断る練習
閲覧の翌日、受付の窓口に、一通の封書が届いた。
差出人は、クレイン伯爵夫人。宛名は、典礼局頒布係。
受付の若い門番が、念のため、といった顔で、準備室まで持ってきた。
「ローレン書記宛ではありませんが、お知らせだけ。お名前に、見覚えがありましたので」
「ありがとうございます。窓口の件ですので、頒布係へ、そのまま、お回しください」
私は、受け取らなかった。
封書の宛名の字だけが、目に入る。
線が太い。字の大きさが、ばらばらで、行は、右へ傾いている。以前の辞退状と、ほとんど同じ筆跡だった。けれど、一つだけ、違うところがある。
払いの先が、少しだけ、持ち上がっていた。
私が、三年間、毎月書いてきた字の、癖だ。
自分の筆跡が、人の手の中で、別のものに育っている。その事実に、胸が、きゅっとなった。
「ローレン書記」
マルタが、横から、声をかける。
「見えましたか」
「……はい。見えました」
「見えても、触れない。それが、窓口です」
「はい」
マルタは、それ以上、何も言わなかった。ただ、紅茶を、一杯、私の机の端に置いて、自分の席へ戻っていった。
湯気の向こうで、封書は、頒布係の籠の中へ、静かに、消えていく。
昼過ぎ、頒布係の書記が、受領記録を、こちらにも、写して持ってきた。
『クレイン伯爵夫人より、書簡作法集の受領の礼状。文面は、自筆。署名、一字ごとに、確認済み』
それだけだった。中身の、一字も、私は、知らない。
礼状には、局の定型の返書が、局名で、送られる。そこに、私の名は、入らない。
それでいい、と思う。
不意に、目の奥が、熱くなって、私は、慌てて、図面に視線を落とす。
夜、下宿に戻ると、台所から、ブラント夫人が、顔を出してくれた。
「お帰りなさい。今日は、鱈の煮付けよ。疲れた顔を、しているわ」
「そう、見えますか」
「見えるわよ。でも、悪い疲れ方じゃないわね」
夫人は、そう言って、大きな鍋の蓋を、持ち上げた。
湯気が、ふわりと、顔にかかる。
部屋で、進行案の、二行目を、考えた。
一行目は、『入場の順の説明(事実)』。二行目に、何を置くか。
侯爵の言葉の場所、と、決めていた。けれど、空欄のまま、面会に臨むのは、心もとない。
私は、紙に、問いを、三つ、書いた。
一つ。侯爵は、円卓の、何が、いやなのか。
二つ。それは、円卓の、形なのか、席の、隣なのか。それとも、二十年前の、記憶なのか。
三つ。いやなことが、分かったとして、私たちは、何を、約束できるか。
三つ目を、見つめた。
約束できること。できないこと。その線を、先に、引いておかなければ。
侯爵の隣席を、ザルツの方に、しない、という約束は、できない。名簿は、到着の日にしか、分からないからだ。
席の隣を、侯爵が、自分で、選ぶ、という約束も、できない。ほかの卓の、均衡が、崩れてしまう。
一方で、できることも、ある。
到着の日に、名簿が確定したら、その日のうちに、侯爵にお知らせする。隣席の方の、お名前と、格を、事前に。
二十年前の夜、侯爵は、おそらく、誰が隣に座るのかを、座ってから、知ったのだ。
私は、ペンを、動かした。
『確定した名簿を、到着の当日、侯爵に、事前に、お知らせする』
それが、二行目の、一つ目の、約束になった。
約束は、少なくていい。守れるものだけを、置く。
日曜、屋敷に戻った。
玄関の扉を開けると、母が、居間から、小走りに、出てきた。
「セシリア、いいところに。ちょうど、練習を、したかったの」
「練習、ですか」
「断る練習よ」
母は、少し、頬を赤くして、続けた。
「隣のお家の、ベルガー夫人から、お願いが来ているの。慈善のお茶会の、会場を、うちで、引き受けてほしい、と」
「ベルガー夫人は、断られると、気を悪くされる方ですか」
「ええ。とても」
私は、居間の椅子に、座り直した。
「では、まず、断る理由を、一つ、決めましょう」
「理由は、そうね。お客様を、お迎えするのに、お屋敷が、手狭で」
「それは、嘘です。この居間は、二十人、入ります」
「……そう、ね」
母は、膝の上で、手を、揉んだ。
「本当の、理由は」
「本当は」
母は、しばらく、言葉を探した。
「大勢のお客様が、来ると、疲れてしまうの。昔から。私は、そういう、人間なのよ」
「それなら、それが、理由です」
「そんな、情けない理由を、お伝えするの? 笑われないかしら」
「情けなくありません。事実です。理由は、一つ。謝罪は、しない。お力になれないのが、心苦しい、と、添えるのは、謝罪ではなく、礼儀です」
母は、目を丸くした。
「謝罪と、礼儀は、違うのね」
「違います。……ベル書記官の、受け売りですが」
私は、苦笑して、紙を、母に渡した。
『お申し出、ありがとうございます。大勢のお客様をお迎えすることが、私には、不得手でございます。会場のお引き受けは、控えさせてください。当日は、お手伝いのお菓子を、焼いてお届けいたします』
「代案は、お菓子ですか」
「あるときだけ、一つ。それが、マルタさんの、決まりです」
母は、一行ずつ、声に出して、読んだ。
最後まで読み終えて、ぽつりと言う。
「……これなら、書けそう」
「書いてみてください。今」
母は、便箋を取り、ペンを握った。
指が、少し、震えている。
一行目を、書く。二行目も、書く。三行目で、手が、止まった。
「セシリア」
「はい」
「ここで、いつも、『申し訳ございません』と、書き足したくなるの」
「書かなくて、いいのです」
「でも」
「書かなくても、ベルガー夫人は、お分かりになります。お母様が、どれほど、心苦しく思っているかは」
母は、しばらく、便箋を、見つめていた。
それから、ゆっくり、ペンを、動かし始める。
最後の一文字まで、書き終えたとき、母は、深く、息を吐いて、椅子に、もたれかかった。
「書けたわ」
「はい」
「手が、まだ、震えているけれど」
「震えても、いいのです。出せば、いいだけですから」
そのとき、居間の扉が、静かに、開いた。
父が、立っていた。
「何を、している」
「断る練習、です」
母が、答える。
誇らしげに、というほどではないけれど、顔は、上がっていた。
父は、母の手の中の便箋を、一瞬、見た。
字を、見たのだと思う。丁寧な、けれど、わずかに震えた、母自身の、筆跡を。
「……ヘレナの字は」
父が、言いかけて、止めた。
「どうされましたか、あなた」
「いや。以前に比べて、少し、変わったと、思っただけだ」
母の肩が、ぴくりと、動いた。
私は、息を、止めた。
母が、三年間、義母の代筆を、ひそかに、続けてきたこと。それを、父は、まだ、知らない。
父は、それ以上は、聞かなかった。
「夕食の支度が、できている。冷める前に、来なさい」
そう言って、背を向ける。
扉が、閉まる前に、父は、廊下の向こうから、小さく、付け足した。
「私にも、断ってほしいことが、あれば、言いなさい。……ヘレナも、セシリアも」
母と、顔を見合わせた。
それから、母は、堪えきれずに、笑い出した。
「あなた、聞こえていらしたのね」
「聞こえた。扉が、薄い」
父は、咳払いをして、足早に、廊下を去っていく。
私は、笑いながら、母の背中を、さすった。
笑い声の合間に、ふと、思う。
父は、いつか、母の代筆の話を、知るだろう。そのとき、私は、どこに立っていればいいのか。
今は、まだ、答えが、出ない。
けれど、母が、自分の手で、断りの手紙を書けた。その事実こそが、今夜の、いちばんの、収穫である。
夕食の席で、母が、手紙を、侍女に預けるとき、父が、一言だけ、尋ねた。
「出すのか」
「出します」
母の返事は、小さかったけれど、揺れてはいなかった。父は、パンをちぎりながら、「そうか」と、頷く。それきり、食卓には、スプーンの音だけが、穏やかに、続いた。
月曜の朝、典礼局に着いてすぐ、週報の、持ち帰りの欄に、数字を、写した。長官の家での分は、先週の、四割ほどに、減っている。半分には、わずかに、届かなかった。
数字の横に、鉛筆で、『あと少し』と、書き添える。それを、長官の机の、決裁箱へ、そっと入れた。
その直後、準備室の入口に、ヴァイス伯爵の使いが、現れた。
「長官への、取り次ぎを」
「かしこまりました。ご用件は、何でしょう」
「面会の、日程の、変更ではありません。ご安心を。ただ、侯爵からの、追加の、申し入れが」
使いは、書状を、長官室へ、運んでいく。
しばらくして、私は、長官に、呼ばれた。
机の上に、書状が、置かれている。
「ローレン書記。読んでください」
『面会の席に、妻を、同席させたい。典礼局の、承諾を、求む』
私は、顔を、上げた。
「モーリス侯爵夫人が」
「ええ」
長官は、淡々と、言った。
「夫人は、先日の模擬晩餐に、出席されています。円卓での、体験を、実際に、知っている。侯爵は、それを、材料に、したいのかもしれません」
「侯爵の、考えは」
「分かりません。ですが、断る理由は、ありません」
長官は、書状を、畳んだ。
「承諾します。ただし、席の数が、一つ、増える。進行案の、配置を、考え直してください。夫人の席が、どこに、あるべきかも、含めて」
「はい」
進行案の、紙を、取り出す。
一行目と、二行目の、約束。その下に、空欄が、まだ、一つ、残っている。
夫人が、来る。
あの夜の円卓で、古い楽譜の話に、花を咲かせていた、あの人が。
侯爵は、何を、見せようとしているのか。
私は、紙に、新しい、一行を、足した。
『夫人の、お考えを、聞く(同じ円卓の、実感)』
その一行を、見つめながら、胸の内で、小さく、呟く。
面会まで、あと、二日。




