約束できること、できないこと
面会の朝は、薄曇りだった。
侍従長官房の応接室は、王宮の東翼の、二階にある。長い廊下の突き当たりで、窓から、中庭の噴水が見えた。
長官と並んで歩きながら、私は、手帳を、強く、握っていた。
進行案は、三行。
一行目、入場の順の説明。二行目、確定した名簿を、事前に、お知らせする約束。三行目、夫人のお考えを、聞く。
「ローレン書記」
「はい」
「緊張で、手帳を、折らないように」
見ると、手帳の背が、少し、しなっていた。
私は、慌てて、手の力を抜く。長官は、前を向いたまま、ほんの少しだけ、口の端を、動かした。
扉の前に、ヴァイス伯爵が、立っていた。
「時間通りですな。侯爵ご夫妻は、すでに、お着きです」
「承知しました」
「それから」
伯爵は、私の方を、見た。
「今日は、官房として、中立を、保ちます。局の案を、擁護も、攻撃も、しません。ご自分の言葉で、お答えなさい」
「はい。そのつもりです」
扉が、開いた。
応接室の中央に、卓が、一つ。向かい合わせに、椅子が、四脚。窓際の側に、モーリス侯爵と、夫人が、すでに、座っていた。
夫人は、淡い葡萄色の、落ち着いたドレス。模擬晩餐の夜と、同じ、穏やかな表情で、私に、目礼をくれた。
侯爵は、灰色の外套を、膝に置いたまま、真っ直ぐに、前を向いている。
「お待たせいたしました」
長官が、頭を下げる。
「典礼局長官、レオンハルト・グレイヴスです。本日は、貴重なお時間を、ありがとうございます」
「こちらこそ。妻の同席を、許可いただき、感謝する」
侯爵の声は、閲覧の日と、変わらなかった。
私たちは、向かいの席に、腰を下ろす。長官が、私の右。ヴァイス伯爵は、少し離れた、壁際の椅子に、座った。
「では」
ヴァイス伯爵が、口火を切る。
「侯爵のご抗議に、典礼局が、お答えする場です。局の側の、説明を」
長官が、私を、見た。
ここから先は、私の番だ。
「典礼局臨時書記、セシリア・ローレンです。円卓案の作成を、担当いたしました」
私は、手帳を、開いた。
「まず、事実を、お伝えします。建国祭の晩餐会は、円卓二十四卓で、三百六十名。ヴェルデンの出席者は、爵位と序列の順に、西の正門から、一列で、入場いたします。ザルツの使節団は、東の側扉から、同様に、一列で。入場の順で、序列は、すべての出席者の前に、明らかになります」
「それは、承知している」
「円卓に着いたあとは、全員が、同じ高さです。ですが、そこに至る道のりでは、侯爵は、ヴェルデンの貴族の中で、最初に近いお一人として、扉をくぐられます。名誉は、入口で、示されます」
侯爵は、黙って、聞いている。
「以上が、事実です。侯爵のご抗議の、核心は、この外にあると、存じます。どうか、お聞かせください。円卓の、何が、お気に召さないのか」
言い終えて、息を吐いた。
沈黙が、落ちた。
噴水の水音が、遠くで、小さく、聞こえる。
やがて、侯爵が、口を開いた。
「円卓、という形には、異論は、ない」
「え」
思わず、声が出た。
「形に、異論はない。模擬晩餐のあと、妻から、聞いた。席が、互いに、見渡せる。誰も、誰かの陰に、ならない、と」
夫人が、隣で、小さく、頷く。
「では、侯爵のご懸念は」
「席の隣だ」
侯爵は、はっきりと、言った。
「第三卓、七番の、右隣。ザルツの使節団員。仮の名簿でも、そう書かれていた」
「はい。到着の日に、確定いたします」
「二十年前も、そうだった」
侯爵は、膝の上で、手を、組み直した。
「七九二年の、晩餐会。私は、嗣子として、末席に、近い卓に、座っていた。右隣に、ザルツの、若い随行者が、いた」
声は、どこまでも、平らだ。平らすぎて、かえって、抑えているのが、分かる。
「父は、病で、出られなかった。私が、家を、代表していたのだ。そして、父から、言われていた。『侯爵家の席は、ザルツの随行者の隣に、置かれるな。置かれたら、抗議せよ』と」
私は、息を、のんだ。
「私は、それに、従った。席に着いて、隣に、ザルツの者がいると、知るや否や。立ち上がり、典礼官に、抗議したのだ」
長官は、動かない。目だけが、侯爵に、向けられている。
「ルドルフ・グレイヴス殿は、私の抗議を、聞き入れた。その場で、隣の随行者の席を、動かされた。広間の、一番端の、末席へ、だ」
息が、止まった。
七九二年の、席次表。一番長い卓の、一番端。
『ハインリヒ・フォン・ザルツ(随行)』
「その随行者は、一言も、抗議しなかった。静かに、立って、末席へ、歩いていく。皿には、一度も、手を、つけなかった」
侯爵の声が、ほんのわずか、揺れる。
「二十年、私は、その背中を、忘れたことが、ない。……閲覧の日、席次表の裏に、ルドルフ殿の、鉛筆の書き込みを、見つけた。『モーリス嗣子の抗議により、随行者一名を、末席へ。要再検討。』と」
そこで、侯爵は、顔を、上げた。
「その随行者の、名が、ハインリヒ・フォン・ザルツ。今回の、団長だ」
誰も、口を、開かない。
壁際の、ヴァイス伯爵が、咳払いをしかけて、やめる。
やがて、夫人が、静かに、言った。
「主人は、二十年、あの夜の話を、私にも、しませんでした。模擬晩餐のあと、初めて、少しだけ」
「……そう、でしたか」
「円卓の席で、隣の若い方と、楽しそうにお話しする私を、見て。黙って、帰りの馬車で、考え込んでおりました」
侯爵は、夫人の方を、見なかった。
ただ、膝の上の、手の甲に、力が入っている。
「私が、反対していたのは、円卓では、ない」
侯爵は、言った。
「隣席だ。ザルツの者の隣に、座らされること、ではない。二十年前の、あの行いを、また、自分の席で、繰り返す、ことが、恐ろしい」
「侯爵」
「同じ席の並びで、同じ、ザルツの者が、隣に座る。私が、何をするのか。何をしないのか。私自身にも、分からない。そのことが、恐ろしい。だから、上座を、求めたのだ。遠ざかりたかった」
隣で、長官が、静かに、息を吸う。
私は、手帳に、目を落とす。
進行案の、二行目。
『確定した名簿を、到着の当日、侯爵に、事前に、お知らせする』
三行目。
『夫人の、お考えを、聞く』
三行目は、もう、不要だった。夫人は、すでに、すべてを、語っている。
では、二行目。これだけで、足りるのか。
私は、顔を、上げた。
「侯爵。一つ、お約束できることを、申し上げます」
「聞こう」
「到着の日、名簿が、確定いたします。その日のうちに、第三卓、八番の、お名前と、格を、侯爵に、事前に、お知らせいたします。晩餐の席で、初めて、お知りになることは、ございません」
侯爵は、じっと、私を、見た。
「それだけか」
「はい。それだけです」
私は、言葉を、探した。
「お約束できないことも、申し上げます。八番を、ザルツの方にしない、というお約束は、できません。侯爵のお隣だけを、例外にすれば、その例外が、人の口に、上ります。また、八番に、どなたが座るかを、侯爵ご自身が、お選びになることも、できません。ほかの卓の均衡が、崩れます」
「……約束できないことを、先に、言うのか」
「守れないお約束を、お伝えするほうが、ご迷惑だと、思います」
侯爵の目が、わずかに、動いた。
壁際の伯爵が、組んでいた腕を、ゆっくり、解く。
「約束は、守れるものだけ置く」
侯爵が、呟くように、言った。
「閲覧の日、仮の名簿を、隠さずに、見せたのも、同じ考えか」
「はい。手を入れた痕跡を、お見せするより、そのままを、お見せするほうが、信じていただけると、思いました」
「それを、信じよう」
私は、息を、つめた。
「ただ」
侯爵は、続けた。
「私の抗議は、取り下げる。円卓案に、異論は、ない。ただし、一つ、頼みがある」
「何でしょう」
「ハインリヒ公に、私が、会いたい。公の場ではなく。短い時間で、構わない。二十年前の、あの夜の、ことを」
長官が、初めて、口を開いた。
「それは、典礼局が、約束できる、範囲を、超えています」
静かな声だった。
「公の場と、私的な場の、線は、私どもが、守るべきものです。侯爵と、ハインリヒ公の、私的なお会いを、局が、取り持つことは、できません」
「承知している」
「ですが」
長官は、言葉を、続けた。
「お申し出を、お相手に、お伝えすることは、できます。官房を通して、書面で。答えるかどうかは、ハインリヒ公が、お決めになります」
「それで、十分だ」
「お伝えするのは、事実だけです。侯爵のお言葉を、飾らずに。……それで、よろしいですか」
「構わぬ」
侯爵は、目を、閉じる。
その表情は、ほんの少し、緩んだように、見えた。
ヴァイス伯爵が、咳払いを、一つ、挟む。
「では、官房として。侯爵のご抗議は、取り下げ、と、記録します。円卓案の続行に、異論なし」
「ありがとうございます」
私は、頭を、下げた。
終わった、と、胸の内で、思った。
けれど、本当は、終わっていない。ハインリヒ公の返事が、まだ、ない。到着の日に、何が、起きるのか。名簿に、誰の名が、並ぶのか。
応接室を、辞するとき、夫人が、私の袖口に、そっと、触れた。
「ローレン書記」
「はい」
「あの夜の円卓は、楽しかったわ。誰の下にも、座らなくて、済んだから」
夫人は、にっこりと、微笑んだ。
「次の席も、楽しみにしております」
「はい。お待ちしております」
廊下に出ると、窓の外の雲が、薄く、切れかけていた。私が話している間に、少しずつ、切れていったのだろう。
長官が、隣に、並ぶ。
「ローレン書記」
「はい」
「かばう必要が、なかった」
「え」
「あなたは、自分で、答えました。私は、一言も、挟んでいません。……見事でした」
私は、足を、止めた。
胸が、ぎゅっと、鳴る。
けれど、それを、顔に出さないように、手帳を、胸に抱えた。
「隣に、いてくださいました」
「立っていただけです」
「それが、いちばん、心強かったのです」
長官は、しばらく、私を、見ていた。
それから、視線を、廊下の先に、戻した。
「ハインリヒ公への書面は、今日中に、私が、書きます。あなたは、封書の、準備を」
「はい。到着の日まで、あと、十一日、でしたね」
「ええ。残り、十一日です」
十一日。
その間に、侯爵の、願いが、届く。ハインリヒ公は、答えるのか、答えないのか。
私は、手帳の、最後の頁に、小さく、書きつけた。
『十一日』
窓の外の、噴水の水音が、遠のいていく。




