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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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座り直す

閲覧の朝、私は、夜明け前に、書庫の鍵を、回した。


棚の奥から、七九二年の記録を、両手で、抱え出す。革の表紙は、二十年の時間で、角が丸くなっている。重さは、思っていたより、ずっと、軽い。


階段の途中で、一度、足を止めた。


その記録の、裏表紙の内側には、いまは、何も、挟まっていない。封書は、別の箱の中。小さな真鍮の鍵は、上着の内側にある。


閲覧室の机に、記録を、置いた。


その上に、手を、そっと、重ねる。


二十年前の夜、この革の表紙を、綴じたのは、マルタだった。


「ローレン書記」


扉の方から、声がした。


長官だった。濃い灰色の外套の襟が、今朝は、きちんと、整っている。


「準備は」


「できています。……封書の箱は、廊下の長椅子に、置いてあります」


「承知しました。呼ぶまで、そこで、待機を」


「はい」


長官は、記録の背に、一度だけ、目を落とした。


「ローレン書記」


「はい」


「昨夜は、眠れましたか」


「あまり。長官は」


「同じです」


長官は、ほんの少し、口元を、緩める。


「持ち帰りは、ゼロでした。ですが、眠りも、ゼロです」


「それは、数えないことにします」


「ありがとう」


そこへ、廊下の方から、足音が、近づいてきた。


先頭に、ハインリヒ公。その後ろに、ハイム典礼官と、マルタ。


公は、昨日と同じ、濃い青の外套だった。ただ、襟元に、見慣れない、小さな銀の飾りが、一つ、留められている。


「お早うございます」


「お早うございます、団長殿」


私は、深く、頭を下げた。


公は、閲覧室の中を、ゆっくりと、見渡した。


机の上の、記録に、目を止める。


その足が、わずかに、止まった。


「……これが」


「七九二年の、接遇記録です」


長官が、答える。


「どうぞ、ご覧ください」


公は、一歩、机に近づいた。


指先が、革の表紙に、触れる寸前で、止まる。


マルタが、公の斜め後ろで、小さく、息を吸う。


公は、振り返り、マルタに、視線を向けた。


「あなたが、綴じられたと、聞いています」


「……はい」


マルタの声は、いつもより、ずっと、低かった。


「二十年前の、あの夜、徹夜明けの、朝に。頁を揃えて、表紙に、綴じました」


「そうですか」


公は、短く、頷いた。


「一つ、お聞きしたい。あなたは、あの夜、席次表の裏の書き込みに、気づかれましたか」


「いいえ。気づいたのは、つい最近です。ローレン書記が、書庫で、見つけました」


「では、あの記録が、二十年間、傷まずに、棚に、あったのは」


「……保管の、決まりを、守っただけです」


「その決まりを、二十年、守ってくださった」


公は、そう言って、マルタに、深く、頭を、下げた。


「ありがとうございます」


マルタの肩が、びくり、と、震えた。


眼鏡の奥で、何かが、揺れたのが、分かった。


「閲覧を、始めさせてください」


公は、椅子に、腰を、下ろした。


「立会いは、長官殿と、ベル書記官に。他の方は、ご遠慮を」


「承知しました」


ハイム典礼官が、一礼して、下がる。


私も、頭を、下げて、廊下へ、退いた。


扉が、静かに、閉じる。


長椅子の上に、封書の箱が、置いてある。


私は、その隣に、腰を、下ろした。


膝の上に、箱を、のせる。小さな箱だ。両手で、包める。


閲覧室の中から、何も、聞こえなかった。


頁を繰る、乾いた音が、ときどき、扉の隙間から、かすかに、漏れてくる。聞こえるのは、それだけ。


時間が、ゆっくりと、流れていく。


窓の外で、鳥が、一声、鳴いた。陽が、廊下の床に、細い四角を、描いている。その四角が、少しずつ、横へ、動いていく。


どれくらい、経っただろう。


扉が、細く、開く。


マルタが、顔を、出した。目は、赤い。けれど、背筋は、まっすぐに、伸びている。


「ローレン書記。箱を」


「はい」


私は、立ち上がった。


箱を、両手で、胸の高さに、抱えて、閲覧室へ、入った。


机の上に、七九二年の記録が、開かれている。


席次表の頁。その、裏。


鉛筆の、小さな書き込みの、上に、公の指が、置かれていた。


『モーリス嗣子の抗議により、随行者一名を、末席へ。要再検討』


「ローレン書記」


長官が、静かに、言った。


「鍵を」


私は、上着の内側から、真鍮の鍵を、取り出した。


箱の錠に、差し込む。


かちり、と、小さな、音が、閲覧室に、響いた。


蓋を、開ける。


薄い赤の封蝋。ルドルフ・グレイヴスの、字で書かれた、宛名。


長官が、封書を、両手で、取り上げた。


「ハインリヒ公」


声が、静かだった。


「これは、父の遺したものです。七九二年の記録の、裏表紙の、内側にありました。目録には、載っておりません。差出人は、ルドルフ・グレイヴス。宛名は、閣下です」


公は、息を、止めた。


「開けておりません。ここにいる、ローレン書記が、発見し、事実のとおりに、報告しました。以来、ひと月近く、鍵のかかる箱の中に、保管してきました」


「未開封……」


「はい。私も、開けませんでした。開ける資格は、ありません」


長官は、封書を、公の前に、差し出す。


その手が、ほんのわずか、震えて見える。


公は、静かに、封書を、受け取った。


指が、宛名の字を、なぞる。


「……ルドルフ殿の、字だ」


公は、封蝋に、爪を、かける。


ためらいは、ほんの一瞬。


封が、切られた。


便箋が、一枚。


公は、窓際へ、一歩、下がった。


光の中で、便箋を、開く。


読み始めた。


室内は、水を打ったように、静まり返っている。


公の目が、行を、追う。


最初の行で、目が、止まる。次の行で、呼吸が、浅くなる。


三行目で、公の手が、わずかに、震えた。


最後まで、読み終えると、公は、便箋を、胸に、当てた。


目を、閉じる。


しばらく、そのままだった。


やがて、公は、ゆっくり、目を、開いた。


「……読みます。皆さんに、聞いていただきたい」


その声は、少しだけ、掠れていた。


「ルドルフ殿は、こう、書いておられる」


公は、便箋を、持ち直した。


『ハインリヒ・フォン・ザルツ殿


あの席は、あなたの席ではなかった。


私は、それを、直せなかった。許しを、請うつもりはない。ただ、記録の裏に、これは誤りであったと、書き残した。


あなたが、いつか、この国に、再び来られることがあれば、この記録を、開いてください。


そして、あなたの席を、正しい場所へ、座り直させてください。


ルドルフ・グレイヴス』


読み終えて、公は、顔を、上げた。


長官が、立ち尽くしていた。


何も、言えずにいる。


唇が、わずかに、動いて、それから、静かに、閉じた。


「父は」


やっと、絞り出した声は、ひどく、小さい。


「何も、話さなかったのでは、なかった。書いて、渡せなかった。……それだけ、だったのですね」


「ええ」


公は、静かに、言った。


「あの方は、私に、謝罪を、していない。許しを、請うとも、書いていない。ただ、事実を、記録に、残した。そして、私に、宿題を、託された」


「宿題」


「座り直す、という」


公は、便箋を、折り畳んだ。


「二十年かかりました。ですが、私は、やっと、この国の扉を、くぐりました」


マルタが、眼鏡を、外して、目頭を、押さえる。


私は、息を、殺して、立ち尽くす。涙が、こみ上げてくる。けれど、ここで、泣くのは、私の仕事では、ない。


公は、窓際から、戻ってきた。


長官の前で、足を、止める。


「グレイヴス殿」


「はい」


「侯爵からの、申し出に、お答えします」


私は、はっと、顔を、上げた。


「お会いします。明日の夕刻。時間は、短く。場所は、公の場と、私の場の、間で」


長官は、一拍、置いて、答えた。


「局には、私的な面会の規程があります。典礼局の待合の間で、時間を区切り、扉を、開けたまま。その作法で、よろしいでしょうか」


「ええ。それで、結構」


胸が、ぎゅっと、鳴る。


あの日、リリアと向き合った、待合の間。マルタに教わった、あの規程が、いま、別の、二人のために、使われる。


「承知しました。十五分で、手配します」


長官が、頭を、下げた。


公は、小さく、微笑んだ。


「ありがとう。……それと、もう一つ」


公は、私の方へ、向き直った。


「ローレン書記」


「はい」


「晩餐の、私の席は、どこでしょうか」


「円卓には、上座も、末席も、ございません。席次表の割り振りでは、団長殿のお席は、第一卓です」


「第一卓」


「はい。ですが、ご希望があれば、お聞きします。席次表の作成者として」


私は、少し、迷ってから、続けた。


「どこに、座りたいか。それを、お聞かせください」


公は、しばらく、私を、見つめた。


それから、ゆっくり、頷いた。


「答えは、決まっています。ですが、明日、お伝えします」


「かしこまりました」


「楽しみに、していてください」


公は、封書を、懐に、収めた。


扉の前で、振り返って、長官を、見る。


「グレイヴス殿」


「はい」


「あなたは、お父上に、よく似ている。けれど、一つだけ、違う。あなたには、あなたを、隣で、支える人が、いる」


長官は、返事を、しなかった。


ただ、深く、頭を、下げる。


公が、扉の向こうへ、去っていく。


その背中を、見送りながら、私は、気づく。


二十年前、あの人は、一人で、末席に、歩いていった。


いまは、扉を、開けて、歩いていける。


窓の外で、昼の鐘が、鳴り始めた。


箱は、空になった。長官が、それを、私に、返してくれる。


「鍵も、お返しします」


「いいえ」


長官は、首を、横に、振った。


「その鍵は、あなたが、持っていてください。この局の、書庫の鍵の、隣に」


私は、掌の上の、小さな、真鍮の鍵を、見つめた。


預かる、ということは、任される、ということだ。


「……お預かりします」


そう答えて、鍵を、上着の内側に、しまう。そこには、書庫の鍵が、すでに、あった。二つの鍵が、触れ合って、静かに、鳴った。

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