私的なお返事は、必要ありません
封は、その日のうちに、切った。
終業の鐘が鳴り、トビアスが帰ったあと。準備室の隅の机で、私は、ペーパーナイフを、そっと封筒の隙間に差し入れた。
便箋は、一枚きりだった。
藍色のインクで、一字ずつ、書かれている。
『ローレン書記殿
典礼局の御多忙のなか、私的な書簡を差し上げる無礼を、お許しください。
先日、リリアが貴局を訪れたと、本人から聞きました。あの子が、あなたに謝ることができたこと。そして、あなたが、それを「受け取る」と、おっしゃったこと。どちらも、聞きました。
僕は、あなたに、何かを頼める立場ではありません。ですので、頼みごとではなく、報告と、公の手続きを一つだけ、お伝えします。
報告です。ミレイユ嬢には、リリアが手紙を出したこと、その文面を、僕から、事実のとおり書き送りました。リリアのことは、「妹」ではなく、「幼い頃から家族ぐるみで付き合いのある友人」と書きました。ずっと、そう言うべきだったのだと思います。
お願いは、一つ。典礼局が一般に頒布している『書簡作法集』を、一部、分けていただけないでしょうか。母上の筆を、母上自身が取り戻すために、必要です。代筆は、もう、誰にも頼みません。母上が書き、僕は、誤りを正す係に回る。
それが、三年間のあなたの仕事への、せめてもの答えだと、考えています。
お返事は、局の窓口を通じてで、結構です。私的なお返事は、必要ありません。
アルバート・クレイン』
読み終えて、便箋を、膝の上に置いた。
しばらく、何も、考えられなかった。
私的なお返事は、必要ありません。
その一文が、あまりにも、あの人らしくなかった。
かつての彼なら、きっと、返事を求めただろう。会いたい、話したい、と。会えば、すべて解決する、と信じて。
けれど、この手紙は、頼まない。求めない。ただ、事実を、報告している。
私は、手紙を、声には出さずに、もう一度、読んだ。二度目は、意味ではなく、字の形だけを、目で追う。
字は、ゆっくりと、書かれていた。
何度も、書き直した跡が、あるような気がした。
私は、窓の外に目をやる。
日が暮れかけた空に、一番星が、小さく、光っている。
三年間の、仕事への、答え。
その言葉を、胸の中で、そっと、繰り返す。
感謝を、言われたかった、わけではない。許されたかったのは、きっと、私のほうだった。何も言えずに、ただ書き続けた、三年間の自分を。
けれど、その答えは、彼に求めるものでは、ないのだ。
翌朝、私は、マルタの席へ、手紙を持っていった。
「ベル書記官。ご相談が、あります」
「また、ですか」
「アルバート・クレイン様から、私宛の書簡が、届きました。書簡作法集の頒布の依頼です。私的な返事は、不要とありますが、私は、どう応じるべきでしょうか」
マルタは、手紙を受け取らなかった。
かわりに、私の顔を、じっと見た。
「あなたは、どうしたいのですか」
「……公の窓口で、対応するのが、適切だと思います」
「理由は」
「彼が、そう求めているからです。そして、私も、そう、したいからです」
マルタは、小さく、頷いた。
「では、そうしなさい。作法集は、局の頒布係から、規定の手続きで。送り状は、局名で。あなたの名は、入れないこと」
「はい」
「ただし」
マルタは、ペンを、卓の上で、とん、と一度鳴らした。
「受領の記録には、事実を、残しておくこと。『クレイン伯爵家嫡男より、作法集の頒布依頼。局にて対応済み』」
「承知しました」
「それが、あなたの仕事です」
私は、手続きの書類を、書き始めた。
書簡作法集は、その日のうちに、頒布係へ回した。同封するのは、規定どおりの、局名の送り状が、一枚だけ。
それで、よかった。涙は、出ない。かわりに、手の甲が、少し、熱い。
送り状の、宛名の欄に、『クレイン伯爵家嫡男アルバート殿』と、書く。
その横の、余白が、ほんの少しだけ、気にかかった。
何かを、添えたい、とも、思った。「字は、毎日書くと、上手になります」とか、「奥様の筆の癖は、右上がりです」とか。
けれど、私は、ペンを、置いた。
書かなかった。
それが、いちばん、正しい距離なのだ。
午前のうちに、トビアスと一緒に、金縁の呼名札の、試し刷りを確認した。
四十四枚の見本が、卓の上に、整然と並んでいる。縁の金は、思ったより、控えめな色味だった。光を受けて、ちらりと光る。この小さな金色が、貴族の名誉を、どれだけ支えられるのだろう。
「ザルツの方々の、お名前の欄は、空けたままですね」
「ええ。到着の日の、お告げを、待ちます」
「六人の書記を、半日。日割りは、もう、組んでおきました」
トビアスは、誇らしげに、帳面を広げる。几帳面な字で、担当者の名が、並んでいた。
「ローレン様」
「はい」
「今朝は、少し、お顔が、赤いようですが」
「……そうですか?」
「はい。熱でも、おありでは」
「ありません。昨夜、少し、考えごとを、していたので」
トビアスは、不思議そうに首をかしげたが、それ以上は、聞かなかった。
その日の昼過ぎ、準備室に、侍従長官房からの使いが、封書を持ってきた。
封蝋は、官房の紋章。
宛名は、典礼局長官、レオンハルト・グレイヴス殿。
長官は、その場で、封を切った。
読み進めるうちに、眉が、わずかに、寄った。
「……ローレン書記。ベル書記官。こちらへ」
私たちが、卓に集まると、長官は、書状を、中央に、置いた。
「モーリス侯爵から、官房へ、抗議が入ったそうです」
「モーリス侯爵」
先日の、模擬晩餐に出席した、モーリス侯爵夫人の、夫君だ。
「円卓案に、強く反対している、とあります」
長官が、文面を、指でたどる。
「『侯爵家の当主が、爵位の低い者と、同じ円卓に着くことは、家の名誉を損なう。上座の席を、確保せよ。さもなければ、建国祭の晩餐会への出席を、再考する』」
静かに、ため息を、つくようにして、マルタが、口を開いた。
「これは、まずいですね」
「模擬晩餐では、侯爵夫人は、むしろ、楽しんでおられたはずですが」
私が言うと、マルタは、首を振った。
「官房での、モーリス侯爵の評判は、気難しいが、筋は通す、というものです。夫人と、当主は、別の人間です。夫人が楽しんだ席で、当主が、面子を、潰されたと感じる。よくある話です」
「名誉は、見えて初めて、名誉。ヴァイス伯爵の言葉の、とおりでした」
私は、唇を、噛んだ。
席札に、爵位を金縁で記す。入場の順で、序列を示す。そこまで、手は、打った。
けれど、当主にとっては、それでも、足りないのだ。
自分が、ほかの誰かと、同じ「高さ」で、座る。そのこと自体が、受け入れがたいのだろう。
「ヴァイス伯爵は」
「官房として、この書状を、局に、転送してきました。回答は、局に任せる、と」
長官は、静かに、答える。
「つまり、官房は、モーリス侯爵に、局の案を、擁護する立場を、取った。同時に、局に、責任を、投げた」
「厄介ですね」
「ええ。ですが、ヴァイス伯爵が、局を、見捨てたわけでは、ありません」
長官は、書状の末尾を、示した。
『なお、この件について、来週、侯爵と、直接、面会の場を設ける。典礼局の担当者の同席を求む』
「面会の席に、あなたと、私で、同席します」
私は、息を、のんだ。
「私も、ですか」
「作成者です。あなたが、案の意図を、最もよく、説明できる」
長官は、淡々と、そう言ってから、私の目を、まっすぐに見た。
「かばいません。ただし、あなたの隣に、立ちます。それが、私の、できる、最大限です」
胸の奥が、きゅっと、鳴った。
かばわない。隣に立つ。
その、二つの言葉は、不思議と、矛盾していない。
マルタが、ふっと、鼻を鳴らした。
長官が、書状を畳みながら、続けた。
「面会は、一週間後です。ベル書記官、日程を」
マルタは、手帳を開いて、日付に、小さく印をつけた。
「承知しました。では、一週間で、対策を練りましょう。侯爵の、人となりと、家の事情を、調べなさい。ローレン書記、家系録を」
「はい」
私は、書庫へ向かう階段を、駆け下りた。
その途中で、ふと、思った。
アルバートの手紙の、最後の一文。
私的なお返事は、必要ありません。
あの人は、自分の足で、立とうとしている。
ならば、私も、自分の足で、立ち続けなければ。
書庫の暗がりで、棚の背表紙を、指でたどる。
家系録の、モーリス侯爵家の頁を、開いた。
当主は、エルンスト・モーリス。五十八歳。十九年前に、爵位を継いでいる。つまり、七九二年の時点では、侯爵家の嗣子で、三十八歳の、働き盛りだった。
何かが、頭の隅に、引っかかる。
私は、七九二年の記録を、棚から引き抜いた。
三件の抗議。その、一件目の、席次の並びに関する申し立ての、申立人の欄。
指が、止まった。
『モーリス侯爵家嗣子 エルンスト』
息を、のんだ。
二十年前、席の並びで、抗議した人。
今、円卓案に、反対している、その人は、あの夜の、席次の問題の、当事者だったのだ。
申立ての要旨を、読む。
『ザルツ側随行者の隣席に、当家の席を置かれたことは、遺憾である』
私は、記録を、胸に抱えた。
あの人は、円卓という形式に、反対しているのではない。二十年前の、夜の屈辱を、また、繰り返したくないのだ。
これは、使える材料かもしれない。けれど、同時に、とても、扱いの難しい材料でもあった。人の古い傷を、交渉の道具にしてはならない。そのことは、胸に、刻んでおかなければ。
明日、まず、長官とマルタに、事実だけを、報告しよう。
階段の下の暗がりで、鍵束が、小さく、鳴った。




