順番は動かせない、時間は動く
到着の五日前、準備室に、ハイム典礼官が、分厚い革の帳面を抱えて、現れた。
白い髭を、きちんと整えた老人だ。二十年、王宮の儀典に携わってきた人で、東の側扉の呼名役を、長官とともに、受け持つことになっている。
「ローレン書記。少し、お時間を」
「はい、ハイム典礼官」
「到着の日の、名簿の聞き取りについて、打ち合わせを」
ハイム典礼官は、帳面を、卓の上に開いた。
「七柱の序は、ご存じですな」
「母方の家系の、序列と、聞いています」
「その通り。ザルツでは、七つの母系を、柱と呼びます。第一柱から第七柱まで。個人の序列は、まず、母が、どの柱に属するかで、決まる」
老人は、指で、帳面の頁を繰る。
「同じ柱の中では、年長の者が、先。違う柱なら、柱の番号が、小さい方が、先。爵位は、二の次です」
「では、公の随行者でも、柱が低ければ」
「序列は、下がります。ヴェルデンの爵位の感覚とは、まるで、違う」
「ハインリヒ公は、七柱の、どちらに」
「それは、団長ご自身が、告げられること。私は、存じません」
ハイム典礼官は、淡々と、答えた。
私は、それ以上、聞かなかった。分からないことを、分からないままにしておく。それも、典礼局の、作法だ。
「ハイム典礼官。聞き取りの当日、団長は、四十四名の名を、口頭で告げます。名の綴りと、母系の柱の番号を、同時に、書き取る必要が、ありますね」
「ええ。聞き違いが、一番、怖い」
「でしたら、書き取りの用紙を、新しく、作らせてください」
私は、手帳から、一枚、紙を破いて、簡単な表を、描いた。
左から、順に。聞いた順の番号。お名前の綴り。母系の柱。年。随行の役目。
「名の綴りは、ザルツの言葉の、音で、耳に入ります。ですので、書き取る人は、音のとおりに、仮名で、書きます。その横に、綴りの欄を、空けておく。団長が、告げ終えたあとで、団長ご自身に、綴りを、確認していただくのです」
ハイム典礼官は、紙を、手に取って、しばらく、眺めた。
「なるほど。聞き違いを、その場で、潰す仕組みですか」
「はい。呼名札の、金縁の欄に、書き写すのは、その確認が、済んでからです」
「悪くない」
老人は、紙を、丁寧に、折り畳んだ。
「ただ、団長ご自身に、綴りを、確認する、という手順は、こちらからは、お願いしにくい。先方の、面目に、関わる」
「では、典礼官から、一言、添えていただけますか。『記録の、正確を期するため』と」
「それなら、言える」
ハイム典礼官は、初めて、笑った。
「あなたは、不思議な方だ。若いのに、人の、面目の、扱いが、うまい」
「いいえ。教わったのです。ベル書記官や、長官から」
「あの二人は、立派な、教師ですからな」
老人は、帳面を閉じて、立ち上がった。
扉の前で、ふと、振り返る。
「ルドルフ殿に、お教えいただいた、時期があった。私も、新米の頃に」
「そう、でしたか」
「ええ。あの方は、人の、面目の扱いを、とても、大切に、しておられた。……だからこそ、七九二年の夜は、きっと、苦しかったでしょう」
それだけ言って、老人は、出ていった。
扉が閉まったあと、私は、新しい書き取り用紙の、清書に、取りかかった。
紙は、六十枚。ペンを走らせるうちに、窓の外の、日が傾いてきた。
翌日、トビアスが、招待名簿を、持ってきた。
「ローレン様。晩餐会の、ヴェルデン側の、最終名簿が、官房から、届きました」
三百十六名の、名前が、並んでいる。
私は、第一頁から、順に、目を通した。
侯爵家、伯爵家、子爵家、男爵家。官僚。軍の将校。商会の代表。
第十四卓の欄で、手が、止まった。
『クレイン伯爵、同夫人、同嫡男アルバート』
その隣の欄。
『ハートウェル伯爵、同夫人、同令嬢リリア』
息が、ひとつ、浅くなる。
「ローレン様。何か、問題でも」
「いえ。……クレイン家と、ハートウェル家は、同じ第十四卓に、なっていますね」
「はい。爵位が、同じ、伯爵位で、領地が、近いので、官房の、割り振りで」
「ハーゲン侯爵家は」
「第六卓です」
少し、離れている。けれど、広間の、同じ側だ。
私は、名簿を、じっと見た。
席次の作成者は、私だ。この割り振りを、動かそうと思えば、動かせる。
クレイン家を、遠くの卓に、移すこともできる。ハーゲン家と、離れた位置に。あるいは、逆に。
私は、ペンを、置いた。
「ベル書記官を、呼んでください」
マルタは、すぐに、来てくれた。
事情を話すと、マルタは、名簿を、黙って、眺めた。
「動かしたいのですか」
「動かしたい、という気持ちが、あります」
「それは、公の理由ですか。私の理由ですか」
私は、一瞬、答えに、詰まった。
「……私の、理由です。クレイン家が、ハーゲン家に、近すぎると、あの縁談の、邪魔に、なるかもしれない。逆に、遠すぎると、リリアさんが、一人で、不安に、なるかもしれない」
「そのどちらも、あなたの、事情ですね」
「はい」
「席次の、作成者としての、判断では、ありません」
マルタは、きっぱりと、言った。
「近づけも、遠ざけも、しない。官房が、爵位と領地で、決めた割り振りを、そのまま、使う。それが、局の、仕事です」
「はい」
「私情で、動かした席は、いつか、必ず、ばれます。誰かが、気づく。気づいたとき、あなたの名前が、傷つく」
私は、頷いた。
そうだ。私は、すでに、一度、私情を、入れかけた。
「分かりました。そのままに、します」
「結構。ただし」
マルタは、小さく、付け加えた。
「あなたが、動かしたくなった、という事実は、覚えておきなさい。それは、あなたが、まだ、あの人たちを、気にかけている、証拠です。悪いことでは、ありません」
「はい」
「ただ、気にかけることと、手を出すことは、違います」
私は、名簿に、小さな印を、つけた。
『第十四卓 官房割り振りのとおり。変更なし』
その一行が、いま、私にできる、いちばん、正しい仕事だった。
夕刻、廊下で、長官と、すれ違った。
「ローレン書記」
「はい」
「到着の日の、行列の経路を、確認してください。西の大通りから、王宮の、北門まで」
長官は、一枚の地図を、差し出した。
私は、地図を、受け取って、赤い線を、指でたどった。
「大通りの、人出の、見込みは」
「官房の、警備の部署が、概算を、出しています。ただ、使節団を、一目見ようと、集まる、民衆の数は、読めません」
「では、先頭の、騎馬の者の、速度を、遅めに、設定します。民衆が、押しかけても、馬が、驚かないように」
「いい判断です」
長官は、地図を、受け取り直しながら、不意に、言った。
「あなたの、顔色が、少し、悪い」
「そう、ですか」
「今夜は、早く、休んでください。規則では、ありません。私の、お願いです」
「長官も、休んでください」
「……善処します」
その返事が、いつもより、少し、柔らかかった。
私は、鍵を、上着の内側で、確かめた。
書庫の鍵。封書の箱の、小さな、真鍮の鍵。
二つの鍵は、いまも、確かに、そこにある。
その翌朝だった。
門番が、血相を変えて、準備室に、駆け込んできた。
「長官! ザルツから、先触れの、騎馬の使者が、到着しました!」
「先触れ」
長官が、立ち上がる。
「到着の予定は、三日後のはずだ」
「使者の、言うところでは、団長一行は、予定を、早められた、とのことです。明日の、昼前には、王都に、入られる、と」
準備室の、空気が、止まった。
マルタが、ゆっくりと、眼鏡を、外した。
「二日、早い。三日後の、予定が、明日になった。つまり、二日、縮んだ」
「呼名札は」
私は、思わず、声を、出した。
「書記の割り振りは。侯爵への、通知は。段取りの、順番は」
長官は、私を、見た。
「ローレン書記」
「はい」
「順番は、動かせない、と言いましたね。その通りです。ですが、時間は、動く」
長官は、一度、深く、息を、吸った。
「到着の、準備を、始めます。ベル書記官、官房に、連絡を。ノール書記官、六人の書記を、集めてください。ローレン書記」
「はい」
「あなたは、鍵と、封書を、持って。……そして、息を、整えて」
私は、頷いて、準備室を、出た。
先触れの使者は、一階の待合の間に、通されている。水を一杯、運ぶ役を、私は、買って出た。
青い外套の若者が、窓際の長椅子で、背筋を伸ばして、座っていた。外套の裾は、旅の埃で、白く煙っている。長い道のりを、休まずに、駆けてきたのだろう。唇も、少し、乾いていた。
「どうぞ。お水です」
「ありがとうございます。……あの」
若者は、杯を受け取りながら、少し、迷った。
「団長からの、言付けが、もう一つ、ございます。長官殿に、お伝えいただけますか」
「承ります」
「到着が、早まったことを、お詫びします。準備を、乱すことになるのは、本意ではない。ですので、七九二年の記録の閲覧は、到着の当日ではなく、翌朝で、構いません。局の都合のよい、時刻を」
私は、思わず、若者の顔を、見返した。
自分の、一番の願いを、後ろへ回す。その上で、相手の、準備の事情を、先に、気遣う。
末席から、静かに立ち上がった人は、きっと、そういう人なのだ。
「確かに、長官に、お伝えします」
「よろしく、お願いいたします」
若者は、杯を、両手で持って、静かに、水を飲んだ。
準備室へ戻り、長官に、言付けを、そのまま、伝えた。
長官は、しばらく、黙って、聞いていた。
「閲覧を、翌朝に。……心遣いは、受け取ります。ですが、順番は、変えません。名簿の聞き取りと、侯爵への通知が、先。閲覧は、そのあとです」
「はい」
長官の声は、平らなままだ。けれど、その平らさの下で、何かが、ほんの少し、揺れた気がする。
私は、胸に手を当てて、一度だけ、息を整えた。
上着の内側の、二つの鍵が、かちり、と、小さく、鳴る。




