聞かないことにしました
面会の翌朝、長官の机に、一枚の草稿が置かれていた。
ハインリヒ公宛の書面だ。昨夜のうちに、長官が、自分の手で書いたものだった。
「確認を、お願いします」
「私が、ですか」
「事実だけを、書いたつもりです。ただ、私は、この件の当事者の、息子です。冷静さを、保てているか、確かめたい」
長官は、そう言って、草稿を、私の方へ、押し出した。
私は、一行ずつ、読んでいった。
『ハインリヒ・フォン・ザルツ公閣下
典礼局長官レオンハルト・グレイヴスより、侍従長官房を経て、謹んで申し上げます。
ヴェルデン王国侯爵エルンスト・モーリス閣下より、次の申し出がありました。
七九二年の接遇の席において、侯爵は、当時の嗣子として、閣下の席次について抗議を行い、その結果、閣下は末席へ移されました。侯爵は、そのことを二十年間、記憶にとどめておられます。
侯爵は、閣下と、公の場を離れて、短い時間、お会いになることを、望んでおられると、承りました。目的は、当時のことを、閣下に、直接、お伝えしたい、という一点のみです。
この申し出に、典礼局は、関与いたしません。お受けになるか否かは、閣下のご判断にお任せいたします。いずれの場合も、使節団の接遇に、変更はございません』
最後まで、読み終えた。
形容が、一つも、なかった。
「どうでしょうか」
「事実だけで、書かれていると思います」
私は、そう答えてから、一か所を、指で示した。
「ここだけ。『記憶にとどめておられます』という、言い回しです。侯爵は、記憶にとどめる、というより、抱えてこられました。ですが、それは私たちの解釈ですので、このままでいい、とも思います」
「抱えて、は、解釈ですね」
「はい。ですので、直さないほうが、いいと思います」
長官は、草稿に目を落として、小さく頷いた。
「では、このまま、送ります」
「はい」
「ありがとう、ローレン書記。……私は、あの人の名を、書くとき、一度、ペンが止まりました」
長官は、静かに、言った。
「ハインリヒ公。父が、宛名に書いた、同じ名です」
「はい」
「父の字を、見ながら、同じ名を、書いた。それが、今朝の、仕事でした」
私は、何も、言わなかった。言わないことが、いま、できる、いちばんのことだと、思う。
書面は、その日のうちに、官房を通して、早馬でザルツへ送られた。ヴァイス伯爵が、封の確認に立ち会い、「官房として、中立のまま、お預かりします」と、一言だけ、添える。
その夜、下宿に戻ると、玄関で、ブラント夫人が、待っていてくれた。
「アンナさんが、昼に、来たわ。あなた宛よ」
差し出されたのは、淡い桃色の封筒だった。
裏に、『リリア』の二文字。
私は、部屋に戻ってから、封を切った。
便箋は、前よりも、薄くなっていた。字の数も、少ない。
『セシリア様へ
お手紙を、ありがとうございました。読んでくださると、言ってくださったので、書きます。
お願いでは、ありません。私のことです。
アルバートに、ミレイユ様への手紙のことを、話しました。怒られると思っていたけれど、怒らないのです。
アルバートは、少し、困った顔で、こう言いました。
「リリアは、大切な友人だ。でも、友人と、家族は、違う。僕は、それを、ずっと、間違えて言っていたんだ」
私は、泣いてしまいました。それから、怒って、ひどい、と叫びました。
けれど、そのあとで、気がついたのです。私は、アルバートに、何かをしてほしくて、泣いたのではなくて、自分が、どこにいたらいいのか、分からなくて、泣いたのだと。
お茶会は、延期になりました。ミレイユ様のお父様から、少し、時間をください、と、お手紙が来たそうです。
今は、お母様に、お願いして、作法の先生に、来ていただいています。最初の日の宿題は、「あなたは、どこに座りたいですか」でした。
私は、答えられませんでした。三日、考えています。まだ、分かりません。
セシリア様に、聞きたい気持ちは、あります。でも、聞かないことにしました。
お返事は、いりません。
リリア』
読み終えて、便箋を、膝の上に置いた。
しばらく、手の中で、紙の端を、折ったり、伸ばしたりしていた。
あの子が、「聞かないことにしました」と、書いている。たった一行の、その決意を、私は、何度も、目でなぞった。
それは、私が、教えたわけではない。自分で、決めたのだ。
私は、机に、新しい便箋を、広げた。
何を、書くか。
「よく、できました」は、違う。「頑張って」も、違う。それは、上から、与える言葉だ。
ペンを、握ったまま、長い間、考える。
そうして、一行だけ、書く。
『お手紙、読みました。受け取りました。 セシリア・ローレン』
読み返して、足りない、とも、思った。けれど、足りなくて、いいのだとも、思った。
この一行は、引き受けない、という約束と、見捨てない、という約束の、ちょうど真ん中にある。
投函は、翌朝の、出勤の途中に、済ませた。ポストの口に、封筒を落とすとき、指先が、少しだけ、ためらう。それでも、手を、離した。
局に着くと、私の机の上に、メモが、一枚、置かれていた。
『昨夜の持ち帰り、ゼロ。数えてください。 L』
数えるも何も、数字は、ゼロだ。けれど、私は、週報の欄に、きちんと、『0』と、書き込んだ。
ゼロの字の、丸みが、妙に、愛おしく見える。
そのすぐあとで、マルタが、私の机の上へ、書類を、置いてくれた。
「ザルツへの書面は、無事に、国境を越えたと、官房から連絡が入りました。返書が来るのは、四、五日後でしょう」
「はい」
「その間に、確認しておきたいことが、あります」
マルタは、眼鏡を、指で押し上げた。
「あなたは、残るのですか」
不意の、問いだった。
私は、手を止めて、マルタを、見返した。
「建国祭の翌日までに、答えを出す、ということは、長官から、聞いています。ですが、あなたの、気持ちは、どちらですか」
「……まだ、決めていません」
「正直で、結構」
マルタは、小さく、鼻を、鳴らした。
「決めなさい、とは、言いません。ただ、一つだけ。決めるときには、『誰が、残ってほしいか』ではなく、『自分が、何を、したいか』で、決めること」
「はい」
「私は、二十二年、ここにいます。残ってくれと、頼まれた日は、一度もありません。いつも、自分で、残ることを、決めてきました。それが、いちばん、長続きします」
私は、頷く。
マルタは、それ以上、何も、言わなかった。ただ、立ち去りぎわに、机の端を、とん、と、一度、指で叩いていく。
答えは、まだ、ない。
けれど、問いは、胸の中に、小さく、居場所を、見つけたようだった。
あなたは、どこに座りたいですか。
リリアの、宿題の言葉が、ふいに、浮かんだ。あの子に出された問いは、私にも、向けられている気がした。三日考えても、答えが出ない、と、リリアは、書いていた。私も、同じだ。答えが出ないことは、恥ではない。ただ、考えることを、やめては、いけない。
その日の午後、トビアスが、金縁の呼名札の、増刷分を、運んできた。
「ローレン様。予備の分、十枚、追加で、刷りました。万一、お名前の綴りの、書き損じが、出た場合に」
「いい判断です、ノール書記官」
「はい。ベル書記官にも、同じことを、言われました」
トビアスは、嬉しそうに、背筋を、伸ばした。
私は、札の束を、受け取って、卓の上に、並べる。
四十四枚。そして、予備の十枚。
その一枚一枚が、到着の日に、誰かの名前を、迎える。その中に、侯爵の隣席の、名も、入る。
到着の日の段取りを、手帳の見開きに、書き出す。
まず、使節団が着き、団長が、名簿を、口頭で告げる。次に、典礼官が、それを書き取り、六人の書記が、呼名札を埋めていく。その日のうちに、侯爵へ、第三卓八番の、名と格を、お知らせする。そして、記録の閲覧の立会い。最後が、封書だ。
一日に、詰め込みすぎだ。けれど、順番だけは、一つも、動かせない。
指先で、金縁を、そっと、撫でる。縁の金が、窓の光を、ちらりと、返した。札の数が、そのまま、迎える人の数だと思うと、少しだけ、背筋が伸びる。
四日後の、昼過ぎ、準備室の扉が、慌ただしく、叩かれた。
開けると、官房の使いが、息を切らせて、立っていた。
「ザルツからの、返書です。ヴァイス伯爵が、ただちに、長官に、と」
長官が、書状を、受け取る。
私は、マルタと、並んで、その場に、立った。
長官は、封を切り、一読して、顔を、上げた。
そして、書状を、私たちの前に、置く。
『典礼局長官殿
モーリス侯爵のお申し出、拝受いたしました。
二十年前のことは、よく、覚えております。
お会いするかどうか、今は、お答えできません。到着の日、局にて、七九二年の記録を拝見したのち、お答えいたします。
ハインリヒ・フォン・ザルツ』
短い、返書だった。
けれど、一行目と、二行目の間に、長い、息が、あった。
「よく、覚えております」
マルタが、小さく、繰り返した。
「覚えている、と、あの方は、書いた」
「ええ」
長官は、書状を、静かに、折った。
「会う、とも、会わない、とも、書いていない。ただ、記録を、見てから、と」
「封書は」
「到着の日の、閲覧のあとに、お渡しします。その順番は、変わりません」
長官は、私の方を、見た。
「ローレン書記。到着の日まで、あと、六日です。その日、あなたは、書庫の鍵と、封書を、持っていてください」
「はい」
鍵は、上着の内側で、小さく、鳴った。
六日後。
二十年前の夜に、末席から、静かに、立っていた人が、この国の扉を、くぐる。




