二つの扉
準備室には、重い沈黙が落ちていた。
長い作業卓の端に、ハインリヒ公の書状が置かれている。誰も、それに手を伸ばさない。
「母方の家系を、当日まで明かさない」
トビアスが、小さく呟いた。
「それでは、席次表は、作れないではありませんか」
「作れませんね」
マルタが、あっさりと答える。
「作れない、と、嘆くのは簡単です。ですが、嘆いても、一枚の紙にもなりません」
彼女は、白紙を一枚、私の前に滑らせた。
「三つに分けなさい。分かっていること、分からないこと、こちらで決められること」
私は、ペンを取った。
紙を、縦に三つに折る。
左の欄に、『分かっている』と書く。
ザルツの随行者は四十四名。名簿には、父方の名と称号がある。来訪は、建国祭の三日前。
真ん中の欄に、『分からない』。
母方の家系。それに基づく、七柱の序での順位。
右の欄に、『決められる』。
ここで、ペンが止まった。
何が、決められるのか。
私は、真ん中の欄の言葉を、じっと見つめる。
序列。順位。呼ぶ順番。
それは、席の位置ではない。
「……あ」
声が、漏れた。
「ローレン様?」
「席です」
私は、顔を上げた。
「席そのものには、序列をつけない。それが、円卓案の、土台でした。ならば、席の割り当ては、順位を知らなくても、作れます」
「どういうことですか」
「卓に誰と誰が座るかは、お名前で決められます。争いのない組み合わせ、話の通じる組み合わせ。必要なのは、家同士の関係と、お人柄と、言葉の通じ具合です。順位は、要りません」
マルタが、眼鏡の奥で、目を細める。
「では、順位が必要なのは」
「入場と、呼名の順番だけです。それは、到着の日に、団長が告げてくださる。建国祭の三日前に」
「三日あれば」
トビアスが、はっとした。
「四十四枚の呼名札を、書けます」
「書記が六人いれば、半日です」
マルタが、淡々と数字を挙げる。
「その三日間を、確保しておくこと。書く者の手配も。今から、日程に、組み込みなさい」
「はい」
右の欄に、私は、書き込んだ。
『席の割り当ては、名前で、今、決める』
『呼名札は、金縁のみ先に作り、順位の欄は空けておく』
『到着後三日で、順位を記入』
紙の上の空欄が、一つ、埋まった。
けれど、まだ、足りない。
「問題は、もう一つ」
私は、手を止めずに、続けた。
「入場の順番です。ザルツの四十四名と、ヴェルデンの三百十六名。それぞれの序列で並べたとして、二つの列を、どう、一つにつなぐのか」
「交互に入れるのですか」
「それでは、四十四名の後ろに、ヴェルデンの方々が、二百七十名以上、残ります。ザルツの方々は、半分も進まないうちに、入り終わってしまう」
「列が、混ざらない」
マルタが、呟いた。
「二十年前の記録に、答えが、ありませんでしたか」
私は、地下から持ってきた記録を、もう一度、開いた。
三件の抗議。
その内容を、初めて、一行ずつ、丁寧に読む。
一件目、席の並び。
二件目、入場の順。ザルツ側が先か、ヴェルデン側が先か、で揉めた。
三件目、同じ。入場の順。
「……三件のうち、二件は、席ではありません」
私は、ページを、卓の中央へ押し出した。
「入場の順です。席が悪かった、と、あの夜は、思われていた。けれど、本当に揉めたのは、誰が、先に、扉をくぐるか、でした」
「一つの扉に、二つの国が、並んだから」
「はい。ならば」
私は、広間の図面に、手を伸ばした。
大広間には、大きな扉が、二つある。西の正門と、東の回廊に通じる側扉。
「二つの扉から、同時に入場していただきます。西の扉から、ヴェルデンの方々。東の扉から、ザルツの方々。それぞれが、自国の序列で、一列に。広間の中央で、二つの列が、出会います」
「どちらが先、という問題が、なくなる」
「はい。同時ですから。典礼官が、二人、両方の扉の前に立って、同じ鐘の合図で、呼名を始める」
マルタは、しばらく、図面を、睨むように見つめていた。
やがて、腕を組む。
「鐘の合図を、どうやって、合わせますか。広間の端と端では、声が、届きません」
「……それは」
「楽師を、一人、中央の高台に立たせなさい。笛でも、鐘でも。両側の典礼官が、同じ音を聞いて、同時に、名を呼ぶ」
「はい」
私は、慌てて、書き足す。
トビアスが、感心したように、息を吐いた。
「なんだか、ローレン様とベル書記官で、一つの頭が、動いているみたいです」
「私と、ローレン書記を、一緒にしないでください」
マルタが、即座に言い返す。
けれど、頬が、ほんの少しだけ、緩んでいた。
長官が、準備室に入ってきたのは、そのときだった。
「全員、揃っていますか」
「はい」
長官は、卓の上の紙に、目を落とす。
三つの欄。二つの扉。笛の合図。
「……説明を、お願いします」
私は、順に説明していく。
話し終えるまで、長官は、一言も、口を挟まなかった。
「分かりました」
最後に、そう言って、顔を上げる。
「ヴァイス伯爵に、この修正案を、報告します。入場の二扉案も、含めて」
「はい」
「ローレン書記」
「はい」
「報酬規程の、第七条に照らして」
唐突に、長官が言った。
「業務上の、特別な貢献があった場合、局員に、感謝を表することが、認められています」
「……はあ」
「よって、本日、礼を言います。ありがとう」
あまりにも、堅い言い方だった。
トビアスが、思わず、吹き出しかけて、慌てて口を押さえる。マルタが、咳払いで、それを隠した。
私は、ペンを持つ手に力を込めて、笑いをこらえた。
「……恐れ入ります」
長官の耳が、わずかに、赤い。
「それと、もう一件」
長官は、書状の最後の一文を、指で押さえた。
「記録の閲覧の件です」
部屋の空気が、また、引き締まる。
「典礼局の記録は、国外からの閲覧要請があれば、侍従長官房を通して、長官が審査します。原則は、局内での、立会いのうえでの閲覧。写しの持ち出しは、認められません」
「お見せになるのですか」
「拒む理由が、ありません」
長官は、静かに答えた。
「あの記録は、事実です。事実を隠す局では、ありません。……たとえ、誰の署名が、あっても」
最後の一言は、とても、小さかった。
「到着の日に、局にて、立会いのもと、閲覧に供する旨を、返書に書きます。それで、よろしいですね」
「異論は、ありません」
マルタが、頷く。
私も、黙って頷く。
午後、トビアスと二人で、大広間の二つの扉の間を、歩いて測った。
西の正門から、東の側扉まで、ゆっくり歩いて、八十歩。
「ここからだと、向こうの人の顔が、見えませんね」
「だから、笛なのです」
広間の天井は、高い。笛の音が、どこまで届くのか。楽師の手配は、あとで、ヴァイス伯爵の官房に頼むことになるだろう。
東の側扉の前に立って、私は、ふと、扉の飾りを見上げた。
正門の扉には、金の唐草が、彫られている。こちらの扉は、白木に、簡素な鉄の取っ手が、付いているだけだ。
嫌な予感がした。
案の定、夕方に、侍従長官房で、ヴァイス伯爵に修正案を説明すると、伯爵は、すぐに、そこを突いた。
「東の側扉は、給仕と楽師が使う扉です」
「はい。存じています」
「ザルツの賓客を、使用人の扉から入れるおつもりか」
部屋の温度が、すっと、下がった気がした。
長官が、口を開きかけた。
私は、小さく首を振って、先に答える。
「当日のみ、東の側扉を、正門と同格に整えます。金の唐草を、布の覆いで再現し、近衛兵を、二名ずつ、両側に立たせます。扉の格は、そこを通る方々で、決まるものと、考えます」
「布の覆いと、近衛兵」
「見積もりに、追加します。費用は、準備室の予算の範囲に、収めます」
ヴァイス伯爵は、しばらく、私を見ていた。
「……楽師は、官房から、四名、出しましょう」
「ありがとうございます」
「勘違いなさらぬように。あなたの案を、認めたのではない。穴を、一つ、塞いだ。それだけです」
「はい。承知しております」
帰りの廊下で、長官が、小声で言った。
「今回は、止めませんでしたね」
「止められました。先に、答えましたが」
「……そうでしたか」
長官は、前を向いたまま、小さく口元を動かす。
その日の終業後、私は、書庫へ下りた。
返書を出す前に、記録の最終頁を、もう一度、確かめておきたかった。ハインリヒ公に見せるなら、欠けや汚れがないか、立会いの前に、書記が改めておくのが、規則だ。
手燭の灯りで、七九二年の記録を開く。
長官の、小さな声が、まだ耳に残っていた。たとえ、誰の署名があっても。
事実を隠さない、と言い切る人が、その言葉の底で、何を飲み込んでいるのか。私には、まだ、分からない。分かるべきでも、ないのかもしれない。
私は、書記だ。記録を、傷つけずに、立会いの日まで守る。それが、鍵を預かった者の、仕事だった。
表紙の裏。
署名の頁。
最後の紙を、慎重にめくったとき、指先に、何かが当たった。
裏表紙の内側に、細い革の袋が、縫いつけられている。そこに、一通の封書が、挟まっていた。
薄くなった封蝋。宛名が、ある。
『ハインリヒ・フォン・ザルツ殿』
筆跡は、記録の署名と、同じだ。
ルドルフ・グレイヴス。
封蝋は、割られていない。
二十年前に、書かれて。
誰にも、送られないまま、ここに、あったのだ。
この封書は、記録の目録に、載っていない。
載っていないものを、勝手に開く権利は、私にはない。かといって、見なかったことにするのも、違う気がした。
宛名は、ハインリヒ公。二十年を経て、いま、こちらへ向かっている人だ。偶然では、あるまい。そう思ってしまう自分を、止められない。
私は、息を詰めて、その封書を、見つめた。
手燭の火が、ゆらりと揺れた。




