円には上座がない
先触れが去った日の午後は、嵐のようだった。
六人の書記が、準備室に、集められた。年も経験も、まちまちの顔ぶれだ。トビアスが、緊張の面持ちで、前に立っている。
「皆さん、ご静聴を。到着の日の、名簿の聞き取りについて、ローレン書記から、説明があります」
私は、六人の前に、書き取り用紙を、広げた。
「団長は、四十四名の名を、口頭で告げます。聞き取りの係は、二人。耳が一つでは、聞き違いが、残ります。二人が、別々に、書く。終わったあとで、突き合わせる」
「二人が、別々に、ですか」
一番年長の書記が、手を挙げた。
「はい。ザルツの言葉の音は、私たちの耳に、慣れていません。同じ音を、二人が、同じ仮名で、書いたなら、おそらく、正しい。違っていたら、団長に、確認します」
「なるほど。理にかなっている」
年長の書記は、感心した様子で、頷いた。
「聞き取りは、私と、ノール書記官が、担当します。残る四人の方は、呼名札の、清書です。団長の確認が済んだ名から、順に、札へ、書き写してください」
「承知しました」
六人が、それぞれの席に、散っていく。
トビアスが、私の袖を、そっと引いた。
「ローレン様。私の、耳は、大丈夫でしょうか」
「大丈夫です。昨日、ハイム典礼官に、ザルツの言葉の音を、少し、教わったでしょう」
「はい。ですが、あの方の、発音が、速くて」
「速かったら、遅く、と、頼んでください。典礼官から、頼めば、団長も、お断りには、なりません」
「……はい」
トビアスは、深く、息を吸って、自分の席へ、戻っていった。
その背中が、昨日より、少し、大きく見える。
夕方、マルタが、準備室の隅で、静かに、手帳を閉じた。
「宿の手配、荷の受け入れ、馬の世話。官房が、全て、動いています。局の仕事は、名簿と、席次と、札。ここだけに、集中なさい」
「はい」
「それから。今夜は、必ず、家に、帰ること。明日は、朝が、早いのですから」
「ベル書記官は」
「私も、帰ります。二十二年、前夜に局へ泊まって、うまくいった試しは、ありません」
マルタは、そう言って、小さく、笑う。
帰り際、廊下で、長官と、行き合った。書類を、両腕に、抱えている。
「長官」
「何でしょう」
「今夜の、持ち帰りは」
「……ゼロにします」
長官は、一拍、置いてから、言った。
「たったいま、決めました。ですので、この書類は、私の机に、置いて帰ります」
「承知しました。数えます」
「数えてください」
そのやりとりが、少し、可笑しかった。
長官は、書類を、抱え直しながら、不意に、言った。
「明日、ハインリヒ公の前に、立ちます。二十年前、父が、あの方の席を、直そうとして、直せなかった。その息子が」
「はい」
「正直に言えば、少し、足が、重いのです」
私は、足を止めた。
「長官」
「何でしょう」
「重くて、いいのです。重いのは、背負うものが、あるからです」
私は、言葉を、探した。
「それに。明日の長官は、お一人では、ありません。入口には、ベル書記官が。名簿の前には、私とノール書記官が。皆で、立っています」
長官は、しばらく、私を、見ていた。
「……そうでした」
ごく、小さな声だ。
「ありがとう。それだけ、言いたかった」
「はい」
「では、お休みなさい」
長官は、私に、軽く、頭を下げて、廊下の向こうへ、去っていった。
下宿に戻ると、ブラント夫人が、台所で、何かを、煮込んでいた。
「早いのね。今日は、いい日だった?」
「いいえ。大変な日でした。でも、明日が、もっと、大変です」
「まあ。それなら、今夜は、しっかり、食べなさい」
夫人は、湯気の立つ、野菜と豚肉の、煮込みを、皿に盛ってくれた。
食べながら、夫人が、言った。
「あなた、顔つきが、変わったわね」
「そうでしょうか」
「ここへ来た頃は、いつも、誰かの顔色を、うかがっていた。今は、仕事のことで、悩んでいる顔。違うのよ」
「違いますか」
「ええ。全然、違う」
夫人は、にっこり、笑った。
私は、煮込みを、一口、食べた。野菜が、柔らかく、肉に、味が染みている。
部屋に戻って、床に就いたあと、天井を、見つめた。
明日の朝は、早い。眠らなくては、と、思う。
けれど、胸の奥で、鍵が、かちり、と、鳴る気がする。
翌朝、まだ、星の残る時刻に、目が覚めた。台所へ降りていくと、ブラント夫人は、もう、起きていらした。焼きたてのパンと、温かい牛乳が、卓に、用意されている。
「出ていく前に、これを」
「ありがとうございます。早く、起きていらしたのですか」
「年寄りは、早いのよ。……行ってらっしゃい。ちゃんと、帰ってきなさい」
夫人は、玄関まで、見送ってくれた。
朝の王都は、いつもと、まるで、違う顔をしていた。
西の大通りに、早くも、人が、集まり始めている。子ども連れの家族。商店の主人たち。屋台の、焼き菓子の甘い匂い。誰もが、ザルツの使節団を、一目、見ようと、待っている。
典礼局に着くと、すでに、全員が、揃っていた。
「経路は」
「官房の警備が、大通りの、両側に、縄を張りました。先頭の騎馬は、歩く速さに、落としてあります」
「札は」
「呼名札、四十四枚、予備十枚、卓の上に」
「聞き取りの用紙は」
「六十枚、そのまま」
報告が、次々に、返ってくる。
昼前。
北門の塔の鐘が、鳴った。
王宮の、北の広場に、儀仗の兵が、整列する。ヴァイス伯爵と、長官が、並んで、門の前に立った。マルタと、ハイム典礼官が、その少し後ろ。私は、トビアスと並んで、さらに、後ろに控える。
北門が、ゆっくりと、開いた。
蹄の音が、石畳に、規則正しく、響く。空気が、ぴんと張って、旗の布が、風に、かすかに、鳴っている。
先頭の騎馬は、歩く速さだった。民衆の歓声が、遠く、波のように、聞こえる。
馬が、驚かない。
その次に、青い旗。ザルツ大公国の、紋章。
そして、一台の、黒塗りの馬車。
馬車が、止まった。
従者が、扉を、開ける。
最初に、地面に、降り立ったのは、背の高い男だった。
四十代の半ば。灰色の混じった、短い髪。飾りの少ない、濃い青の外套。目元に、深い皺があり、頬が、少し、こけている。
その人は、広場を、ゆっくりと、見渡した。
視線が、一人ひとりの顔の上を、なぞるように、動く。
そして、長官の前で、止まった。
「ハインリヒ・フォン・ザルツです」
声は、低く、静かだった。
「このたびは、予定を、早めたことを、お詫びします」
「ようこそ、ヴェルデンへ。典礼局長官、レオンハルト・グレイヴスです」
長官の声は、揺れない。
けれど、その背中が、ほんのわずか、強張っているのが、私には、見えた。
ハインリヒ公は、長官の顔を、じっと、見つめている。
長い、沈黙。
やがて、公は、静かに、言った。
「……お父上に、よく似ておられる」
長官の肩が、かすかに、動いた。
「恐れ入ります」
「その、声の使い方も。人に、気を遣わせない、静けさが」
「私は、父を、あまり、知りません」
長官は、はっきりと、言った。
「ですので、似ていると、言っていただけるのは、嬉しい。……そう申し上げて、よろしいでしょうか」
「ええ」
ハインリヒ公は、小さく、微笑んだ。
その笑顔の下に、二十年の時が、ゆっくりと、沈んでいるように見えた。
後ろで、マルタが、そっと、眼鏡に、指を当てるのが、見えた。ハイム典礼官は、白い髭の下で、唇を、固く結んでいる。二十年前の夜を、知っている人たちの、背筋だった。
「では、歓迎の間へ、ご案内します」
ヴァイス伯爵が、一歩、前に出た。
使節団の一行が、列をなして、広場に、降り立つ。四十四名。青い外套の、人の群れ。
列の中ほどに、昨日、水を差し出した、先触れの若者が、いた。目が合うと、彼は、そっと、会釈をくれる。私も、小さく、会釈を返す。それだけで、胸の強張りが、少し、ほどけていく。
私は、書き取りの用紙を、胸に抱え直す。隣で、トビアスが、小声で、囁く。
「ローレン様。手が、震えています」
「震えても、書けます。字は、手が震えても、止まりません」
母の、震える指で書かれた、あの断りの手紙を、思い出していた。
歓迎の間は、北門から、石の廊下を、抜けた先にあった。
大きな円卓が、部屋の中央に、一つ。使節団の主立った方々と、ヴェルデン側の役目の者が、共に着く、二十脚ほどの席が、円を描いて並べられている。
円には、上座が、ない。
ハインリヒ公は、部屋に入ると、円卓を、じっと、見た。
「円卓、ですか」
「はい。建国祭の晩餐会でも、この形で、お席を、ご用意しております」
長官が、答える。
「全員が、互いに見渡せる。誰も、誰かの、陰にならない。そのための形です」
ハインリヒ公は、しばらく、何も、言わなかった。
それから、円卓の縁に、そっと、手を置いた。
「……よく、考えられた、形だ」
その声が、少しだけ、揺れた気がした。
「では、名簿を」
ハイム典礼官が、前に出た。
「団長殿が、四十四名のお名前を、口頭で、お告げください。記録の正確を期するため、書記が、二人、書き取ります」
「承知しました」
ハインリヒ公の目が、私とトビアスに、向いた。
私たちは、一歩、前に出て、頭を下げる。
「書記の、ローレンと、申します」
「ノールと、申します」
「よろしく。……綴りの確認まで、心を砕いてくださると、聞いた」
「恐れ入ります」
「では、始めます」
ハインリヒ公は、背筋を、伸ばした。
深く、息を、吸う。
それから、静かな声で、告げた。
「第一位。私の名を、先に」
円卓の空気が、張りつめた。
「ハインリヒ・フォン・ザルツ。母は、第七柱」




