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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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私の席

土曜の夜、下宿の机に、あの席札を広げた。


ザルツの厚い紙。縁に細い青い線。


表には、角張った字で、私の名と、局の名。


『セシリア・ローレン殿 ヴェルデン王宮典礼局』


裏は、白い。


引き出しの鍵は、書庫の鍵と、真鍮の鍵の隣に掛けてある。今夜、その三つを、まとめて机に置いた。


ブラント夫人は、夕食のあと、何も言わずに、蜂蜜入りの牛乳を置いていってくれた。


「飲んだら、寝るんだよ」


「はい。これを書いたら」


「書いたら、寝る。それが順序だ」


扉が、そっと閉まる。


窓の向こうに、長官の部屋の灯りが見えた。


まだ、点いている。零時の約束まで、あと一時間ある。


私は、ペンを取った。


黒い軸の、細いペン。給金の半分で買ったもの。


書く日は、自分で決める。公に、そう答えた。


今夜が、その日だった。誰に促されたのでもない。窓の灯りが、私を急かしたのでもない。五行目の紙に、二つ目の印をつけたとき、手が、自然に、この紙のほうへ動いた。


ペン先を、白い面に、置く。


しばらく、動かなかった。


何を書いても、嘘になる気がした。「頑張れ」と書けば、また耐える私に戻る。「大丈夫」と書けば、誰かの心を軽くするための言葉になる。


では、私が、私に宛てて書く言葉は、何だろう。


窓の外で、夜風が、木の葉を揺らした。


いったん、ペンを置く。


三年間の手紙の、最初の一通を思い出した。他人の挨拶状。他人の名。書き終えたとき、私は、疲れ果てて、何も感じなかった。


あの夜の私に、いま、何と言うだろうか。


ペンを、持ち直す。


一画ずつ、ゆっくりと、書いた。


『十九歳の私へ。


ここは、あなたが選んだ席です。


立っていても、座っていても、あなたの席です。


誰かに選ばれなくても、あなたは、ここにいていい。


セシリア・ローレン』


書き終えて、読み返す。


払いの先が、少しだけ、持ち上がっていた。


その癖は、直さないことにした。


インクが乾くまで、窓の向こうを眺める。


灯りは、まだ、点いている。


私は、席札を、胸の前で、そっと持った。


これは、月曜の朝、見せる。


見せるために書いたのではない。けれど、これを書いた私で、あの人の前に立ちたかった。


月曜の朝、七時前。


局の廊下は、まだ、誰もいなかった。窓の下の椅子に、朝の光が、薄く当たっている。


長官の部屋の扉は、開いていた。


机の前に、いつもの背中がある。紙は少なく、紅茶の湯気だけが、細く立っていた。


「お早うございます、長官」


「お早うございます、ローレン書記。……早いですね」


「お時間を、いただけますか。仕事の件では、ありません」


長官は、ペンを置いた。


椅子を回して、こちらを向く。


「承知しました。どうぞ」


卓の前の椅子には、座らなかった。


立ったまま、話すことにした。


あの夜、壁際に立っていた場所と、同じ高さの目線で。


「最初に、昨夜の睡眠を、お尋ねしてもいいですか」


「……零時前に、寝台に入りました。七時間、眠りました。実際に」


「六・五では、ありませんか」


「七です。今朝は、七と書けます」


長官の口の端が、少しだけ、動いた。


「ありがとうございます。それで、安心して、話せます」


息を、吸う。


吸って、止めて、吐いた。


「長官は、以前、おっしゃいました。かばいません。ただし、あなたの隣に立ちます、と」


「はい」


「あの言葉に、お答えをしていませんでした」


「お答えは、求めておりません」


「求められていないから、言うのです」


自分でも、驚くほど、声が、はっきり出た。


「待たれるのではなく、自分で、言いたいので」


長官は、何も言わない。


ただ、椅子の肘に置いた手を、静かに、膝の上へ移す。


「私は、三年間、耐えれば誰かが喜ぶと思って、生きてきました。選ばれるのを待つのが、自分の役目だと思っていました」


「はい」


「長官は、私を選びませんでした。選ばずに、私に、選ばせてくださいました。仕事も、席も、答えを出す時間も。それは、とても、難しいことだったと思います」


「難しくは、ありません。そうしたかっただけです」


「そのことが、私には、何よりも大きかったのです」


指先が、少し、震えた。


けれど、声は、止まらなかった。


「ですから、私から、言います。


私は、長官が、好きです」


廊下の遠くで、扉の閉まる音がした。


部屋の中には、紅茶の湯気と、朝の光と、私たち二人だけがあった。


「助けられたから、では、ありません。選ばれたから、でも、ありません。


隣で働きたいと思う人が、あなただったので。


そして、隣に立ちたいと思う人としても、あなただったので」


言葉を、一つずつ、置くようにして、続けた。


「返事は、いまでなくて、構いません。急がなくても、私は、局に残ります。任官は、この気持ちとは、関係がありません。長官がどう答えられても、私は、明日も、ここで、席次を作ります」


長官は、ゆっくり、息を吐いた。


「ローレン書記」


「はい」


「立ってください、とは、言いません。座ってください、とも」


「はい」


「私は、答えを、待つ側の人間でした」


長官の声は、低く、落ち着いている。


けれど、膝の上で、指が、一度だけ、握られた。


「あなたが、局に残ると決めたあの日から、ずっと、考えていました。言ってしまえば、あなたの選択を、曲げてしまうかもしれない。だから、言わないことを、選びました。言わないのは、臆病ではなく、あなたの席を、私が決めてしまわないためでした」


「はい。分かっています」


「ですが、いま、あなたが先に、言いました」


長官は、静かに立ち上がった。


「それなら、私も、事実を述べます。


私は、あなたを、好ましく思っています。仕事の隣にいる人として。それから、仕事を離れた隣にいる人としても。


あなたの『いやです』を聞くたびに、安心しました。あなたの『はい』を聞くたびに、救われました。


私は、あなたに、恩を返してほしいとは、思いません。選ばれたいとも、思いません。ただ、あなたが選ぶ道の、隣に、立たせてほしい」


喉の奥が、熱くなった。


「かばいません」


長官は、少しだけ、笑った。


「ただし、私も、あなたに、選んでいただいた上で、隣に立ちます。それが、条件です」


「条件、ですか」


「はい。私の、条件です」


私は、笑った。


涙の出る前に、笑いが、先に来た。


「承認、しましょう」


「官房の許可は、要りません」


「そうですね。局内の運用で、よいでしょう」


長官が、肩の力を抜いて、笑った。


初めて見る笑い方だった。目が、細くなって、肩が、小さく揺れる。


「長官」


「何でしょう」


「見ていただきたいものが、あります」


私は、懐から、席札を取り出した。


「土曜の夜に、書きました。公からいただいた、席札です」


長官は、受け取らなかった。


「私が読んでも、よいのですか」


「はい。読んでいただきたいから、持ってきました。見せるために書いたのではなく、書いた私で、お見せしたかったのです」


長官は、両手で、そっと受け取った。


表を見て、裏を返す。


しばらく、動かなかった。


『十九歳の私へ。ここは、あなたが選んだ席です。立っていても、座っていても、あなたの席です。誰かに選ばれなくても、あなたは、ここにいていい。』


長官の指先が、紙の端を、一度、撫でた。


「……いい字です」


「ありがとうございます」


「払いの先が、持ち上がっています」


「直さないことに、しました」


「それが、いいと思います」


長官は、席札を、私に返した。


「これは、あなたの席札です。私は、隣に、立つだけです」


「はい。それで、十分です」


私は、受け取って、胸に当てた。


部屋の窓から、朝日が差した。


廊下の足音が、増え始めている。マルタの、一定の靴音。トビアスの、慌ただしい靴音。


「そろそろ、始業ですね」


「はい」


「週報を、書きましょう」


「睡眠、七」


「持ち帰り、ゼロ」


「ええ。私の欄にも」


「ローレン書記の欄にも」


二人で、同時に言って、同時に笑った。


廊下に出ると、窓の下の椅子に、トビアスが、もう、座っていた。


「あ、ローレン書記、長官、お早うございます」


「お早う、トビアス」


「今日の席次は、どの会ですか」


「まだ、ありません。ヴェルデンとザルツの、次の晩餐は、来年の春」


「では、それまでの分は」


「基本の、整理です」


私は、掲示板の前で足を止めた。


週報の表。


私の欄に、ペンで、数字を入れる。


『睡眠 七』『持ち帰り 0』


その横に、長官の欄が、並んでいる。


『睡眠 七』『持ち帰り 0』


二つ並んだ数字は、昨日までと、ほとんど変わらない。


けれど、私の目には、違って映った。


マルタが、後ろから来て、掲示板を一瞥した。


「欄が、揃いましたね」


「はい、ベル書記官」


「……顔も、揃っています」


「え」


「報告は、以上です」


マルタは、眼鏡を押し上げて、さっさと歩き去った。


その背中は、少し、笑っている。


昼休み、私は、窓の下の椅子に座って、パンをかじった。


ブラント夫人の丸いパン。麦の味が、ゆっくり広がる。


窓の外には、楡の木。


あの夜の広間と、壁際。三年間の机と、他人の名。


遠くに見えたものが、いまは、全部、すぐそばにある。


誰かに選ばれたから、幸せなのではない。


選んだのが私だから、この席に、座っていられる。


立ちたくなったら、立てばいい。


座りたくなったら、座ればいい。


席札の裏の、私の字を、思った。


払いの先が、持ち上がった、私の字。


午後の光が、廊下に伸びている。


私は、パンの最後のひとかけを、口に入れて、立ち上がった。


机には、まだ、白紙の席次表が、待っている。


次の名を、書こう。


私の名で、私の字で、私が選んだ仕事を。

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