そこで、少し、言い淀んだ。


「私は、昨日まで、父が、何も話さなかったと、信じていました。聞きもしなかった。聞けば、答えを、知ってしまうと思って」


「長官……」


「声を上げなかったのは、団長殿だけではない。私も、同じ側に、いたのだと思います」


その声は、低く、乾いていた。


返す言葉を、探す。


けれど、見つからない。


だから、待合の間の卓から、水差しと杯を取ってきて、水を注ぎ、差し出した。


長官は、一瞬、目を見開いて、それから、杯を、受け取る。


「……ありがとう。いただきます」


一口、飲む。


その喉の動きを、私は、黙って、見ていた。


窓の外は、すっかり、暗くなっている。


長官が去ったあと、私は、一人で、待合の間に戻った。二脚の椅子は、結局、どちらにも座られなかった。


私は、それを、そっと、壁際へ、戻す。


建国祭まで、あと、三日。


明日の朝、公は、官房で、自分の席のことを、自分の言葉で、話す。


そして、私は、まだ、自分の席を、持っていない。

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