作成 セシリア・ローレン
模擬晩餐の朝、準備室の机には、辞退の返書が三通、積まれていた。
「協力を願い出た家のうち、三家が、都合がつかなくなったそうです」
トビアスが、封書を一枚ずつ、確認しながら言う。
「残りは、七家。当日の参加者は、典礼局と官房の職員を含めて、六十名」
「十分です。本番の六分の一ですが、卓の動きを見るには、足ります」
私は、返書の束に、目を通していった。
二通は、定型の辞退文だった。三通目の封書の宛名を見て、手が止まる。
クレイン伯爵夫人。
差出人の名の筆跡が、ひどく、不揃いだった。
線が太く、字の大きさがまちまちで、行も、わずかに右へ傾いている。
『このたびのお招き、ありがたく存じますが、辞退いたします。夫の用向きと重なっておりますので』
それだけの、短い文面だった。
けれど、末尾に、小さな字で、もう一行あった。
『拙い字で、申し訳ありません。あの人の席札の字を、思い出しながら、書いています』
私は、その一行を、しばらく見つめる。
誰のことを指しているのかは、考えるまでもなかった。
三年間、毎月、彼女の代わりに筆を執った。その字が、今は、彼女の手の中に、少しずつ、根を下ろし始めているのかもしれない。
「ローレン様?」
「いえ。辞退の三通目、受領の記録を、お願いします」
私は、封書を、トビアスに渡す。
返事は、書かなかった。それが、今の私にできる、いちばん、正しい距離だった。
夕刻、王宮の小広間に、円卓が八つ並んだ。
本番の大広間の、縮尺図どおりに。卓の周りには、給仕に扮した下級書記たちが、水を入れた皿を載せた盆を、慎重に運んでいる。
先日、マルタに言われた通りの稽古だ。
「ザルツ側の随行者は、局員から選んだ、六名が演じます。東の側扉に、集合」
マルタが、手を叩いて、指示を出す。
ザルツ側の一人に、トビアスがいた。借り物の、重たそうな青の外套を着て、緊張でがちがちになっている。
「ノール書記官、背筋を、伸ばして」
「はいっ。……ローレン様、似合いますか」
「とても。大公国の、立派な随行者に見えます」
そう言うと、トビアスは、ぱっと顔を明るくした。
西の正門側には、協力の貴族たちが、集まりつつあった。
サラン侯爵夫妻。ベルナール伯爵夫人。モーリス侯爵夫人。ほかに、数家。
先日の宮廷晩餐会では、広間の端と端に分けた、あの二人だ。今日は、あえて、同じ小広間に、入ってもらった。
そして、ベルナール伯爵夫人と、モーリス侯爵夫人は、別々の卓だ。
私は、席札の裏の卓番号を、もう一度、確かめた。
「準備は」
長官の声がして、振り向く。
「整いました。あとは、笛を、待つだけです」
「では、始めましょう」
長官は、東の側扉の前に、自分から歩いていった。典礼官が足りず、今日は、長官自身が、ザルツ側の呼名役を務める。
西の正門の前には、ハイム典礼官。
高台の上に、楽師が一人、笛を構えた。
静まり返った小広間に、一音が、鳴り響く。
その瞬間、ハイム典礼官が、呼名を始めた。
「サラン侯爵、ご夫妻」
一拍、遅れて、東の扉から、長官の声が、聞こえてきた。
「ザルツ大公国使節団員、第一位」
遅れて、半拍。
ほんのわずかな、ずれだ。けれど、その半拍のうちに、中央で、二つの列の先頭が、同時に足を止めた。
どちらが、先に、進むのか。
サラン侯爵夫妻と、青い外套の局員が、一瞬、お互いを見た。
「……失礼しました。お先に」
サラン侯爵が、笑顔で、半歩、下がる。
局員も、慌てて、頭を下げ返した。
ほっと、息をつく。
けれど、マルタが、腕を組んで、眉を寄せているのが、視界の隅に入った。
その後も、入場は、続いた。
十数人目で、再び、ずれが出る。西の呼名が、東の呼名より、明らかに先になった。
東の扉は、小広間の端から、遠い。笛の音が、天井で、反響してしまう。長官の位置からは、一拍、遅れて、聞こえてしまうようだった。
三百六十名では、これが、致命的な混乱になりかねない。
私の胸に、嫌な汗が、滲んだ。
入場が、ひと通り、終わったとき。
席次表と照らし合わせて、私は、胸をなでおろした。
席札の誤りは、ゼロ。卓番号と席番号の取り違えも、なし。
円卓の上で、ベルナール伯爵夫人は、トビアスの隣に座り、にこやかに、言葉を交わしていた。
「ザルツの、お若い方は、礼儀正しくて、いらっしゃるのね」
「あ、ありがとうございます。いえ、その、恐縮です」
別の卓では、モーリス侯爵夫人が、局員の演じるザルツの随行者と、古い楽譜の話で、盛り上がっている。
円卓では、誰も、誰かの上に、座っていない。
座る人の目の高さが、揃っている。
それが、思っていたよりも、ずっと、場の空気を、柔らかくしていた。
帰り際、ベルナール伯爵夫人が、私の前で、足を止めた。
「あなたが、席を組んだのね」
「はい。作成補助、ではなく、作成を、担当しました」
「先月のクレイン家のお茶会では、ひどい目に遭ったわ。隣の席の方が、あの方で」
夫人は、そこで、苦笑した。
「今夜は、不思議なくらい、居心地が良かった。誰かの下でも、上でもない、というのは、思いのほか、楽なものね」
「恐れ入ります」
「恨み言では、ありませんよ。あの茶会のことは、あなたのせいではないもの」
夫人は、軽く会釈をして、帰っていった。
宴が、終わったあと。
準備室で、振り返りの会が、開かれた。
ヴァイス伯爵は、腕を組んで、卓の端に、座っている。
「まず、成果から」
長官が、書記の記録を、読み上げた。
「席札の誤り、なし。給仕の通路、問題なし。円卓での会話は、おおむね良好。協力の貴族の、事後の感想も、肯定的でした」
「問題点は」
ヴァイス伯爵が、すぐに、問う。
「入場の、呼名の合図です」
私は、手を挙げた。
「笛の音が、東の扉では、一拍、遅れて聞こえました。三百六十名の本番では、ずれが、積み重なります」
「対策は、ありますか」
「……まだ、ありません」
「正直で、結構」
ヴァイス伯爵が、わずかに、口元を緩めた。
そのとき、後ろの席で、小さな手が、挙がった。
「あの、ノール書記官」
トビアスだった。
借り物の外套を、まだ、羽織ったままだ。
「発言しても、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「東の扉から、見ていて、思ったのですが。中央の高台は、よく、見えました。笛の音が、遅れても、楽師さんの手元が、見えれば、合わせられたかもしれません」
「手元」
「例えば、旗です。笛を吹くのと同時に、白い旗を、振り上げる。東の扉からも、西の扉からも、見える高さに。音は、遅れても、旗なら、遅れません」
準備室が、静まった。
マルタが、短く、息を吐く。
「……音は、広間の端に届くのに、時間がかかる。光は、かからない」
「はい」
「ノール書記官。あなたにしては、上出来です」
「えっ、あ、ありがとうございます!」
トビアスが、真っ赤になって、背筋を伸ばした。
ヴァイス伯爵が、咳払いを、一つする。
「よろしい。旗と笛の併用を、条件に、円卓案の続行を、認めます」
「ありがとうございます」
「ただし」
伯爵は、私を、まっすぐに見た。
「万一に備えて、従来の長卓案も、並行して、準備しておくこと。ザルツの返答は、確かに、あった。ですが、約束を、保証するものでは、ありません」
「承知しました」
承知、と言いながら、胸の奥が、きゅっと締まる。
二つの案を、同時に、作ることになる。仕事は、倍だ。
けれど、これが、責任というものだ。
散会のあと、廊下で、マルタとすれ違った。
「ローレン書記」
「はい」
「今日の席次表に、条件は、つけません」
それだけ言って、マルタは、さっさと歩き去った。
条件のない賛成。この局で、一番、滅多に出ない評価。
私は、その場に、しばらく、立ち尽くしていた。
やがて、長官に呼ばれた。
机の上に、一枚の紙が、置いてある。本番の、席次表の、表紙だった。
長官の目の下の影が、前に見たときより、少しだけ、薄くなっている気がした。帰宅の規則を、守ってくれているのだ。
署名欄に、長官が、ペンを走らせる。
『作成 セシリア・ローレン』
最初に見たときの、『作成補助』の三文字が、消えている。
「……長官」
「あなたの、仕事です。事実のとおりに、書いたまでです」
長官は、淡々と、そう言った。
「ただし、責任者としての署名は、私も、します。二人の名が、並ぶ。それで、よろしいですね」
「はい」
声が、少し、掠れた。
初めて、公の書類に、自分の名前が載った日のことを、思い出す。
あのときは、「補助」の二文字が、私と、書類を、そっと隔てていた。
今は、ない。
「ありがとうございます」
「礼は、要りません。……いえ」
長官は、ほんの少し、考えて、言い直した。
「どういたしまして」
その言い回しが、なんだか、可笑しくて、私は、笑った。
その夜、下宿に戻ると、ブラント夫人が、玄関の前で、待っていた。
「あなた宛に、お屋敷から、届け物よ。侍女のアンナさんが、さっき、持ってきてくれたの」
差し出されたのは、小さな封筒だった。
淡い、桃色。
封蝋は、なく、宛名の字は、丸い。
息が、止まった。
裏には、一言だけ、添えられている。
『リリア』
ブラント夫人は、何も聞かずに、「夕食は、温めておくわね」と言って、台所へ戻っていった。
指先が、封筒の縁を、しばらく、なぞっていた。
一通目の手紙は、白い百合の温室へ、私を呼んだ。あの日、私は、答えを、はっきりと、置いてきたはずだった。
廊下の薄暗がりで、封筒の桃色だけが、やけに鮮やかに見える。
開けるか、開けないか。
私は、深く、息を吸った。




