他人だからです
封筒は、その夜のうちに、開けた。
開けない、という選択肢も、ある。燭台の灯りの下で、一時間ほど、机の上に置いたまま眺めていた。
けれど、読まずにしまうことは、これまで私がやってきた、いちばん慣れたやり方に、よく似ていた。
見なかったことにする。聞かなかったことにする。そうすれば、波は立たない。
三年間、ずっと、そうしてきたのだ。
私は、ペーパーナイフを取って、封を切った。
淡い桃色の便箋に、丸い字が、びっしりと並んでいる。
『セシリア様へ
お元気ですか。お仕事を始められたと聞きました。すごいわ。私には、とても、できないことです。
実は、お願いがあって、お手紙を書いています。
アルバートに、縁談が来ているの。お相手は、ハーゲン侯爵家のミレイユ様。とても素敵な方だと、伯爵夫人がおっしゃっていました。来週、クレイン家で、お茶会があって、ミレイユ様が、いらっしゃるの。
私も、同席するように、言われています。
でも、私、どうしたらいいのか、分からなくて。侯爵家のご令嬢の前で、どんなふうに座って、何をお話しすればいいのか。アルバートは、「いつも通りでいいよ」と言うけれど、それが、いちばん困るの。
セシリア様は、いつも、そういうとき、そっと教えてくださったでしょう。
お願いです。一度だけ、会っていただけませんか。それから、ミレイユ様の前で、私とアルバートは、家族のようなものだと、セシリア様から、言っていただけたら、とても、安心できると思うの。
お返事を、待っています。
リリア』
読み終えて、しばらく、動けなかった。
あの温室で聞いた言葉が、耳の奥に、よみがえる。セシリア様は、怒らないから。
悪意は、ないのだと思う。
本当に、困っているのだ。侯爵家の令嬢の前で、どう振る舞えばいいのか。誰かに、そっと教えてほしい。そして、新しい人が来ても、自分の居場所は、変わらないと、誰かに言ってほしい。
十七歳の少女の、心細さが、そのまま、書かれている。私が婚約を結んだ十三歳の頃より、四つも年上なのに、と思ってしまう自分が、少し、嫌だった。
だからこそ、胸が、痛んだ。
そして、同時に、気づいてしまった。
この手紙の、願いは、二つともが、私に何かを引き受けさせるものだった。
一つは、教えること。もう一つは、新しい縁談の相手に、「二人は家族のようなもの」と、保証すること。
かつて、婚約者だった私が。
私は、便箋を置いて、深く、息を吐く。
返事は、三度、書き直した。
一回目は、こう書き出した。
『リリア様。ご心配なのですね。お会いするのは、難しいけれど、簡単な心得だけなら、お教えします。大丈夫、きっと、うまくいきます』
書いて、読み返して、すぐに、破った。
「大丈夫」。
あの人の前で、何度も、口にした言葉だ。いいのよ。気にしないで。大丈夫。
その優しさが、あの人に、「怒らないから」と言わせたのだ。
二回目は、反対に、冷たくなりすぎた。
『お断りします。二度と、手紙を、書かないでください』
読み返して、これも、破った。
あの子を、突き放したいのでは、ない。ただ、私が、引き受けてはいけないことを、引き受けない。それだけだ。
三回目の前に、少し、考えた。
断る理由は、一つ。謝罪は、しない。代案は、あるなら、一つ。
私は、そう、決めて、ペンを持った。
『リリア様へ
お手紙を、ありがとうございます。縁談のお話、承りました。
お会いすることは、できません。また、ミレイユ様に対して、私から何かをお伝えすることも、できません。私は、もう、クレイン家の方々とは、他人だからです。
作法についてのお悩みは、クレイン伯爵夫人か、礼儀作法の先生に、相談なさってください。ご自分の言葉で、ご自分の席に座るのが、一番、確かな方法だと思います。
リリア様ご自身のことで、お手紙をいただくのであれば、読みます。
セシリア・ローレン』
書き終えて、声に出して、読んだ。
冷たくは、ない。けれど、「大丈夫」も、「いいのよ」も、一つも、入っていない。
最後の一行を、足したのは、私の、わがままだった。
あの子を、完全に、切り捨てたくは、なかったのだ。
翌朝、出勤して、自分の机に着くと、端に、紅茶の杯が置かれていた。
湯気が、細く立っている。杯の下に、小さな紙が、挟まれていた。
『淹れ方は、あなたに倣いました。味の保証は、できません。 L』
一口、飲んでみる。少し、渋い。けれど、温かかった。
向かいの机で、トビアスが、気づかないふりをして、必死に書類を見ている。
「……ノール書記官」
「はい! 何も、見ておりません!」
笑いをこらえて、私は、杯を両手で包んだ。
その日の午後、準備室で、マルタと向かい合っていた。
長卓案の、並行作業だ。円卓案が、万一、撤回された場合の、予備の席次。
私は、図面に、数字を書き込みながら、ふと、ペンを止めた。
「ベル書記官。一つ、伺っても、よろしいでしょうか」
「仕事のことですか」
「いえ。……断り方、のことです」
マルタは、眼鏡の奥から、私を見た。
しばらく、何も言わなかった。それから、視線を、図面に戻す。
「断るのに、理由は、一つで足ります。謝罪は、要りません。代案は、あるときだけ。一つ」
「……はい」
「それから、断った相手に、その後の扉を閉めるかどうかは、断る前に、決めておくこと。あとから、迷わないように」
私は、思わず、笑った。
「昨日、書いた手紙と、同じです」
「あら。では、あなたは、もう、知っていたのですね」
マルタは、そっけなく言った。
けれど、手が、止まったままだった。
「……私も、昔、断れなかった人間ですから。教えるくらいは、できます」
「ベル書記官が」
「平民の書記が、貴族の依頼を断るのは、骨が折れます。最初の十年は、すべて、引き受けていました」
マルタは、小さく、肩をすくめる。
「十年目に、初めて、断りました。理由は、一つ。謝罪は、しない。それが、今日まで、続いています」
その背中が、とても、頼もしかった。
私は、図面に、視線を戻す。長卓案の数字は、円卓案よりも、ずっと冷たく見えた。席に序列を、はっきりと刻む案だからだ。
けれど、これも、私の仕事だ。
日曜、屋敷に戻ると、母が、居間で待っていた。
父は、書斎にこもっている。食事の前に、母と二人だけで、お茶を飲む時間が、できた。
「何か、あったのでしょう」
母は、そう言って、ティーカップを私の前に置く。
「どうして、お分かりに」
「あなたが、同じ時に、同じ顔をして、手元を見るから」
私は、少し、迷ってから、リリアの手紙のことを、話した。
読んだことと、返事を書いたこと。三回、書き直したこと。
「返事の写しを、見せてもらえる?」
私は、下書きを、母に差し出した。
母は、一行ずつ、ゆっくりと、読み進めていく。
読み終えたあと、長い間、手紙を持ったまま、黙っていた。
「……私には、書けなかったわ」
「お母様」
「お義母様の頼みごとを、一度も、断れなかった。理由を、考えるだけで、息が苦しくなって」
母は、手紙を、そっと、卓に置いた。
「あなたは、私より、ずっと、強くなった」
「いいえ」
私は、首を振った。
「三回、書き直したのです。一回目は、いつもの私でした。『大丈夫、きっとうまくいきます』と、書き出していました」
「それでも、破ったのでしょう」
「はい」
「破れた、ということが、大事なのよ」
母は、冷めかけたお茶を、淹れ直してくれた。湯気が、二人の間で、ゆらゆらと揺れる。
母は、小さく笑った。
「私は、破るどころか、最初から、書き始められなかったもの」
その笑顔が、少し、泣きそうだった。
「ねえ、セシリア」
「はい」
「今度、私にも、教えてくれる? 断り方を」
「お母様に」
「ええ。お義母様は、もう、お亡くなりになったけれど。まだ、断れないことが、たくさん、あるの」
私は、母の手に、そっと、自分の手を重ねた。
「はい。いつでも」
夕食の席で、父が、スープの皿から目を上げずに、言った。
「リリア嬢から、手紙が来たそうだな」
「……お母様から、お聞きに」
「ヘレナの顔を見れば、分かる」
父は、パンを口に運ぶ。
「断ったのか」
「はい」
「そうか」
それきり、父は、しばらく、何も言わなかった。
やがて、ぼそりと、続ける。
「ハートウェル伯爵には、私から、一言、入れておく。お前の名は、出さん。ただ、娘の手紙の宛先には、気をつけるようにと」
「お父様」
「余計な世話か」
「いいえ。……お願いします」
父は、小さく鼻を鳴らして、皿に目を戻した。
私は、スープを、一口飲む。いつもより、少し、塩気が効いていた。
母が、卓の下で、そっと、私の手を握る。
夕食のあと、手紙を投函する時間に、間に合うよう、アンナが、使いに出てくれた。
その背中を見送りながら、私は、思った。
これで、よかったのだ。
引き受けない、と決めたことは、後悔しない。次の手紙が来たら、また読む。読んだうえで、また、自分で決める。それだけのことだ。
けれど、あの子が、この返事を読んで、どう思うのか。それは、私には、決められない。
週が明けて、月曜の朝。風の強い日で、外套の裾が、ばたばたと音を立てていた。
典礼局の門をくぐったとき、受付に立っていた若い門番が、私に、声をかけた。
「ローレン書記。お客様が、お待ちです。待合の間に」
「どなたでしょう」
「お名前は、ハートウェル様、と」
足が、止まった。
手紙の返事が、届くには、まだ、早い。
鞄の紐を、強く、握りしめる。
けれど、扉の向こうで、淡い灰色のドレスの少女が、こちらを、振り返ろうとしていた。




