あなたの席は、どこにありますか
朝の七時半に局へ着くと、長官の部屋の扉の下から、灯りが漏れていた。
ノックをして、入る。
長官は、机に向かっていた。昨日と同じ濃い灰色の上着。襟は整っているのに、目の下に、薄い影がある。
「お早うございます、長官」
「お早うございます、ローレン書記」
「早いのですね」
「家には、帰りました。持ち帰りも、していません。ただ、家で、眠れなかっただけです」
「それは、数えません」
「ありがとう」
長官の口元が、わずかに、動いた。
私は、持ってきた紅茶を、机の端に置いた。下の給湯室で淹れたばかりで、まだ湯気が立っている。
長官は、その湯気を、しばらく見ていた。
それから、カップを取り、一口、飲む。
「……熱い」
「冷める前に、お飲みください」
「そうします」
そう答えて、長官は、もう一口、飲んだ。冷めた紅茶ばかりを、机の上に並べていた人が、である。
私は、何も言わずに、頭を下げて、部屋を出た。
建国祭まで、あと三日。
今日の夕刻には、モーリス侯爵とハインリヒ公の面会がある。場所は、典礼局の待合の間。時間は十五分。扉は、開けたまま。
侯爵の側には、昨日のうちに、官房の使いが走っている。返事は、夜の内に届いていた。
『承知した。夕刻五時に、伺う。 エルンスト・モーリス』
それだけの、短い一行である。
九時を少し過ぎた頃、事務棟の階段に、軽い足音が響いた。
現れたのは、ハイム典礼官。白い髭が、今朝は、いつもより丁寧に整えられている。手には、折り畳んだ紙が、一枚。
「ローレン書記。団長殿からの、お預かりものです」
「ありがとうございます」
受け取った紙は、厚手で、少しざらついていた。ザルツの紙だろう。
開く。
字は、細く、角張っている。
『ローレン書記殿
晩餐の席について、お答えします。
第二十四卓、東の扉に、最も近い席を希望します。
理由は、お会いしたとき、改めて。
ハインリヒ・フォン・ザルツ』
私は、紙を、二度、読んだ。
第二十四卓。
席次表の中で、いちばん端の卓だ。東の扉は、ザルツの一行が入る側の扉。その扉に、いちばん近い席は、広間の中で、いちばん「外」に近い。
胸が、どくりと、鳴った。
二十年前、あの人が、歩いていった席は、広間の、いちばん遠い端だった。
「ハイム典礼官」
「はい」
「団長殿は、ご自身の意志で、あの端の席を、選ばれたのでしょうか」
「そのように、拝察します」
ハイム典礼官は、髭を、軽く撫でた。
「一点、お伝えしておきます。ザルツの古い宴では、一行の長は、戸口に、いちばん近い席に着きます。入場を最後尾で受け持つのと、同じ理由で。すべての客の背中を、見守る位置です」
「それなら、ザルツの習わしに、適った席なのですね」
「ええ。ただし、それは、ザルツの家の宴での話です」
典礼官の声が、少し、低くなった。
「王宮の晩餐で、賓客の長を、末の卓に着かせた例は、私の知る限り、一つもございません。ヴェルデンの側が、どう受け取るか。そこは、別の話です」
「……はい」
「ですから、お預かりしたものを、まず、長官殿にお見せなさい。私の口からは、ここまで」
「承知しました」
私は、一礼して、紙を持ち、長官の部屋へ戻る。
長官は、読み終えると、紙を、机の上に、そっと置いた。
しばらく、言葉がなかった。
「ローレン書記」
「はい」
「あなたは、どう読みましたか」
「団長殿ご自身が、座り直しに行かれるのだと」
「私も、同じです」
長官は、窓の外に目をやった。
「あの人は、二十年前、あの端の席で、皿に、一度も、手をつけなかった。今度は、同じ端の席で、食事をする。自分で選んで」
「はい」
「それは、あの人にとって、大きな意味を持つ。ですが」
長官は、視線を、戻した。
「官房の式次第では、団長殿の席は、第一卓です。乾杯の音頭は、第一卓から。賓客の長が、東の端の卓に着けば、乾杯の流れが、変わる。ヴェルデン側の客が、何を見て、何を思うか」
「冷遇、と受け取る方も、いらっしゃいます」
「ええ。そして、ザルツの側にも、同じ疑いを持つ者が、出るかもしれません」
長官は、そこで、言葉を切った。
「官房へは、私が持っていきます。ヴァイス伯爵に、事実と、団長殿のお考えを、そのまま伝える。承認は、官房の仕事です。あなたの仕事は、別にある」
「席次表の側、ですね」
「そうです。団長殿が第二十四卓に着いたとき、人の流れが、どう動くか。乾杯、給仕、退場。東の扉の周りに、何が起きるか。それを、図にしてください」
「承知しました」
「それと」
長官が、静かに、付け加えた。
「あなたの席次表には、手を入れないでください。承認が下りるまでは。入れたくなる気持ちは、分かりますが」
「……はい。入れません」
「結構です」
席に戻って、席次表の写しを広げた。
第二十四卓。十五席のうち、十四席が、すでに埋まっている。ヴェルデンの下位の貴族が十席。ザルツの第七柱の、若い者が、四人。トマス・リンデ。ヨーゼフ・ブレンナー。馬丁と、従者と、見習い。
残る一席は、欠席の返事があった男爵の席だった。
これは、私が仕掛けたものではない。ただ、そこに、一席、空いていた。
だが、空席に団長を座らせる、と書いてしまえば、それで済む話でもない。
隣に座るのは、誰になるのだろう。給仕が入るのは、どちらの扉だろう。乾杯のとき、団長は立つのか、座ったままで通すのか。第一卓の声が、あの席まで届くかどうかも、確かめなくてはならない。
私は、白い紙に、東の扉を、描いた。
そこから、卓を、一つずつ、描き足していく。
トビアスが、横から、覗き込んだ。
「ローレン様。団長殿は、本当に、末席に」
「まだ、決まっていません。ですから、これは、仮の図です」
「でも、僕は、その席で、よい気がします」
「どうして」
「あの方が、あそこで、やっと、食べられる気がして」
トビアスは、少し照れたように、笑った。
私は、ペンを、止めた。
そうだ。あの人は、皿に手をつけなかった。
では、今度は、同じ端の席で、あの人に、温かい皿を、出せばいい。
「トビアス」
「はい」
「第二十四卓の給仕を、厨房に、確認してください。一番、手の空いた、動きの落ち着いた給仕を。人選は、あなたに任せます」
「はい。ですが、まだ、承認が」
「承認が出たら、すぐに動けるように、しておくのです。席次表に手は入れません。人の流れの下調べは、私たちの仕事です」
「分かりました」
トビアスは、急いで、部屋を出ていった。
昼の鐘が鳴る頃、マルタが、昼食の包みを持って、私の机の前を通りかかった。足が、止まる。
「ローレン書記。団長殿の、お席の件ですね」
「ご存じなのですか」
「ハイム典礼官が、先に話してくれました」
マルタは、眼鏡の位置を、直した。
「昨日から、肩が軽いのです。二十年、あの記録を守ってきました。守ることしか、できませんでした。それが、一人の人の席を取り戻す手伝いになるとは、思いもよらず」
「ベル書記官」
「……あなたが、記録の裏を、見つけたからです」
「いいえ。棚の奥で守ってくださっていたのは、ベル書記官です」
「では、お互い様、ということにしましょう」
マルタは、小さく、頷いた。
「今夜の面会は、私は、待合の間には入りません。廊下の端で、記録を取ります。立会いではなく、証人の、そのまた、後ろで」
「お願いします」
「ええ。あなたは、扉の前に」
そう言い残して、マルタは、自分の席に戻っていった。
午後は、東の扉の周りの図に、没頭した。
給仕の動線。乾杯のときの、人の向き。退場の順番。紙の上で、点と線が、少しずつ、増えていく。
気がつくと、窓の外が、茜色に染まっていた。
四時半。
待合の間へ、向かう。
石の廊下の突き当たり、あの低い天井の部屋。リリアと向き合った、あの日の椅子が、壁際に、並んでいる。
私は、椅子を、二脚、選んだ。
向かい合わせでは、近すぎる。並べても、遠すぎる。斜めに、少しだけ、角度をつけて、置いた。
水差しと、杯を、二つ。小さな卓の上に。
扉を、開ける。蝶番が軋まないように、油を、差してある。
その扉を、端まで、押し開けた。
「ローレン書記」
振り返ると、長官が、廊下に立っていた。
「準備は」
「整っています。扉は、開け放しに。私は、廊下の、この位置です」
「私は、あちらにいます」
長官は、廊下の、少し離れた壁際を、示した。
「中には入りません。声が聞こえない距離で、扉の見える位置に」
「はい」
「ローレン書記」
「はい」
「官房の返事は、まだです。ヴァイス伯爵は、今夜中に、と」
「分かりました」
「あなたが、今日描いた図は、見せてもらいました。よく、出来ています」
「ありがとうございます」
「ただ、一つだけ。図の端に、あなた自身の立つ場所が、どこにも、書かれていなかった」
私は、息を、止めた。
「……晩餐の席次表は、私の席を、記載する欄が、ありませんから」
「そうですね」
長官は、それ以上、何も言わない。
ただ、わずかに、眉を、寄せた。
そこへ、階段の方から、靴音が、近づいてくる。
先に姿を見せたのは、モーリス侯爵。濃紺の外套に、杖はなし。隣に、夫人はいない。単身である。
「ローレン書記」
「お待ちしておりました、侯爵閣下」
「五時には、まだ、少しあるな」
「はい。お先に、お掛けになりますか」
「いや。立って、待つ」
侯爵は、待合の間の中央に、立った。
背筋を伸ばしたまま、窓の外を、見つめている。その手が、外套の裾を、きつく、握っていた。
五時の鐘が、鳴り終わる、ちょうどそのとき。
廊下の奥から、足音が、近づいた。
ハインリヒ公だった。濃い青の外套。ハイム典礼官が、数歩、後ろに従っている。
公は、扉の前で、足を止めた。
私に、視線を向ける。
「ローレン書記」
「はい、団長殿」
「席の件は、お読みいただけましたか」
「拝読しました。官房に、お伝えしてあります。承認は、今夜中に」
「そうですか」
公は、わずかに、頷く。
それから、少し、声を、落とした。
「理由は、お話しすると言いました。ですが、先に、一つだけ、お聞きしたい」
「何でしょうか」
「あなたの席は、どこにありますか。この晩餐の、広間の中で」
私は、答えようとして、言葉に詰まった。
席次表の、どこにも、私の名は、ない。記録係は、壁際に立つ。扉の脇に、控える。席は、もともと、用意されないものだ。
そう答えれば、よい。
けれど、公の目は、その答えを、待っていなかった。
「……ありません。まだ」
「そうですか」
公は、短く、答えた。
「では、後で、聞かせてください」
そう言うと、公は、扉の内側へ、一歩、踏み込んだ。
待合の間の中央で、侯爵が、振り向いた。
二人の視線が、ぶつかる。
二十年ぶりの、距離だった。
私は、扉の脇に、立った。
背中に、廊下の、冷たい石の壁が、触れる。
部屋の中から、侯爵が、一歩、前に出る気配がした。
その、最初の言葉を、私は、聞いた。




