宛名のある手紙
その夜は、ほとんど眠れなかった。
下宿の机の上に、封書を置いたまま、燭台の火が短くなるのを眺めていた。
開けては、いけない。
それは、分かっている。宛名は、ハインリヒ公だ。私は、受取人でも、差出人でもない。
けれど、封蝋の薄い赤が、目の端に、焼きついて離れなかった。
夜明け前に、私は、紙を一枚取り出した。
『王国暦七九二年 ザルツ大公国使節団接遇記録に関する発見報告』
事実だけを、書く。
発見の日時、場所、状態。封蝋は未開封。宛名は、ハインリヒ・フォン・ザルツ。筆跡は、署名と同一と思われる。目録への記載は、なし。
書き終えて、読み返した。
私の感想は、一字も入っていない。それでいい、と思った。
日曜の夜に、父が言った言葉が、頭をよぎる。
お前も、止める側に回りなさい。
止める、というのは、時に、開けない、ということでもある。開けたい手を、自分で押さえること。
私は、封書を、引き出しの奥へ、しまう。見えない場所に置くと、少しだけ、呼吸が楽になった。
出勤して、まず、マルタの席へ行った。
「ベル書記官。ご相談が、あります」
「聞きましょう」
「長官に、お伝えしたい件が、あって。ご同席を、お願いできますか」
マルタは、書類から顔を上げた。
私の手元の紙と、封書を、順に見る。
眼鏡の奥の目が、わずかに、見開かれた。
「……それは」
「昨日の夕方、書庫で、七九二年の記録を改めたときに。裏表紙の内側に、挟まっていました」
マルタは、封書を受け取らなかった。
ただ、宛名を、じっと見つめている。
「ルドルフ様の、字です」
声が、ほとんど、聞こえないほど、小さかった。
「綴じたのは、私です。二十年前。徹夜明けの朝に、記録の頁を揃えて、革の表紙に綴じた。……裏表紙の袋には、気づきませんでした。縫いつけたのが、いつなのかも」
「ベル書記官」
「分かっています。行きましょう」
マルタは、立ち上がった。
背筋は、いつも通りに伸びている。けれど、歩き出す足が、ほんの少しだけ、重かった。
廊下の途中で、マルタが、前を向いたまま、ぽつりと呟く。
「あの夜、ルドルフ様は、夜半に一度だけ、ペンを置いて、窓を見ておられました。何を書いておられたのか、私は、聞きませんでした」
「聞けなかった、のではなく」
「聞かなかったのです。二年目の、下っ端でしたから。……それを、今になって、後悔しています」
マルタが、自分の後悔を口にするのを、初めて聞いた。
私は、何も答えずに、半歩だけ、彼女の隣に寄る。
長官の部屋で、私は、報告の紙を、机に置いた。
事実だけを、読み上げる。
読み終えて、封書を、そっと、紙の隣に添えた。
長官は、身じろぎもしない。
宛名の文字を、長い間、見ていた。
窓の外で、鳥が、一声、鳴く。
「……父の字です」
「はい」
「私は、父の字を、よく覚えています。子どもの頃、机の上に、いつも、この字の書類があった」
長官は、封書に、指を伸ばして、触れる寸前で、止まる。
「父は、あの晩餐会のあと、局を退きました。身体を壊して、郊外の家で、三年、床に就いて。私が十のときに、亡くなりました」
初めて聞く話だった。
マルタが、目を伏せる。この人は、知っていたのだ。
「その間、父は、一度も、あの晩餐会の話をしませんでした。何を考えていたのか、私は、知りません」
長官の声は、平らだった。
平らすぎて、かえって、痛かった。
「……この手紙には、それが、書いてあるのかもしれない」
「長官」
「分かっています」
長官は、小さく息を吸った。
「開けるべきでは、ない。宛名人のある手紙です。局の規則でも、私の道理でも」
「はい」
「ですが、父の字を見て、そう言い切れるほど、私は、立派な人間では、ないようです」
その言葉が、正直すぎて、胸が詰まった。
かける言葉が、見つからなかった。
マルタも、黙っている。
やがて、長官が、私の方を向いた。
「ローレン書記。あなたの意見を、聞かせてください」
「私の、ですか」
「報告をしたのは、あなたです。あなたは、どうすべきだと、考えますか」
私は、手を、握りしめた。
決める立場ではない。けれど、問われている。
「……書記として、申し上げます」
声が、震えないように、ゆっくり言った。
「手紙は、宛名の方のものです。中身が何であれ、それは、変わりません。私たちが開ければ、書かれた方の言葉を、受取人より先に、読むことになります」
「息子の私が、知るべきでないことが、書かれていたとしても」
「知るべきでないことなら、なおさら、開けてはいけません。知るべきことなら、いつか、別の形で、伝わるはずです」
言い終えて、息を吐いた。
長官は、目を閉じる。
その間、私は、自分の言葉を、胸の中で、もう一度なぞっていた。
偉そうなことを、言ってしまった。開けたい気持ちは、私にも、確かにある。あの封書の中に、長官が二十年探してきた答えが、入っているのかもしれないのだから。
それでも、言わなければ、ならなかった。
長い、長い、沈黙のあとで、小さく頷く。
「……そう、でしょうね」
目を開けた長官の表情は、少しだけ、和らいでいた。
「決めました。到着の日、閲覧の立会いのあとに、この封書を、未開封のまま、ハインリヒ公にお渡しします」
「はい」
「記録の目録には、追記を。発見の経緯を、事実のとおり。ローレン書記、あなたの報告書を、そのまま添付してください」
「承知しました」
「それから」
長官は、封書を、私の方へ押し出した。
「これは、あなたが預かってください。書庫の、鍵のかかる箱に」
「長官が、お持ちになる方が」
「私が持っていると」
長官は、視線を、わずかに、逸らした。
「開けてしまいそうです」
あまりにも、不器用な、本音だった。
言ってから、長官自身が、居心地悪そうに、咳払いをする。
マルタが、小さく、鼻を鳴らす。笑ったのか、泣きそうだったのか、分からない。
私は、封書を、両手で、受け取った。
「お預かりします。到着の日まで、決して、開けません」
「……お願いします」
その日の昼、私は、記録の目録に、追記を書いた。
『目録外 封書一通。宛名、ハインリヒ・フォン・ザルツ殿。差出人、ルドルフ・グレイヴス(筆跡による)。未開封。到着日に、宛名人へ引き渡す予定』
書き終えると、長官が、署名をしてくれた。
『レオンハルト・グレイヴス』
父と、同じ姓。
同じ筆跡の、一部が、私の目に、そのまま映った。
午後、長官が、準備室に顔を出した。
「一つ、決めておくべきことが、あります」
「何でしょう」
「臨時書記の、延長の期間です。先日は、期限を定めないまま、更新しました」
そう言えば、そうだった。
「建国祭の、終了日まで、とします。使節団の接遇が、すべて終わるまで。あなたが、局に残るかどうかの答えは、その翌日までに、お願いします」
「はい。承知しました」
答えは、すぐに、出た。
その日までは、迷わなくていい。迷う前に、やるべき仕事が、山ほどある。
「最後に、一つだけ」
長官は、少し、言いよどんだ。
「今日の件で、あなたに、礼を言うのは、規定に、ありません」
「はい」
「ですので、規定に、よらずに、言います。……ありがとう」
今度は、報酬規程の、第何条とも、言わなかった。
私は、少し、笑ってしまった。
「いいえ。書記の、仕事ですから」
長官が出ていくと、トビアスが、そっと近づいてきた。
「ローレン様。今朝、ベル書記官の様子が、いつもと違っていた気がするのですが」
「そうですか?」
「眼鏡を、二度、拭いておられました。普段は、一日に一度もないのに」
私は、少しだけ考えてから、答えた。
「きっと、気のせいです。……でも、今日は、紅茶を、多めに用意しておきましょうか」
「はい。それがいいと思います」
トビアスは、嬉しそうに頷いた。
夕方、書庫に封書を納めに行くと、マルタが、先に来ていた。
棚の前に立って、七九二年の記録の、席次表の頁を、開いている。
「ベル書記官」
「鍵のかかる箱は、そちらの棚です」
マルタは、振り返らずに、棚の一角を指した。
「ありがとうございます」
封書を、箱に納めて、鍵をかける。箱の鍵は、書庫の鍵とは別の、小さな真鍮の鍵だった。それを、上着の内側へ、大切にしまう。
マルタは、まだ、頁を見つめていた。
「ローレン書記」
「はい」
「あの夜の席次表で、一番の末席に、座らされた人の名を、覚えていますか」
私は、棚の前に戻った。
七九二年の席次表。
一番長い卓の、一番端の席。
そこに、書かれた名前を、読む。
『ハインリヒ・フォン・ザルツ(随行)』
「……ハインリヒ公、ですか」
「ええ。二十五歳の、青年随行者。のちの団長。あの夜、一番、遠い席に、いた人です」
マルタは、頁を、そっと閉じた。
「その席を、ルドルフ様は、直そうとしておられた。私は、それを、覚えています。直そうとして、結局、直せなかった」
「なぜ、末席に」
「七柱の序では、母方の家系が、低かったのでしょう。大公家の一族であっても」
マルタは、そこで、言葉を切った。
私も、何も言えなかった。
七柱の序を、求めてきた人。
二十年前、その序列のために、末席に座らされた人。
手紙の宛名は、その人の名。
序列の作法を、書状でわざわざ求めてきたのは、誇りのためか。それとも、あの夜の記憶を、塗り替えたいからなのか。
どちらなのか、私には、まだ、分からない。ただ、あの要求の重さが、これまでとは違って見えた。
書庫の暗がりに、箱の鍵のかかる、小さな音が、残っていた。
その音が、二十年という時間の、重さにも聞こえる。




