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「妹みたいなものだから」と言う婚約者へ。では私は他人になりますね  作者: ローナ


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24/50

断る練習

閲覧の翌日、受付の窓口に、一通の封書が届いた。


差出人は、クレイン伯爵夫人。宛名は、典礼局頒布係。


受付の若い門番が、念のため、といった顔で、準備室まで持ってきた。


「ローレン書記宛ではありませんが、お知らせだけ。お名前に、見覚えがありましたので」


「ありがとうございます。窓口の件ですので、頒布係へ、そのまま、お回しください」


私は、受け取らなかった。


封書の宛名の字だけが、目に入る。


線が太い。字の大きさが、ばらばらで、行は、右へ傾いている。以前の辞退状と、ほとんど同じ筆跡だった。けれど、一つだけ、違うところがある。


払いの先が、少しだけ、持ち上がっていた。


私が、三年間、毎月書いてきた字の、癖だ。


自分の筆跡が、人の手の中で、別のものに育っている。その事実に、胸が、きゅっとなった。


「ローレン書記」


マルタが、横から、声をかける。


「見えましたか」


「……はい。見えました」


「見えても、触れない。それが、窓口です」


「はい」


マルタは、それ以上、何も言わなかった。ただ、紅茶を、一杯、私の机の端に置いて、自分の席へ戻っていった。


湯気の向こうで、封書は、頒布係の籠の中へ、静かに、消えていく。


昼過ぎ、頒布係の書記が、受領記録を、こちらにも、写して持ってきた。


『クレイン伯爵夫人より、書簡作法集の受領の礼状。文面は、自筆。署名、一字ごとに、確認済み』


それだけだった。中身の、一字も、私は、知らない。


礼状には、局の定型の返書が、局名で、送られる。そこに、私の名は、入らない。


それでいい、と思う。


不意に、目の奥が、熱くなって、私は、慌てて、図面に視線を落とす。


夜、下宿に戻ると、台所から、ブラント夫人が、顔を出してくれた。


「お帰りなさい。今日は、鱈の煮付けよ。疲れた顔を、しているわ」


「そう、見えますか」


「見えるわよ。でも、悪い疲れ方じゃないわね」


夫人は、そう言って、大きな鍋の蓋を、持ち上げた。


湯気が、ふわりと、顔にかかる。


部屋で、進行案の、二行目を、考えた。


一行目は、『入場の順の説明(事実)』。二行目に、何を置くか。


侯爵の言葉の場所、と、決めていた。けれど、空欄のまま、面会に臨むのは、心もとない。


私は、紙に、問いを、三つ、書いた。


一つ。侯爵は、円卓の、何が、いやなのか。


二つ。それは、円卓の、形なのか、席の、隣なのか。それとも、二十年前の、記憶なのか。


三つ。いやなことが、分かったとして、私たちは、何を、約束できるか。


三つ目を、見つめた。


約束できること。できないこと。その線を、先に、引いておかなければ。


侯爵の隣席を、ザルツの方に、しない、という約束は、できない。名簿は、到着の日にしか、分からないからだ。


席の隣を、侯爵が、自分で、選ぶ、という約束も、できない。ほかの卓の、均衡が、崩れてしまう。


一方で、できることも、ある。


到着の日に、名簿が確定したら、その日のうちに、侯爵にお知らせする。隣席の方の、お名前と、格を、事前に。


二十年前の夜、侯爵は、おそらく、誰が隣に座るのかを、座ってから、知ったのだ。


私は、ペンを、動かした。


『確定した名簿を、到着の当日、侯爵に、事前に、お知らせする』


それが、二行目の、一つ目の、約束になった。


約束は、少なくていい。守れるものだけを、置く。


日曜、屋敷に戻った。


玄関の扉を開けると、母が、居間から、小走りに、出てきた。


「セシリア、いいところに。ちょうど、練習を、したかったの」


「練習、ですか」


「断る練習よ」


母は、少し、頬を赤くして、続けた。


「隣のお家の、ベルガー夫人から、お願いが来ているの。慈善のお茶会の、会場を、うちで、引き受けてほしい、と」


「ベルガー夫人は、断られると、気を悪くされる方ですか」


「ええ。とても」


私は、居間の椅子に、座り直した。


「では、まず、断る理由を、一つ、決めましょう」


「理由は、そうね。お客様を、お迎えするのに、お屋敷が、手狭で」


「それは、嘘です。この居間は、二十人、入ります」


「……そう、ね」


母は、膝の上で、手を、揉んだ。


「本当の、理由は」


「本当は」


母は、しばらく、言葉を探した。


「大勢のお客様が、来ると、疲れてしまうの。昔から。私は、そういう、人間なのよ」


「それなら、それが、理由です」


「そんな、情けない理由を、お伝えするの? 笑われないかしら」


「情けなくありません。事実です。理由は、一つ。謝罪は、しない。お力になれないのが、心苦しい、と、添えるのは、謝罪ではなく、礼儀です」


母は、目を丸くした。


「謝罪と、礼儀は、違うのね」


「違います。……ベル書記官の、受け売りですが」


私は、苦笑して、紙を、母に渡した。


『お申し出、ありがとうございます。大勢のお客様をお迎えすることが、私には、不得手でございます。会場のお引き受けは、控えさせてください。当日は、お手伝いのお菓子を、焼いてお届けいたします』


「代案は、お菓子ですか」


「あるときだけ、一つ。それが、マルタさんの、決まりです」


母は、一行ずつ、声に出して、読んだ。


最後まで読み終えて、ぽつりと言う。


「……これなら、書けそう」


「書いてみてください。今」


母は、便箋を取り、ペンを握った。


指が、少し、震えている。


一行目を、書く。二行目も、書く。三行目で、手が、止まった。


「セシリア」


「はい」


「ここで、いつも、『申し訳ございません』と、書き足したくなるの」


「書かなくて、いいのです」


「でも」


「書かなくても、ベルガー夫人は、お分かりになります。お母様が、どれほど、心苦しく思っているかは」


母は、しばらく、便箋を、見つめていた。


それから、ゆっくり、ペンを、動かし始める。


最後の一文字まで、書き終えたとき、母は、深く、息を吐いて、椅子に、もたれかかった。


「書けたわ」


「はい」


「手が、まだ、震えているけれど」


「震えても、いいのです。出せば、いいだけですから」


そのとき、居間の扉が、静かに、開いた。


父が、立っていた。


「何を、している」


「断る練習、です」


母が、答える。


誇らしげに、というほどではないけれど、顔は、上がっていた。


父は、母の手の中の便箋を、一瞬、見た。


字を、見たのだと思う。丁寧な、けれど、わずかに震えた、母自身の、筆跡を。


「……ヘレナの字は」


父が、言いかけて、止めた。


「どうされましたか、あなた」


「いや。以前に比べて、少し、変わったと、思っただけだ」


母の肩が、ぴくりと、動いた。


私は、息を、止めた。


母が、三年間、義母の代筆を、ひそかに、続けてきたこと。それを、父は、まだ、知らない。


父は、それ以上は、聞かなかった。


「夕食の支度が、できている。冷める前に、来なさい」


そう言って、背を向ける。


扉が、閉まる前に、父は、廊下の向こうから、小さく、付け足した。


「私にも、断ってほしいことが、あれば、言いなさい。……ヘレナも、セシリアも」


母と、顔を見合わせた。


それから、母は、堪えきれずに、笑い出した。


「あなた、聞こえていらしたのね」


「聞こえた。扉が、薄い」


父は、咳払いをして、足早に、廊下を去っていく。


私は、笑いながら、母の背中を、さすった。


笑い声の合間に、ふと、思う。


父は、いつか、母の代筆の話を、知るだろう。そのとき、私は、どこに立っていればいいのか。


今は、まだ、答えが、出ない。


けれど、母が、自分の手で、断りの手紙を書けた。その事実こそが、今夜の、いちばんの、収穫である。


夕食の席で、母が、手紙を、侍女に預けるとき、父が、一言だけ、尋ねた。


「出すのか」


「出します」


母の返事は、小さかったけれど、揺れてはいなかった。父は、パンをちぎりながら、「そうか」と、頷く。それきり、食卓には、スプーンの音だけが、穏やかに、続いた。


月曜の朝、典礼局に着いてすぐ、週報の、持ち帰りの欄に、数字を、写した。長官の家での分は、先週の、四割ほどに、減っている。半分には、わずかに、届かなかった。


数字の横に、鉛筆で、『あと少し』と、書き添える。それを、長官の机の、決裁箱へ、そっと入れた。


その直後、準備室の入口に、ヴァイス伯爵の使いが、現れた。


「長官への、取り次ぎを」


「かしこまりました。ご用件は、何でしょう」


「面会の、日程の、変更ではありません。ご安心を。ただ、侯爵からの、追加の、申し入れが」


使いは、書状を、長官室へ、運んでいく。


しばらくして、私は、長官に、呼ばれた。


机の上に、書状が、置かれている。


「ローレン書記。読んでください」


『面会の席に、妻を、同席させたい。典礼局の、承諾を、求む』


私は、顔を、上げた。


「モーリス侯爵夫人が」


「ええ」


長官は、淡々と、言った。


「夫人は、先日の模擬晩餐に、出席されています。円卓での、体験を、実際に、知っている。侯爵は、それを、材料に、したいのかもしれません」


「侯爵の、考えは」


「分かりません。ですが、断る理由は、ありません」


長官は、書状を、畳んだ。


「承諾します。ただし、席の数が、一つ、増える。進行案の、配置を、考え直してください。夫人の席が、どこに、あるべきかも、含めて」


「はい」


進行案の、紙を、取り出す。


一行目と、二行目の、約束。その下に、空欄が、まだ、一つ、残っている。


夫人が、来る。


あの夜の円卓で、古い楽譜の話に、花を咲かせていた、あの人が。


侯爵は、何を、見せようとしているのか。


私は、紙に、新しい、一行を、足した。


『夫人の、お考えを、聞く(同じ円卓の、実感)』


その一行を、見つめながら、胸の内で、小さく、呟く。


面会まで、あと、二日。

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