三つの形
翌朝、私は、始業の鐘より先に、長官の部屋の前に立っていた。
昨日の発見は、一晩、胸の中で寝かせていた。寝かせるうちに、報告の文面は、短くなっていく。
扉を叩くと、すぐに「どうぞ」と声が返る。机の向こうに、長官が、すでに座っていた。その後ろから、マルタも入ってくる。
「報告があります。モーリス侯爵について」
私は、紙を一枚、卓に置いた。
「七九二年の記録の抗議、第一件の申立人は、当時の嗣子、エルンスト様でした。要旨は、ザルツ側随行者の隣席に当家の席を置かれたことへの遺憾、です。これが事実です。ここから先は、私の推測ですので、事実と分けて、書きました」
長官は、紙を取って、目を落とした。
読み終えるまで、ほんの数呼吸。
「推測の欄は」
「侯爵は、円卓という形そのものではなく、二十年前の夜を繰り返したくないのではないか、というものです」
「根拠は」
「ありません。ですので、推測と書きました」
マルタが、横から、紙を覗き込んだ。
「妥当な推測だと思います。ただ」
「ただ?」
「これを、面会で、口にしてはいけません」
私は、頷いた。
「はい。そのつもりです。人の古い傷を、交渉の道具にはしません」
「道具にしない、という言い方は、少し足りません」
マルタは、眼鏡を指で押し上げた。
「知っていることを、相手に、知らせない。知らせないまま、相手の望みを、聞く。それが、典礼局の仕事です。知っていることを、見せずに、先回りもしない。難しいですよ」
「……はい」
「先回りをすると、相手は、見透かされたと感じます。見透かされた人は、たいてい、頑なになる」
長官が、紙を畳んで、机の隅に置いた。
「ベル書記官の言うとおりです。面会には、結論を、持ち込まない。選択肢を、持ち込みます」
「選択肢」
「三つ。ローレン書記、今夜までに、侯爵家の席について、取り得る形を、三通り、書き出してください」
「はい」
私は、深く、頭を下げる。
部屋を出るとき、長官の机の端に、湯呑みが二つ、置いてあるのが目に入った。一つは、空だった。
「長官。昨夜は」
「規則どおりに、帰りました」
長官は、書類から顔を上げずに答えた。
「ただし、持ち帰った分は、読みました。家の机で」
「それは、規則の、抜け道です」
「……ええ。気づきましたか」
悪びれもしない声だった。マルタが、背中を向けたまま、肩を小刻みに震わせている。
私は、扉を閉める前に、言った。
「持ち帰った分も、数えます。次の週報から」
「数えるのですか」
「数えます。内規の第十二条は、夜の数ではなく、休む時間のためのものですから」
長官は、しばらく、何も言わなかった。
それから、ぼそりと言う。
「……考えておきます」
その返事が、かすかに、拗ねた子どものようで、私は、扉の陰で、少しだけ、笑った。
午前中、準備室で、席次の図面を広げた。
二十四の円卓。三百六十名。まず、モーリス侯爵の席を、探す。
第三卓、七番。
その卓の、右隣の八番の欄に、目が止まった。
『ザルツ使節団員 第十一位(仮)』
息が、止まった。
私が、作った席次だ。
ザルツの四十四名は、二十四卓に、ほぼ均等に散らしてある。偏りを避けるための、散らし方だった。それが、たまたま、そこに、重なっている。
二十年前と、同じ並びだった。
「……ローレン様?」
トビアスが、覗き込んできた。
「どうなさいました。顔色が」
「いいえ。少し、確認を」
私は、図面の上から、指を離した。
偶然だ。私は、七九二年の記録を読む前に、この散らし方を決めていた。知っていたなら、避けたはずだ。けれど、知らなかったのだ。
その事実が、かえって、重く、のしかかる。
「ノール書記官。第三卓の、周囲の席の表を、持ってきてください。八番と九番、六番を、中心に」
「はい。ただいま」
トビアスが、小走りで書庫へ向かう。
その背中を見送りながら、考えた。
三つの形。
一つ目は、八番の席の相手を、ヴェルデン人に入れ替える。侯爵の隣から、ザルツの方を、外す。
けれど、それは、簡単すぎる。そして、危うい。
ザルツ側から見れば、侯爵の隣だけが、除かれたことになる。誰の隣にも、座りたくないのか、と、思われるかもしれない。円卓は、全員が、同じ高さで、座るための形だ。一席だけ、例外を作れば、その一席の理由が、人の口に上る。
二つ目は、あえて、隣に、置く。ただし、使節団員の、格を、上げる。第十一位ではなく、第二位、あるいは、団長の側近に。
侯爵の隣に、座るのは、二十年前のような、随行者では、ない。ザルツの、正式な賓客の一人。
けれど、これは、ハインリヒ公の承諾が、要る。名簿は、到着の日にしか、分からない。私の一存では、決められない。
三つ目は。
私は、鉛筆を、止めた。
三つ目は、侯爵自身に、聞く。
どこに、誰と、座りたいか。何が、いやなのか。二十年前の話ではなく、今夜の話として。
答えは、聞いてみなければ、分からない。聞いて、決められるなら、それが、いちばんいい。
けれど、それは、とても、勇気の要る手だった。聞いたせいで、侯爵が、かえって、頑なになるかもしれない。
私は、三つを、紙に書き出して、それぞれの利点と、危うい点を、並べていく。
書き進めるうち、昼になっていた。
昼食の前に、トビアスが、少し言いにくそうに、近づいてきた。
「ローレン様。耳に入った話ですので、お伝えしてよいか、迷ったのですが」
「何でしょう」
「官房の門番に、聞きました。ハーゲン侯爵家が、クレイン家のお茶会を、延期したいと、申し入れたそうです」
「延期」
「理由は、令嬢の、ご都合、とのことでした」
私は、手を止めた。
リリアの手紙。アルバートの、書き送った事実。ミレイユ嬢が、それを、どう受け取ったのか。
「……分かりました。ありがとう」
「あの。余計なことでしたら」
「いいえ。聞けて、よかったです。ただ」
私は、静かに、言った。
「この件は、私たちの、仕事ではありません。ですので、耳に入っても、広げないでください」
「はい。心得ております」
トビアスは、きちんと、頭を下げた。
延期、というのは、断りではない。まだ、何も、決まってはいない。
あの人は、事実を、書き送った。あとは、あの人が、自分の足で、立つ番だ。
私は、図面に、視線を戻した。
午後、マルタと二人で、侯爵家の資料に、取りかかった。
当主の経歴。領地。官房での、役職歴。夫人の、出身家。
「侯爵は、爵位を継いだ年に、領地の飢饉に、見舞われています」
マルタが、帳面を、繰りながら、言った。
「継いだばかりで、備蓄を放出し、自家の財を、あらかた使った。民を、一人も、飢えさせなかったという話です」
「立派な方ですね」
「ええ。気難しいが、筋は通す、というのは、そこから来ているのでしょう」
私は、資料の端に、小さく、書き込んだ。
筋を通す人は、筋の通らない席に、座らされるのを、何より、嫌う。
円卓は、筋が通っていないのではない。ただ、侯爵の、知っている「筋」と、違う形をしているだけだ。
だとすれば、必要なのは、円卓の「筋」を、侯爵の言葉で、説明することではないか。
「ベル書記官。一つ、伺っても」
「どうぞ」
「円卓の、筋とは、何でしょう。私は、ずっと、全員が同じ高さで座るため、と、説明してきました。けれど、侯爵には、それが、名誉を、削ぐ話に聞こえる」
「ええ」
「侯爵の名誉を、削らない言葉が、あるはずです」
マルタは、帳面を閉じて、少し、目を細めた。
「それは、あなたが、見つけなさい。ヒントは、一つだけ」
「はい」
「円卓には、上座が、ありません。ですが、『入口』は、あります。誰が、先に、扉を、くぐるか。それは、決まっている」
私は、はっと、顔を上げた。
入場の順。
二つの扉。西の正門に、ヴェルデン。東の側扉に、ザルツ。そして、ヴェルデン側は、自国の序列で、一列に入る。
円卓に着いてしまえば、同じ高さ。けれど、そこに至るまでの、道のりで、序列は、きちんと、示される。
「……侯爵は、一番最初に、入場する、お一人です」
「ええ。侯爵位は、ヴェルデンの貴族の中で、先頭に近い。あなたの入場の案では、すでに、名誉は、守られている」
「侯爵に、そこを、お見せすれば」
「見せるだけでは、足りません。聞く前に、答えを、持っていかない。そう言ったでしょう」
マルタは、言った。
「ですが、入場の話は、事実です。事実を、先に、置く。そのうえで、侯爵が、何を気にされるのかを、聞く。順番を、間違えないこと」
私は、ペンを、取った。
事実を先に、置く。それから、聞く。
夕方、三つの形を、清書して、長官の部屋へ、持っていった。
長官は、一枚ずつ、ゆっくり、読んだ。
「三つ目が、最も、危うい。そして、最も、誠実です」
「はい」
「あなたは、どれが、よいと、思いますか」
「三つ目を、軸に、置きたいと思います。ただし、一つ目と、二つ目は、いつでも、出せるように、持っていきます」
長官は、小さく、頷いた。
「それで、行きましょう。面会は、六日後です」
「はい」
私は、頭を下げて、部屋を出ようとした。
そのとき、扉を叩く音がして、トビアスが、息を切らせて、入ってきた。
「長官。官房から、使いです」
封書が、差し出される。長官が、封を切って、読んだ。
読み進めるうちに、眉が、わずかに、動く。
「……ローレン書記」
「はい」
「モーリス侯爵から、官房を通じて、局に、申し入れです」
長官は、書状を、私に見せた。
『面会に先立ち、七九二年の接遇記録を、閲覧したい。ただし、立会いは、典礼局長官のみとし、他の者は、不要』
息が、詰まった。
あの人も、二十年前の夜を、確かめに来る。
長官は、書状を畳んで、私を、まっすぐに見た。
「閲覧は、明後日。立会いは、私が、務めます」
「長官、あの席次表は」
「はい。あなたの、整理した棚に、あります。ですから、鍵を、お借りします」
私は、上着の内側から、書庫の鍵を、取り出した。
指先が、少し、冷たくなっていた。




